***
(カマキリに何としてでも、一泡吹かせてやる!)
ぼんやりした頭をしっかり刺激すべく熱いコーヒー片手に、サクサク書類を作り上げた。朝から全力で頑張った。勿論それは時間が余るくらいの余裕ぶりで、目の前のデスクにいるカマキリに胸を張って書類を提出してやった!
(――よし、この勢いで次の仕事もやっつけちゃおっと)
「朝から、よく頑張ってたみたいだね」
いそいそと不要な書類を片付けていたら、隣で仕事をしている小野寺先輩に声をかけられた。
「実は昨日仕上げなきゃいけない書類を、今日になって急いで片付けていただけなんです」
肩を竦めながら言ったら、プッと苦笑いされてしまった。
「俺も君が来る前に、こってりと鎌田先輩にやられたもんなぁ。交代出来て、良かった良かった」
同じように肩を竦めて、小さな声で言う。
「それよりも君の仕事ぶりの良さとは正反対になってる本日の鎌田先輩に、何かアドバイスでもしてあげたら?」
「えっ?」
「パッと見はいつも通りに見えるんだけどさ、時々フリーズしたままになっているだよな」
「固まったまま、動かなくなっているんですか?」
「そうそう。何ていうか映像に出てる人を、一時停止ボタンで動きを止めた感じでさ。ま、固まっても長くて20秒くらいだけど、いつもより効率が悪いだろうね。あの人、大事な案件かかえているし、色々考えることがあるのかも」
腕組みをしながら、斜め前の鎌田先輩を見やる。
「そういう小野寺先輩は、仕事をしなくていいんですか?」
「後輩に仕事のことを心配される、俺って一体。大丈夫、午後から会議に使う書類の確認をしっかりしながら、本日の記念日に向けていろいろ考えてるんだ」
仕事の合間に? 小野寺先輩ってば器用だな。
「今日は彼女と付き合って、一ヶ月記念日なんだよ。俺ってばギター弾けるからさ、作詞作曲して彼女に捧げる歌を作っててさぁ。男は恋をすると詩人になるのかも」
白い眼で見ているのにも関わらず聞いてもいないことを、得意げに次々と話し出していく。正直なところ私としては、次の仕事がしたい。
ゴホゴホゴホッ!!
「鎌田先輩っ!?」
突然、鎌田先輩が激しく咳き込んだ。
心配になってデスクに回りこんでみると、目の前が白い何かでいきなり覆われた。よく見たらそれはさっきの書類で、鎌田先輩が突きつけたみたい。
恐るおそるそれを手にして窺うように鎌田先輩の顔を見たら、ちょっとだけ涙目で何気に苦しそうな表情を浮かべていた。
「あの、大丈夫ですか?」
「飲み物が、少しだけ気道に入っただけです。心配いりません」
「……はぁ」
何だ、心配して損しちゃったかも。
そんなことを思っていたら持っている書類の上の部分に指を差し、ギロリと睨んでくる。涙目のままなのであまり怖くはなかったけれど、何かを指摘されるのは今までの経験上分かっていたので、体を小さくして小言に備えた。
「それよりもここ、間違っています。見ている資料が違うのかもしれませんので、きちんと確認してきて下さい」
「分かりました、資料室に行ってきます」
あーあ、またしても完璧に仕事をこなせなかった。ドジっちゃった――
しょんぼりしながら肩を落として、資料室に向かったのだった。
***
あからさまに肩を落として出て行った彼女の後ろ姿を、こっそりと横目で見送っていたら。
「鎌田先輩って、もしかして策士?」
唐突に小野寺が話しかけてきた。一瞬、言葉が出なかった――作戦がバレているのだろうか?
