ドS上司の意外な一面

「はあぁ……。今日も仕事が終わったぁ」

 つい安堵のため息と一緒に、愚痴をこぼしてしまう。いつもながら今日も、いろんな失敗をしてしまった。それなりに頑張っているけれど、きちんと見直しをして書類を提出しても、リターンされてしまう始末。私がまともにできる仕事といえば、お茶出しくらいしかないんじゃないかな……。

 ダメすぎる自分に、嫌気が差すレベルは去年で超えていた。

「まぁまぁ。これから出会うイケメンバンドで是非とも、荒んだ心を癒してくれたまえ!」

 慰めるように友人の愛子が、落としまくりの肩を優しく叩いてくれる。

「だってぇ……。今日もカマキリにどやされたんだよ」

「どやされてるのは、いつものコトじゃないの。しっかりしなさいってば!」

「でも今日は、ここぞとばかりに叱られたんだよ。ものすごいミスじゃなかったのにさ。何か私に、恨みでもあるような感じに思えてならないんだもん」

 正直友達というよりも、まるで母と娘のような会話である。

 市内の物流会社に就職した、入社二年目になるOLの私、山本 ひとみ。

 新人がなかなか入ってこない部署、尚かつカマキリこと鎌田正仁(かまだまさひと)のアシスタントに任命されてから、まったくツイてなかった。

 理由は分かってる――仕事を満足にこなせない自分が悪い。悪いことが分かっているんだけど、カマキリの注意の仕方が、んもぅムカつくこと、この上ないものだった。

 カマキリという愛称でこっそり呼ばれている、かなり変わった先輩。身長はあまり高くない上に、お堅そうな雰囲気を漂わせるメガネをかけた私の教育係。

 仕事をバリバリこなす営業の歩く見本と社内で言われている人で、いらんことまで妙に頭がキレる。接待をさせたら右に出る者がいないくらいの舌を二枚三枚と持ち合わせていて、契約をほとんど手中に収めていた。

 そんな仕事が出来る先輩の怒った時のキレ具合がなかなかなものだから、影でみんなが「カマキリ」と呼んでいた。そんなカマキリに毎日叱られている、私って一体……。

 故に、毎日会社に行くのが全然楽しくないです。朝、目覚めた瞬間から叱られることを想像出来ちゃうなんて、悲しい現実を突きつけられているみたいで、本当に辛いです。

 同期で入社した女の子達は何だかキャピキャピした雰囲気で、楽しそうに出社しているのにな。

 はあぁと何度目かのため息を、思わずついてしまった。

「んもぅ、そんな風にため息ばかりついていたら、幸せが逃げちゃうって。あのね今回発掘したバンドは前回のバンドに比べて、メンバーのビジュアルは正直イマイチなんだけど、ボーカルが超セクシーなの。歌ってる姿が煽情的でね、見るだけで垂涎モノなんだよ!」

 愛子が鼻の穴をちょっとだけ広げた見るからに笑えてしまう表情に、沈んでいた気持ちがふわっと軽くなった。

「私的には前回のバンド、結構良かったと思うよ。音楽よりも歌詞の一部に、共感するものがあったし」

 ストレス発散といわんばかりに、お互い弾丸トーク。二週間に一度会って良さげなバンドを発掘すべく、ライブハウスに顔を出しながら、日ごろの憂さを晴らすべく愚痴り合いをするのが、ここのところの習慣となっていた。

 イケメンに目のない私の趣味を知ってる愛子が、親切丁寧にアレコレ調べている。マジで天使なお友達!

 毎日怒られてばかりで、恋愛する感覚が全くなくなっている。こんなことでときめく恋心が戻ってくるとは思えないけれど、何もしないよりはマシかなって思う。

 ふたり並んでダラダラとお喋りしている内に、お目当てのライブ会場に着いた。

 中の様子は薄暗い感じで、どうやら何か準備をしているみたい。立ち見をしているお客さんの隙間を縫うように歩き、ステージの見えやすい場所を確保した。

「ラッキー! どうやら次がお目当ての、クロノスみたいだよ」

 ライブハウスに入る際に手渡されたパンフをスマホのライトを照らして確認した愛子が、いつも以上に弾んだ声を上げた。

「クロノス? 何かロボットの名前みたいだね」

「事前に調べてみたんだけど、どうやらギリシア神話に出てくる神様の名前らしいよ」

「神……。どんだけ自分を高めているんだか」

「毒づきたくなる理由も分かるけど、それはどっかに置いといて、今はライブを楽しもうよ!」

 宥めるように両肩を叩かれた瞬間に、どこからともなく怒鳴り声が聞こえてきた。

「オマエら、俺の歌を聴けぇっ!!」

(――神だからね、常に上から目線なんだろうなぁ……)

