言い返したくても、ジルは何も言えなかった。


もしもクロウの身に何かあったら、エドガーに対して何をするか自分でも分からない。


(どうして、こんなことに……)


リックに握られている手首からじりじりと傷みを感じているうちに、ジルは急に悲しくなってきた。


つい先日まで、ジルはとても幸せだったのだ。毎日畑仕事に勤しみ、胸を高鳴らせながらクロウとからかい合い、エレナの作ってくれたおいしいご飯を食べ、ランバルドの穏やかな笑顔に癒される。当たり前だったそんな毎日が愛しくて虚しくて、涙が込み上げてくる。


「……なんだよ」


睨みながら唇を食み涙を滲ませるジルを見て、リックが戸惑うような声を出す。


やがて乱暴に手を離すと小さく舌打ちをし、「これだから女は嫌いなんだ」と呟いた。





「リック」


そこで、ジルの背後から何者かの声がした。


はっとしたジルが振り返れば、ライトブラウンの髪を後ろで束ねた中年の男と目が会う。四十代といったところだろうか、理知的な眼差しをした一見して聡明さの分かる男だった。ダークグレーの高級そうなジュストコールを身に纏い、背筋をすっと伸ばして歩む様子からは、彼が一介の使用人ではないことが伺える。


「サンド様」


途端に姿勢を正し、頭を垂れるリック。どうやらこのサンドという男は、城の中では特別な存在であるリックすら頭が上がらない身分のようだ。


「宰相のサンド様だよ。頭を下げろ」


リックに促され、ジルも小さく頭を下げる。しばらくして顔を上げると、静かに視線を注ぐサンドのブラウンの瞳と目が合った。


「エドガー様が急に近従にすると言い出した、例の娘です」


リックの声に、「知っている」とサンドは無機質な声を返す。


「リック、その娘に手荒な真似はするな」


「……でも、こいつやたらと反抗的な目をするんです。こんな得体の知れない女をエドガー様のお傍に置くことは、いくらエドガー様ご本人の希望であっても納得できません」


「お前の意見などどうでもいい。お前はただ、黙って殿下の命令に従ってればいいんだ。それが出来ないのなら、お前など不要だ」


「……っ」






サンドの冷ややかな返事にリックは一瞬悔しそうな顔を見せたものの、すぐに目を伏せた。


「……分かりました」


「お前も、もちろんエドガー様が後継者となられることを望んでいるんだろう? その娘は大事な切り札だ。それを忘れずに接しろ」


「……仰せのままに」