目の前にいる小野寺に視線を飛ばしてみると、どこか怜悧な眼差しで俺のことを見ている。
「何のことでしょうか?」
「先輩のデスクの上にある青いファイル、もしかして彼女が必要としているものじゃないんですかね」
そこを指差しながら、丁寧に指摘してきた。
「…………」
「珍しいですね、完璧主義の先輩がミスるなんて。何か俺に出来ることがあれば、率先して手伝いますよ」
微笑みの貴公子風な笑みを浮かべ、小野寺が提案してきたのだが。
(――コイツの笑顔が、実は厄介なんだ)
「申し出は有り難く、別の仕事で受け取らせてもらいます」
素っ気なく対応すると、意味深な笑みをキープしたまま凝視してきた。その視線に負けないように、メガネの奥から睨み返してやる。
「鎌田先輩ってば好きなコに対しては、いじめちゃうタイプだったりして? クラスに必ずいますよね、そういうヤツ」
「……何が、言いたいんです?」
「愛だの恋だのにうつつを抜かしてたら、仕事に支障が出るっていう真面目な話です。その内、足元をすくわれますよ」
「君と、一緒にしないでいただきたい」
手元にあるファイルを彼女のデスクに置き、小野寺からの視線を断ち切る様に背中を向けて、さっさとその場をあとにした。
「その資料、俺が持っていたことにしてもいいっすよ」
実にのん気な声が後ろからかけられる。
(俺に、恩を売るつもりなのだろうか――)
「一昨日のプレゼンで、助けてもらったお礼ですよ。深い意味はありませんから」
顔だけで振り返ると唇に人差し指を当てて、シーという仕草をしていた。
「そんな気遣いは結構です。午後からの会議のまとめを、しっかりして下さい」
「わっかりました、しっかりまとめまぁす!」
なぜか敬礼をして気味の悪い笑顔をしている小野寺を一瞥し、彼女がいる資料室に向かった。
***
俺にとっては超苦手な鎌田先輩が、資料室に向かったのをしっかり確認してから、ヤツのデスクにある書類を見やる。
パラパラめくっていると、突然白紙が出てきた。
不思議に思いながら、それを引っ張り出して中身を確認。裏面に書いてある文章を最後まで読みふける。その内容に、自然と笑みが浮かんでしまった。
「俺だけじゃなく、鎌田先輩も恋する男だったんだ。へぇ、なかなかいい詩、書いてるじゃないか。早速今夜これを使わせてもらおうかな」
書類からそれをしっかり抜き取り、丁寧に折りたたんでから背広の内ポケットにしまう。そしてデスクを元の状態に戻してから、しれっとした顔で自分の席に戻った。
利用価値のあるヤツが、自分の傍にいるのは有り難いね。
くっくっくと笑いながら、言いつけられた仕事をしてやったのだった。
***
「急がなきゃ!」
午後一時半から始まる会議に、何としてでも間に合わせなきゃならない。
慌てて資料室に入り、たくさんあるファイルと格闘すべく対峙した。手に汗を握りながら、上から下まで隅々チェックしてみたけど、該当したファイルが全く見当たらない。
最後の手段と考え半泣き状態で、扉にかけてある入室記録簿を確認してみた。最近使用した人は小野寺先輩と鎌田先輩、それと隣の部署の三人だけ……
(――良かった、大人数じゃなくて)
そう思った瞬間、背後に人の気配を感じたので振り向いてみたら、鎌田先輩が腕組みをしながら棚にもたれ掛かって、こちらを見ているじゃないの。しかも、口の端を上げて笑っているなんて……
明らかに私が困ってる状態を、背後から眺めて楽しんでいるみたいだ。
鎌田先輩の様子にイラッとしたけれど、何とか感情を押し殺して彼の傍に駆け寄った。
「あの資料を探したんですが、全然見つかりませんでした」
「そのことですが、私のデスクにファイルがありました。申し訳ない」
「へっ!?」
「調べ物に夢中になっていて、うっかりしていたようです」
先ほどまで浮かべていた笑みを消し去り、頭を下げる。鎌田先輩が謝っただけじゃなく、私に向かって頭を下げるなんて信じられないことだった。
……そういえば小野寺先輩が、今日の鎌田先輩はおかしいと言っていた。私がドジるならまだしも、鎌田先輩がそんなうっかりをするなんて。
(――アレッ!?)