 金切り声がほわんほわんと体に響く中、そんなことをぼんやりと考える。そういえば今日も、朝から同じような声で怒鳴られたっけ。

『私の指示を、どうしてマトモに聞けないんですか? こちらに指示を仰がずに、自分勝手な判断で行動していいと思っているんですか?  アナタの誤った判断で、どれだけの損害が出るか分かりますか?』

 いちいちカマキリの判断を聞いてたら、マトモに動けないっつーの。前回それでこっぴどく怒られたばかりだったから地味に動いてみたのに、結局叱られちゃったんだよなぁ。

 今日あったことをを振り返りながら、ライトアップされたボーカルに目をやる。

「……初めて見た気がしない」

「すっごいイイでしょ、超絶セクシーでしょ。あの胸板に、顔をうずめてみたいと思わない?」

 アップテンポな曲に合わせて、激しく動く体。シャツから見えるはだけた胸のラインが、かなり露わになっていた。ものすごく鍛えているというわけではなく、適度に締まったライン。

 体は良しとしよう――しかし顔が、どこかで会ったことがあるような、ないような……? 聞き覚えのあるこの特徴的な声、ところどころ醸し出される変な抑揚、目つきの悪さの3点セット――

「……もっ、もしやカマキリ!?」

「何か言った?」

「いんや 何でもないよ。えへへへ」

 脳内でメガネをかけさせたらカマキリこと、鎌田 正仁そのものになってしまった。

(なぁんでアイツが、ここでシャウトしているの?)

 会社では人を小ばかにするような、片側だけ口角を上げたニヤリ笑いしか出来ない人間が、思いっきり顔をクシャクシャにしてステージの上で笑ってる。

 会社主催の宴会でも歌う兆しを全く見せず、ただひたすらビールをあおっている人だったのに。

 あのスーツの下の体は、あんな風になっているんだ。怒ってばかりじゃなく、笑うことも出来る人だったんだ。こんな声で、歌うことが出来る人だったんだ――

 しばらくカマキリの歌声を聴いていると、何故だか日頃のことを忘れて、しんみりと酔ってしまう自分がいた。

「この胸のクロスに、俺の愛を誓うって? 今日その口で、私にミスをしないでいただきたい、誓えますか? って言ってたでしょ……」

 ポツリと独り言を呟く。言葉はしっかりと毒づいているのに、私自身が何だか毒気を抜かれた感じ。

「いつからクロノスって、歌っているんだろう?」

「さぁ? 最近ここのライブハウスを知ったばかりだから、さーっぱり分からない」

 演奏終了後に、近くのカフェで愛子と雑談。

「さてはあのボーカル、お気に召しましたか?」

「ややっ、違うよ! ただ何となく、音楽に共感が持てただけで。それだけだから!」

 意味深な視線をかわしつつ、あさっての方向に目をやる。

「やっぱり面食いだよね、分かりやすい」

「そんなんじゃないって!」

 だって言えるワケがない。会うたびに愛子に毒づいてた相手が、目の前にあるステージで歌っていたなんていう驚愕の事実。百八十度違いすぎる――

 混乱した頭を抱えながら愛子と一緒に行きつけのバーに向かって、本日のライブハウス巡りは終了したのだった。
***

「見られてしまった……」

 自分の中ではトップツーなノリノリの曲の中、天井から吊るされたライトが照らし出したんだ。客の中でただひとりノッていない人を一瞬だけライトアップしたのが、偶然目に留まった。

 彼女は大きな目を更に見開き、穴が開きそうな勢いで自分をじっと見つめていた。まるで幽霊でも見たかのような、あの表情――

 その瞬間に俺の頭はショートし、心は一気にヒートしていったのだった。

(――ライブやってた、記憶が全くない……。ただこの状況を乗り越えようと、それだけに必死な状態だった)

「まさやん、お疲れぇ!」

 幼馴染の山田 賢一もとい、けん坊がバシッと背中を思いきり叩く。それに倣って他のメンバーもバシバシと、同じように叩いていった。

「今日のまさやん、超サイコーだったよな」

 興奮冷め止まないのか、ひょろっとした躰を揺らしながらとても楽しげに、けん坊が言い放った。

「いつもの鎌田さんじゃなかったっすよね。何かものすごく、弾けていたみたいな?」

「そうそう! 永ちゃん並みのマイクパフォーマンス、すっげーイケてましたよね」

 口々に賞賛を語るメンバーたち。

(そうか、俺は弾けていたのか……)