「じっ、じゃあどうして、声をかけてくれなかったんですか?」
私が慌てふためいている状況を真後ろで、実に楽しそうに見学していた。
「だって鎌田先輩、ムダが嫌いだって言ってましたよね。これは明らかに、無駄な時間を過ごしたと思うんですけど」
ちょっと憤慨して訴えてみる。もうあまり、時間がないというのに――
「君は、資料室を堪能しましたか?」
「堪能?」
「ここにある資料ファイル、項目別の年式や配置がきちんと整えられているでしょう」
そういえば乱れがなかった。だから調べるのにそんなに時間をかける事なく、探しているファイルがないのが、短時間で分かったんだ。
「たまにしか使われていないという理由で乱れがないのですが、おおむねこの配置を常にキープしているんです。この配置を頭に叩き込んでおけば、使いたい時に簡単に見つけ出す事ができ、尚且つムダな時間をかける必要はありません」
「あ――」
「新人など下の者は雑務が中心ですから君もそろそろこの配置を、覚えておいてもいい時期なのでは?」
「もしかして、それをさせるのに資料室に……」
「一見ムダに見える時間でも、君にとっては有意義な時間だったでしょう?」
ふわりと笑いながら、優しく頭を撫でてくれた。とってもあたたかい手の平――それを感じた瞬間、頬が熱を持ってしまって、心臓が一気に駆け出してしまった。
そんな顔を見せないようにすべく思いっきり俯き、体をふるふると強張らせたら、頭を撫でていた手がそっと引っ込んでいく。
「君のデスクに、ファイルを置いておきました。これから急いで、作業に取りかかって下さい。終わったら、目を通しますので」
「はい……」
やっぱりすごいな鎌田先輩。文句を言ってしまった自分が、いろんな意味で恥ずかしいよ。
「最後までしっかり、資料を確認して下さい。それと……」
妙な間に違和感を覚え恐るおそる顔を上げたら、眉間にシワを寄せながら顎に手をあてて、何かを考えている姿が目に映った。
「……何か、他にあるんですか?」
鎌田先輩が二の句を告げないので自分から話しかけてみると、ハッとした顔をしてからメガネを押し上げる仕草をした。
「その……小野寺と話す時間があるのなら、自分の仕事に精を出しなさい」
「わかりました。それこそ時間の無駄ですもんね、急いで修正してきます!」
その場に佇む鎌田先輩にきちんとお辞儀をしてから、急いで自分のデスクに向かった。
むー、次はどうやって小野寺先輩の話を断ろう。お喋りな彼の言葉を遮るのは結構、難題だったりする。
部署に戻りながら、鎌田先輩が撫でてくれた頭を意味なく触ってみた。昨日といい今日といい、鎌田先輩にドキドキしっぱなしなんて、どうかしてるかも――
「っ、ドキドキしてる場合じゃないんだってば! 集中して書類の直しをしなきゃ」
頬を叩いて気合を注入したお陰で、きちんと書類の修正をする事が出来たのだった。
***
気味の悪い小野寺の視線を振り切り、足早に資料室へと向かう。相当慌てて入室したのだろう、扉が大きく開け放たれたままになっていた。
手に取るように分かるその様子に思わず苦笑いしながら中に入ってみると、真剣な顔をしてファイルと格闘している、愛しい君の姿があった。
(そんな姿を、いつまでも眺めていたい――)
物音を立てないよう資料室の隅に移動し、声をかけずにじっと見つめた。
何とかしてやろうとする勇姿にコッソリと胸をときめかせていたら不意に顔を上げ、扉に掛けてある入室記録簿をチェックし始める。いい所に気が付いたらしい。
思わず笑ったら、突然君が振り向いた――どうしてここにいるんだと顔に書いてある様相は、さらに笑いを誘うものだったが、それだけ集中して探していたんだろう。
俺が自分のミスを口にし頭を下げたら、途端に君の顔が曇った。しかも後ろから眺めていたことに、苦情を述べられる始末。そんな生意気なところさえ、可愛くみえるなんて相当重症だ。
資料室の正しい使い方と無駄じゃない時間のことを教えると、一瞬にして態度が変わる。表情がコロコロと百面相。シュンとしている君を励ましたくて、頭を撫でてあげた。
フワフワな髪が、指にまとわりつく。
ドキッとしたのを悟られぬように、無機質な声で指示をしてしまう。当然、君の顔は曇ったままだったが、頬が赤くなっていたのは見間違いだったのかな。
気を取り直して、伝えなければならない資料のことを言ってみる。
「最後までしっかり、確認して下さい」
とだけ言うつもりだったのに思わず、いらない言葉が口から飛び出してしまった。資料室に向う前の小野寺とのくだりが、どうしても胸に引っかかっていたのだ。
思わず考えこむ――小野寺と喋ると妊娠するぞ。なぁんて脅すべきか、それとも他に何かいい言葉が見つからないだろうか……。
考えあぐねていたら焦れた君が声をかけてきたので仕方なく諦め、普通に注意を促すしかなかった。今は、これしか思い付かない。
しっかりお辞儀をして去っていく君の後ろ姿を見ながら、髪に触れた手をそっと握りしめた。
たったこれだけのことで、舞い上がる自分に苦笑してしまう。
――こんなにも、君に惹かれているなんてな――
そんな嬉しさを噛みしめながら、彼女の後を追うように足早に部署に戻った。そして自分のデスクを見たとき、何となく違和感を覚えた。物の配置が、微妙にズレていたのだ。
こういう場合、何かなくなっている物がある。今までの経験上それが分かっていたので、探す行為は容易なことだったのだが。
重要書類の確認、ファイルの中、パソコンのデーター。仕事上の物は、何も盗られていなかった。用心のためにこれからは鍵のかかる引き出しに、書類関係を片付けることに決める。
他になくなっている物をチェックしていく内に、書類に挟んでいたアレが無くなっているのに気がついた。あんな駄作を盗っていったヤツの気が知れない。
自作の歌詞の盗難――ここでコッソリと、歌詞を書くことができなくなってしまった。彼女の姿を目に留めるだけで、自然と歌詞が浮かび上がってきたのに。
だが一体、誰の仕業なんだろうか……?
***
ファイルを見直しきちんと修正して鎌田先輩にOKをもらってから、急いで必要な枚数をコピーする。次々とでき上がる書類を見ながら、思わずため息をついてしまった。
『最後までしっかり、資料に目を通して下さい』
その言葉通りにしっかりと目を通した結果、私の手元にはとある紙が一枚あった。そこには(クロノス ライブ予定表)と書かれたタイトルと一緒に、今後のスケジュールが手書きで記載されていた。しかも、リハーサルまで書いてあるとか……。
「これを一体、私にどうすれと?」
予定を見てライブ会場に顔を出しなさいという、上司からの業務命令――?
深いため息を一つついたときにちょうどコピーが終わったので、書類をまとめて綴じてから鎌田先輩のところに持って行く。
「会議の書類、でき上がりました」
目の前に差し出していつも通りに話しかけてみると、メガネの奥から覗き込むように私の顔を見ながら素っ気なく口を開く。
「ご苦労様でした。次の仕事がデスクに置いてありますので、すぐに取り掛かって下さい」
なぁんて指示してきた。何となくだけど、とある紙について質問しにくい態度だよなぁ。
「ぼーっと突っ立って、何をしているんです? 早く取り掛からないと、時間がありませんよ。それとも何か、聞きたいことでもあるんですか?」
ちょっとだけ眉間にシワを寄せ、追い立てるような早口で言われると、尚更聞きにくい。しかもその物言いも、コワくて聞けない。
「うっ……。聞きたいことはありません。すぐに取り掛かります」
ただならぬ雰囲気を感じとり、鎌田先輩の傍から離れるべく踵を返した。
(この紙の意味は、本当に何!?)
どうしたらいいのか分からないまま、その後いいつけられた仕事をした。
正直、モヤモヤする。心の中はどうしても納得がいかない状況だったけど、定時を忘れて真剣に書類と格闘していた。手元にある書類を横にどけた瞬間、ポンと肩を叩かれて驚いてしまい、変な声が出てしまう。
「ひゃっ!?」
「お疲れ! お先に失礼するね」
魅惑的な微笑みを口元に浮かべて、小野寺先輩が言う。その様子にしっかり頭を下げながら、ニッコリと微笑み返してあげた。
「お疲れ様です」
「定時を忘れるくらい仕事に没頭してたら、誰かさんみたいにこんなになるよ」
両手の人差し指を使ってつり目を作り、眉間にシワを寄せて誰かさんのマネをする。その表情が思いのほか似ていて、笑いを堪えるのに必死だった。
「記念日、頑張って下さい」
「頑張る頑張る! いい曲、歌ってみせるよ」
「小野寺、お疲れ様でした」
私たちの他愛ない会話に、素っ気ない声が割り込んできた。パソコン画面を見ながらこちらをチラリとも見ずに、鎌田先輩が言ったのだ。
右手で私にバイバイしながら部署を出て行く小野寺先輩に、視線だけで挨拶した。
――ああ……またやってしまった。鎌田先輩から、ツッコミが入る前に帰っちゃおっと。
ちょっとだけ肩を竦めてデスクの周囲を片付けたら、例の紙がひょっこり現れる。その様子が、見つけてくださいと言わんばかりで、どうにも収まりが悪い。
どうしようかと思いながら上目遣いで、目の前の人を見つめてみた。
眉間にシワを寄せながら鮮やかな指さばきで、パソコンを操っている。例えるならピアノで、高速ネコ踏んじゃったを弾いているみたいだ。
不機嫌丸出しな鎌田先輩はとっても怖いけど、このままスルーするのも逆にコワイ。
なけなしの勇気を振り絞って(それこそなけなしだよ)両手をデスクに置いて勢いよく立ち上がり、鎌田先輩の傍に行く。
「……何か、用ですか?」
いつも通りの素っ気ない物言いに一瞬躊途惑ったけど、例の紙を目の前に思いきって突き出してみた。すると視線が私に向けられ、内心ドキドキしてしまう。
「……」
「……」
無言――そして視線がジリジリと痛い。お互い言葉が出ない。何て切り出していいのか、全然分からない。
困り果てる私を見てるメガネの奥にある眼差しが、フッと優しくなったように見えた。
(鎌田先輩って、こんな顔もするんだ――)
「昨日はどうでしたか? ……それは驚いたことでしょうね」
視線をパソコンに戻し、また仕事を始める。刺すような目線から開放され、ちょっとだけ緊張感が解けた。
「鎌田先輩?」
「君の顔が、呆気にとられていました」
適度に客で埋まっていたライブハウスの会場の中で、私をよく見つけられたな――さすがは鎌田先輩と言うべきか。
「正直驚いてしまって……いつもと違っていたから」
スポットライトの中で生き生きと――
「……それで?」
食い入るような視線で私の顔を見たけど、キーボードの手は止めない。
『それで、具体的な対応策は?』
と聞かれた一昨日も、確かこんな状況だった。何かしら、きちんと答えないとヤバい。だって一昨日叱られたんだもん!