「だけど、まさやん、何ていうかガッツリ不満そうだよね。何かあったんだろ?」

 無駄に長い付き合いをしているわけじゃない、けん坊。メガネをかけた俺を、静かに覗き込んできた。

「リーダー兼マネージャー兼ボーカルとして、隠し事していいのかなぁ? バンドの命はチームワークだって、いつも自分から口うるさく言ってただろ」

 他のメンバーはパイプ椅子を引っ張り出し、俺の周りを取り囲むようにそれぞれ座り込んでいく。

「俺ら何か、ミスしましたか? 正直に言ってくださいよ」

「リーダーがそんな顔してるの、正直見たくはないっす!」

「みんなに心配かけたくないだろ、ほら白状しちまえ」

 口々に気持ちを伝えてきて、心配そうな面持ちで俺のことを見つめてきた。その様子に応えなければと判断し、大きなため息をついてから、すっと息を吸い込んで覚悟を決める。

「……実は客の中に、会社の人間がいたんだ」

 重たい口を開いた大きな告白に、なぜだかみんなは思いきり椅子からずり落ちていった。そして呆気にとられた俺の表情を見て、それぞれ安堵のため息をついていく。

「何かもっと重大なコトだと思ったのに、あぁビックリしたなぁ」

「絶対今日のミスを、ずばずばっと指摘されるんだと思って、内心ビクビクしてたっす!」

 ベースとドラムが手を取り合って喜んでいるのに対し、けん坊はどこか難しい表情を浮かべながら腕組みをして、

「その会社の人間って誰だ? 俺の知ってる人間?」

 と静かに訊ねてきた。いつもはふざけた感じで話しかけてくるくせに、妙に落ち着いた口調で語りかけるせいで、自然と緊張感が高まってしまう。

 けん坊は俺の取引先に勤めている関係上、どんな相手なのか知りたいのかもしれない。

「鎌田さんの、コレだったりして」

 言いながら楽しそうに、小指を立てたドラマー。

「いやいや案外、コッチだったりして」

 違うメンバーが親指を立てた。俺のキャラって、一体どうなっているのだろうか……

「はいはい。まさやんはドがつくほど、ノーマルです。年上の女性以外なら、みんなと付き合えますよ」

「何で年上女性がダメっすか? 俺は全然OKですけど」

「まさやんがいたいけな中学生だった時に、年上女性に襲われ――」

「……けん坊」

「うわっち、つい喋っちゃった。ゴメンゴメン」

両手を合わせて拝み倒すけん坊に、ジロリと睨みをきかせてやった。

「メガネの奥から睨まれるのって、すっごくコワイねぇ。彼女もさぞかし、コワイ思いをしているんだろうなぁ」

「けん坊?」

「たまたまお前の会社で打ち合わせがあって、昼飯一緒にどうかなって部署を覗いたら、慈愛の眼差しで彼女を見つめる、まさやんがおったそうな」

 なぜかエアーマイク片手に、しんみりと語りはじめた。

「あの時も今回も、どうしてけん坊は覗いてばかりなんだ……」

 まるでストーカーみたいだと内心思いながら拳を振り上げると、ベースが慌てて止めに入り、

「あの時って、年上の女の人に襲われた話っすよね。今後の参考に聞きたいなぁ」

 何故だか、キラキラした目でお願いしてくる。何の参考にする気だよ、まったく。

「まさやん落ち着いて。あのときも今回も偶然だったんだってば! もしかしてだけど、その彼女が来ていたとか?」

 その言葉に一気に躰の力が抜ける。そして、何度目かのため息ひとつ。

「もしかして、見られたくなかったんすか? 鎌田さんってば、すっげぇカッコイイのに……」

 ベースが椅子に座り直し、不思議そうな顔をして首を傾げながら言う。

「お前ら周知の通り、まさやん普段は真面目なリーマンなんだ。真面目すぎて、噂は最悪と化している状態。変なトコにクソがつくほど、超真面目だからねぇ」

 けん坊のセリフを肯定するように、他のメンバーが静かに頷いた。

「こんなクソ真面目な上司のオフで弾けている姿を、愛しの後輩にしっかりと見られてしまったワケだ。見られたゆえの反動で本日、あれだけ弾けまくったんだろうな」

 顎に手を当て、ウンウン頷きながら語るけん坊。さすが幼馴染である。

「まさやんは、どうしたいんだ?」

「どうするもこうするも、お手上げ状態。明日、彼女に会うのがとてもコワイ……」