声にはしなかったけど、私が先に質問を投げかけたハズなのに、なぜ逆に聞かれているんだろうか。
ぼんやりと昨日の鎌田先輩を思い出してみたのだけれど、その姿が衝撃的過ぎて他のことがまったくもって思い出せない。
金魚のように口をパクパクしている私を見て呆れてしまったのか、鎌田先輩がため息をつきながら視線をパソコンへと戻してしまった。再び視線の呪縛から解放され、ホッとしてしまい思わず――
「先週見たバンドは、結構良かったです」
記憶のハッキリしていることを、口に出してみた。
「先週?」
「友人とあちこち、ライブハウス巡りをしているんですが……」
言葉を続けようとしたけど、目の前で行われている行動に息を飲みこんでしまい、二の句が告げなくなってしまった。
パソコンを見やる鎌田先輩の顔が瞬く間に鬼のような形相になり、キーボードを操る指使いはピアノを弾く感じを通り越して、叩きつけるようになっていて。
――私ってば、またしてもやってしまった感じ。地雷を踏んじゃったのかな……
だけど理由が分からない。私の台詞に、怒らせるような要因があるとは思えないのに。
「あのですね……バンド巡りしてるのは、自分好みのイケメンを捜しているだけでして、そんでもってなかなか素敵なイケメンに会えない所に、鎌田先輩と偶然出会ってしまった、というか」
ジロリと睨むように私の顔を見る、その視線が痛い。グサグサと突き刺さってくるみたい。
「今まで出会ったバンドの中で、鎌田先輩が一番素敵でした」
「…………」
その時の鎌田先輩の眼差しが、意外なモノを見る目付きになった。そしてポロポロッと余計なことを喋ってしまった自分に、更に驚くしかない。
「今、自分が何を話したか、きちんと理解していますか? まるで支離滅裂です」
「……はい」
「で?」
で? の意味が分からない。赤くなったり青くなったりする私に対し心底呆れたのかパソコンの手を止め、デスクに頬杖をつきながら白い目をして、しっかりとこっちを凝視する。
「何ていうバンドなんです、先週見に行ったというのは?」
――う~、覚えていないのだ、すべて愛子任せな私。
「……わかりません。だけどライブハウスは、しっかり覚えてます」
「そうですか」
鎌田先輩、しばし沈黙。何かを考えているみたい。
と思ったら突然パソコンの電源を落として、書類を片付け始める。だけど途中でフリーズ――顎に手をあてて、またしても考え始めちゃった。
思慮が深すぎて全くついていけないけど、何か力になりたい! そういえば確か、厄介な案件を抱えてるって小野寺先輩が言ってたな。
「鎌田先輩、私にでもできそうなお仕事がありましたら、ドンドンおっしゃって下さい」
「はい?」
「今は仕事も大切かもしれないですけど、先輩にとってバンドも大事なものですよね?」
迷うことなく目の前にあるスーツの袖をむんずと掴み、強引に引っ張ってやった。
「ライブハウスにご案内します。ここから歩いて、二十分くらいのところにあるんです」
「ちっ、ちょっと?」
「急ぎましょう!」
渋る鎌田先輩を引きずるように、さっさと走り出した。
「早くしないと、始まりますよー」
ズンズン社内を疾走する私と鎌田先輩は、かなり異様に見えたと後から同期に聞いた。だけどその時は必死で、それどころじゃなかった。
「っ……待って下さいっ!」
会社の外に出た瞬間、鎌田先輩の叫び声がした。振り返ると、掴んでいた私の手をやんわりと袖から外す。
「君の足が遅いので、間に合いません」
全力で鎌田先輩を引きずって走ってたからですと、文句を言いたかったが止めた――なぜだか優しそうな眼差しと目が合ってしまったから。
メガネを外し、胸ポケットにしまう鎌田先輩。
「メガネなしでも、平気なんですか?」
「伊達なんです。童顔なので、会社では仕方なくかけてるんです」
――その顔のどこが童顔!?
「さて行きますよ、案内して下さい」
そう言って、右手を差し出す。さっきは無我夢中で袖を引っ張ってたから、全然意識してなかったけど。
(手だよ手!)
その事実に躊躇してたら突然、鎌田先輩が差し出した手を引っ込め、さっと後ろに隠してしまった。なんだろう――?
不思議に思い首を傾げた瞬間、左手首を掴まれグイッと引っ張られる。
「わっ!」
「早く行きますよ、案内して下さい! 君のできることを率先して、手伝ってくれるのでしょう?」
――もしかして頼りにされてる? ……にしても足、速いなぁ。
時々もつれそうになるけど、その度に速度を落とす鎌田先輩の背中を眺めながら、見えない優しさに胸がグッときてしまった。強すぎず弱すぎずな圧迫感の掴まれてる手首。じわじわと熱い――
変にドキドキしたまま、あっという間にライブハウスに到着したのだった。
***
「お疲れぇ、お先に失礼するね」
ちゃっかり彼女の肩を触る、小野寺にイラッとした。馴れ馴れしいにも程がある。セクハラで訴えてやればいいのに!
心の中で毒づいている自分を余所に、目の前で盛り上がっている二人。まったく……午前中注意したばかりなのに、君って人は――
無理矢理会話に入り込み、見事遮断させてやった。君の顔にしまったと、また書いてあるのを確認。
怒りを鎮めるため仕事に集中していると、君がやってきて内心嬉しかった。だけど何となく顔が合わせ辛くて視線を合わせないでいると、あの紙を突き出してきた。
自分で企てた作戦なのだが無言で突きつけられると、何から口にしたらいいか分からない。君も同じらしい、難しい顔をしていた。
そんな顔を見ていたら、急に力が抜けた。思いきって訊ねてみる。
「昨日はどうでしたか? ……さぞかし驚いたでしょうね」
だけど視線を合わせるのが何だか照れくさくて、パソコン画面を見やる。
――君は昨日の自分を、どう思ったのだろう――
妙にドギマギしてしまう自分を隠すのに、必死に仕事をした。
「君の顔が、呆気にとられてました」
例えるなら、ムンクの叫びに近かったかも。なかなかあの顔は、普段見ることが出来ない。
「私正直、驚いてしまいました……」
例の紙を握り締めたまま、小さな声で呟く。
「それで?」
どう思ったのかが気になる――とても気になる、早く言ってくれ。
思わず君の顔を見るが、何だか様子がおかしい。何を躊躇っている?
彼女の持つ妙な緊張感がうつりそうで、また視線をパソコンに移す。すると――
「先週見た、バンドは良かったです」
先週見たバンドは良かったって、じゃあ俺はダメなのか!? そして何故、先週の話をするんだ!?
「先週?」
先週見たバンドは良かったという台詞が、ずっと頭の中でリフレインする。知らない内にどんどん、指先に力が入っていった。そしたらまた、ワケの分からないことを君が口にする。
「あのですね、バンド巡りしているのは、自分好みのイケメンを捜しているだけでして」
何故バンドの話が、イケメン捜しの話になっている? 俺に対する、あてつけなのか?
「そんでもって、なかなか素敵なイケメンに会えない所に、鎌田先輩と出会ってしまった、というか」
……はぁ? 一体何が言いたいのか、皆目検討がつきません。
パソコン画面から君に視線を移した時、とんでもない一言が俺を待っていた。
「今まで出会ったバンドの中で、鎌田先輩が一番素敵でした」
素敵って言った!? 不敵じゃないよな!?