「ふむ――ライブで見た彼女の感想は、あんまり良くなかったんだ。それはご愁傷様でございます」

 けん坊が南無南無するとなぜか他のメンバーまで、両手を合わせて拝む姿をしてくるなんて。こんな時にメンバーが一致団結しなくてもいいのに……

「明日彼女が何か言ってきたら思いきって素直に、ありのままを答えればいいのでは?」

 どこか優しい声色で提案してきた、ちょっとだけ苦笑いしたドラマー。

「案外鎌田さんが怖くて、何も言えなかったりして」

 その答えに俺は、眉間にシワを寄せるしかない。

「それはあり得る。普段のやり取りを考えると、一番濃厚でしょう」

「おおっ、いつものまさやんらしくなってきた?」

「冷静沈着、用意周到、魑魅魍魎――」

 肩を組みながら意味不明な歌詞を歌うメンバーを見て、少しだけ心が和んだ。

 明日君は俺のことを、どんな目で見るのだろうか。俺はいつもの自分でいられるだろうか――窓から見える下弦の月に、そっと問いかけたのだった。
 ――翌日。朝からテンションが全然上がらない。昨日の出来事が、頭から離れないせいだった。

(あれは、カマキリの裏の顔だったのかな)

 美少女フィギュアを握り締めて大通りを闊歩していた、憧れていた先輩を見たときのショックと同じくらい……。いいや、それ以上に衝撃的だった。

 しかもショックなのが昨日ライブハウスで歌っているカマキリを、すっごくカッコイイと思ってしまった。何か悔しいじゃない、ヤツは私の天敵だったはずなのに~。

 ムスッとしたまま持っていたカバンの持ち手をぎゅっと握り締めた瞬間、目の前に突然現れた見慣れたネクタイ。あっと思ったときには、両肩に手を置かれた感触がした。

 あたたかくて大きな手だな……

「朝から、何を寝ぼけているんですか?」

 ポカンとしながら聞いたことのある声の主を、恐るおそる見上げる。その顔を仰ぎ見て、昨日の姿と思わず重ねてしまった。

 もしかして今、あの胸板に飛び込んでいってしまったの――!?

 あまりの衝撃に声を出せずに唖然としたままでいると、無造作に肩の手を外されて半歩距離をとられる。

「……おはようございます」

 特徴のある強い口調のカマキリの声に、ハッと我に返った。

「すっ、すみません。ぉ、おはようございますっ!」

 ペコリと頭を下げ、慌てて挨拶をした。昨日の今日で、心の準備が全然出来ていないよ――

 カマキリの顔を直視できなくて、無駄に視線があちこちに彷徨ってしまう。

「昨日――」

 落ち着きなくモジモジしていたら、カマキリが突然切り出した。いつもより低いその声に、ビクビクしながら顔を見つめる。

「…………」

 唇が微妙に動いているのに何だか二の句が告げない様子だったので、自分から口を開きかけた刹那、

「……っ、昨日頼んだ書類は、出来ていますか?」

 早口で言われた問いかけに、ぼんやりしたままの頭では全然追いつけずにいた。

「書類?」

「今日の午後から、会議に使用する書類のことです。昨日までに作っておく約束でしたが? もしかして……」

 ギロリとメガネの奥から、鋭い眼差しが私を襲う。背中にたらりと冷や汗が流れていった。

「ううっ、八割……いや九割くらい出来ていますっ!」

「それじゃあダメです、完璧に仕上げて下さい。制限時間は、午前十時ですよ」

「はい……っ」

「時間厳守です、分かりましたか?」

 冷たく言い捨てて、さっさと部署に入って行ったカマキリ。

 なんだ、いつも通りだった――

 へなへなと一気に体の力が抜けていく。違う意味でひとりドキドキしていた私って、本当バカみたいだ。

 パシパシッと両頬を叩き、気合を入れ直した。

 カマキリがいつも通りなら、私も普段通りにすればいいや。とりあえず時間厳守の仕事を、さっさと片付けなきゃ!

 気分を改め、意気揚々とカマキリのあとに部署に入って行った。
***

 考えのまとまらない頭で職場に行くのは、本当に苦痛だった。どんな顔で、彼女の前に出ればいいのだろうか――

 ふと前を見ると彼女がボーッとした様子で肩を落とし、下を向いたままとぼとぼ歩いていた。もしかして、自分と同じように悩んでいるのか?