思わずじっと、君を見つめてしまう。その視線に君は急に顔を真っ赤にして、持っていた紙をぐちゃぐちゃに握りつぶしていた。
支離滅裂な発言を指摘して、先週のバンドのことをそれとなく聞いてみる。やはりそれも気になったから。
そんな俺の気持ちとは裏腹に君は全くもって、そのバンドの情報を持っていなかった。正直ガッカリである。君らしいといえば、そうなのだが――
現在やっている仕事を今週中に終わらせたいのもあるが、バンドも気になる。
仕事<バンド
色々考えた結果こうなったので、パソコンの電源を落とした。しかし頼まれていた仕事を思い出し、再び手が止まってしまって。
そんな自分を見かねて、突然君が暴走する。頼りなく見えたのだろうか、まだひよっこの君に仕事をまわせと言われ、すごく驚いた。
そしてライブハウスに案内すると言い出し、俺の袖を引っ張って社内を走り出す。
――その姿は、相当異様だったらしい。
出会い頭、課長に、
「何かあったのか、大丈夫なのか?」
と聞かれ、マッハで大丈夫だと答える。
そんなやり取りしているのにも関わらず君は無視して、俺をグイグイ引っ張ることしか頭にないらしく……
これからもう少し、視野を広げることを覚えさせなければならないな。間違いなく一大事に繋がる。しかもこれ以上、周りに醜態を晒すわけにはいかない。
君の猪突猛進スイッチ、止まるだろうか――?
「っ……待って下さいっ」
何だか恥ずかしいので、自分を掴んでいる手を袖から強引に外してしまった。君の足が遅いからという理由をつけたら、怒るだろうなと思っていたら、案の定ふてくされる始末。
内心困ったと思いながら、かけていたメガネを外すとじっと見つめられて、ムダにドキドキしてしまって。童顔だから……という理由にしたが本当は、視線の先に君がいるのを分からないようにするための、カモフラージュだったりする。
意外そうな顔して、俺を見上げる君。
さっきは随分と振り回されたので、お返しにこっちも振り回そうと考え手を差し伸べてみると、困った顔してじっと手の平を見つめてきた。
待っている最中に変な汗を手にかいてしまったので、背広の後ろでそっと拭う。そんな俺の様子を、ぼんやりと眺める君の隙をみて、思いきって手を握ろうとしたのに――どうしてだか手首を掴んでしまった……
変に慌てているのを悟られないよう、グイッと引っ張って強引に走り出すしかない。
(何やってるんだろう)
不器用すぎる自分にイライラと腹を立てつつ、しっかり君と繋がっているという幸福感とか、いろんな感情が、じわりと胸に沁みてくる。
仕事をしている時間は長いのに、君と二人でいる時間は、あっという間に過ぎていってしまって。そんな刹那さを噛み締めていたら、ライブハウスに着いてしまっていた。
***
「あっきゅん、どこのレストランを予約してくれたの?」
一ヶ月前にゲットした彼女が聞いてくる。可愛いんだけど束縛虫がウザいんだよな――
「もうすぐ着くからさ」
そう言って目の前の横断歩道の先を見ると、見たことのある二人が手を繋いで必死に走っていた。何だか切羽詰った勢いで走ってるな、仕事でトラブったのか!?
遠目から見ても分かるくらい、二人揃って顔が赤い。走っているから……ではないだろう。
「ふーん」
このまま二人で、ホテルまで走って行っちゃう? 鎌田先輩のキャラはそういうのじゃないから、きっと無理だろうなぁ。
ちょっと前まではふたりは犬猿の仲だったハズなのに、一体何があったんだろうか。さっきまで社内では見ている限り、何もなかったよな。考えられるのは社外でってことだね。
一緒に仕事をしたときの、鎌田先輩のネチネチ口撃を思い出す。仕事も恋も両方を手に入れようなんて、絶対にさせてたまるか。
「ねぇあっきゅん、どこ見てるの? さては可愛いコでも見つけたんでしょう?」
そう言って彼女が俺の頬っぺたを、ぎゅっと思いきり引っ張ってきた。
「会社の先輩がいたんだよ。ほらキレると怖いって噂のカマキリが、女と手を繋いで走ってたの」
「ふぅん」
同じ会社だが部署が違うので、予想通り興味まったくなしですか。……別にいいけどね。それより明日、何があったか聞いてみよう。今日の自分の展開よりも、非常に気になるね。
***
「あの……」
ライブハウス前で気付いたことを言ってみようと、掴まれてた手首を何気なく触りながら、思いきって口を開いてみた。
「この恰好のままでライブに行くのは、ちょっとおかしくないですか?」
自分としては思いきって声に出したのに、ぼそぼそっと語尾が小さくなってしまった。
最初は無理矢理、鎌田先輩を引っ張って来てしまった。一緒に行くことしか頭になかったので、スーツ姿の有り様なのである。ライブハウスでは、間違いなく浮いてしまうだろうな。
「いつもこのスタイルで、ライブハウスに行ってますが?」
「えっ!?」
「お陰で、ファンにバレなくて済みます」
あっけらかんとした表情で、鎌田先輩は言い放ってきた。私は直ぐに見破れたというのに?
「気にせず、このまま行きましょう」
そう言って、ひとりでさっさと中に入って行く。少し躊躇いながら続いて入ってみたら、受付の店員さんが鎌田先輩と親しげな様子で、何やら話をしていた。
「今日はウチのイチオシメンバーが、三組もいる日なんですよ。ぜひぜひ最後まで聴いてやって下さい!」
両手で親しげに握手までされている様子に首をひねった。一体、何があったの?
「それではお言葉通り、最後まで鑑賞させてもらいます。さぁ中に入りますよ」
突然私の肩に手を回して、店の中へと誘導してくれた。中は薄暗い上にお客もかなり入っていて、正直動きにくい。だけど鎌田先輩のリードのお陰で、空いてる席に無事に座ることができた。
混み合っていた周りの様子に困惑しつつも、躰を密着させた鎌田先輩の存在を感じてしまって、んもぅ心臓が破裂しそうなほどドキドキする。
(薄暗くて良かった。ほっぺが熱い……)
コソッと目の前にある顔を伺うと、何事もなかったように、いつもの涼しい顔をしていた。女の人の扱いに慣れてるのかな。私ひとりでドキドキしてるのは、何だか損した気分――
「……何を怒っているんですか?」
唐突に、鎌田先輩の顔が近づいてきた。暗くても分かる、いつもと違う優しい眼差しに見えるのは、メガネがないせい?
「えっと……店員さんとのやり取りが、何だかおかしいなと思いまして」
鎌田先輩の視線のせいで、変な切り返しをしてしまった。
「ああ――向こうが勝手に、音楽業界の人間だと勘違いしたんです。話にそのまま乗せてもらいました」
さすがだな、私にはきっと無理。だって素直に、何でも白状してしまうから。
「で、不機嫌の本当の理由は何ですか?」
――何でバレてる!?
私ひとりがドキドキしているのが不服だとは、ハズカしくて言えるワケがない。
「私も鎌田先輩みたいに、仕事ができる人になりたいです」
誤魔化そうと適当なことを口走ってみた。でもこれは、正直な自分の気持ちだった。目の前にいる鎌田先輩は、いろんな意味で羨ましい。仕事ができるし、それなりに人望もある。一つ不満なのは、キツい言葉を使って怒らなければもっといいのにな。
「そうですね。これからはもう少し、物事に対して視野を広げて下さい。いろんな世界が見えて、きっといい勉強になりますから」
いつも通りの冷静な返答……職場にいるのと、ちっとも変わらない。
――何か違った、リアクションが欲しい。
「鎌田先輩は私といて、ドキドキしますか?」
その質問に、近寄ってた顔の位置があからさまに引かれてしまった。
「ドキドキしますよ、いろんな面で」
何故か、片側の口の端を上げて笑っている。
「真面目に答えてるのに変な切り返しをしてきて、かなりドキドキさせられましたし、先程の支離滅裂な発言も結構ドキドキしました」
「は……?」
「出会ったバンドの中で一番素敵とか言って、点数を稼いでやろうなんていう魂胆は、見え見えなんですよ」
そう言って私の鼻を、長い指でキュッと摘まんできた。
「ほんたんなんへ、ほんあぁ」(魂胆なんてそんなぁ)
「この俺を翻弄させようなんて、百年早いです」
メガネなしの眼差しは、どこまでも優しくて物言いは難だけど、すごく楽しそうに見える。しかも今『俺』って言った――普段は言わないのに。
目の前にいるのは、本当にカマキリなの? ものすごい大嫌いな先輩だったのに、ずっとドキドキしてる。――私おかしい、どうかしてる。
摘ままれていた鼻の指がデコピンの形に変化して、私のオデコに直撃した。
「イタイ……」
「何をぼーっとしてるんです、ステージにバンドが入りました。彼らですか?」
「えっと、違います」
「店員オススメのバンドの中に、入っていればいいのですが――」
始まった曲のテンポに合わせて長い足でリズムを刻む鎌田先輩から、目をそらすことができずにいた。職場で見る真剣な顔とは、また違った雰囲気。メガネがないだけなのに――
鎌田先輩が歌うボーカルの姿に絶句して、出会ったときと同じように周りの音が全く聞こえない状態になった――胸の鼓動が高鳴ったまま、一向に収まる気配を見せない様子に困惑するしかない。
こんな短期間で、恋に落ちたのは初めてだった。