 同じ部署に行くので、あとをつける形になる。しかも俯いたまま歩いている姿は、どうにも危なっかしく見えた。

 声をかけようか躊躇っていたら、壁に向かって真っ直ぐ迷いなく進んで行く。

(――あれは間違いなく、壁に激突するな)

 彼女を守るべく駆け出して前に回りこみ、華奢な両肩をそっと掴んだ。手の平に伝わる、じわりとした彼女のぬくもり。その愛しさを心の中に、ぎゅっと噛み締めた。

 どこかポカンとしたままの彼女が、不意に自分を見上げる。

 あまりの無防備さにときめいてしまって、肩を掴んでいた手に思わず力が入ってしまった。

(マズい、抱きしめたい――)

 それを悟られぬように、急いで手を放して距離をとる。ドキドキが伝わっていなければいいが。

 胸の鼓動を隠すように、ぶっきらぼうに挨拶してしまった。思っていたよりも無機質な声になってしまい、内心気落ちするも彼女もその声に驚いたのか、慌てて挨拶をする。

 それだけでなく視線を合わせないよう、あらぬ方向を見ている姿があって。

 ――ああ、完全に嫌われた――

 鈍器で頭を打ち付けられたようなショックで思わず、

「……昨日」

 なんて唐突に口走ってしまい、ひどく動揺した。考えが全くまとまっていない上に、マトモな話をする心の準備が出来ていない状態なのに。

 慌てふためく俺を見て、仕方なさそうに彼女が視線を合わせてきた。またまた無防備な顔にドギマギする。

 ――何か、言わなくては……。考えれば考える程、声を出すことが出来ない。無能すぎる。

 彼女が何か言いたげに唇が動いた瞬間、それをやっと思い出した。

「……っ、昨日頼んだ書類は、出来ていますか?」

 彼女の顔にしまったとハッキリ書かれていて、思わず苦笑いをする。今日午後から使う書類なので、早急に仕上げてもらわねばならないというのに。

 ドジしやすい彼女に時間厳守を釘刺して、逃げるようにその場をあとにした。朝からこんな様子で、まともに一日が過ごせるんだろうか。いつも以上にドキドキしてしまった。

 彼女から見えないように深いため息をつきながら、働いている部署に入ったのだった。
***
(カマキリに何としてでも、一泡吹かせてやる!)

 ぼんやりした頭をしっかり刺激すべく熱いコーヒー片手に、サクサク書類を作り上げた。朝から全力で頑張った。勿論それは時間が余るくらいの余裕ぶりで、目の前のデスクにいるカマキリに胸を張って書類を提出してやった!

(――よし、この勢いで次の仕事もやっつけちゃおっと)

「朝から、よく頑張ってたみたいだね」

 いそいそと不要な書類を片付けていたら、隣で仕事をしている小野寺先輩に声をかけられた。

「実は昨日仕上げなきゃいけない書類を、今日になって急いで片付けていただけなんです」

 肩を竦めながら言ったら、プッと苦笑いされてしまった。

「俺も君が来る前に、こってりと鎌田先輩にやられたもんなぁ。交代出来て、良かった良かった」

 同じように肩を竦めて、小さな声で言う。

「それよりも君の仕事ぶりの良さとは正反対になってる本日の鎌田先輩に、何かアドバイスでもしてあげたら?」

「えっ?」

「パッと見はいつも通りに見えるんだけどさ、時々フリーズしたままになっているだよな」

「固まったまま、動かなくなっているんですか?」

「そうそう。何ていうか映像に出てる人を、一時停止ボタンで動きを止めた感じでさ。ま、固まっても長くて20秒くらいだけど、いつもより効率が悪いだろうね。あの人、大事な案件かかえているし、色々考えることがあるのかも」

 腕組みをしながら、斜め前の鎌田先輩を見やる。

「そういう小野寺先輩は、仕事をしなくていいんですか?」

「後輩に仕事のことを心配される、俺って一体。大丈夫、午後から会議に使う書類の確認をしっかりしながら、本日の記念日に向けていろいろ考えてるんだ」

 仕事の合間に? 小野寺先輩ってば器用だな。

「今日は彼女と付き合って、一ヶ月記念日なんだよ。俺ってばギター弾けるからさ、作詞作曲して彼女に捧げる歌を作っててさぁ。男は恋をすると詩人になるのかも」

 白い眼で見ているのにも関わらず聞いてもいないことを、得意げに次々と話し出していく。正直なところ私としては、次の仕事がしたい。

 ゴホゴホゴホッ!!

「鎌田先輩っ!?」

 突然、鎌田先輩が激しく咳き込んだ。

 心配になってデスクに回りこんでみると、目の前が白い何かでいきなり覆われた。よく見たらそれはさっきの書類で、鎌田先輩が突きつけたみたい。

 恐るおそるそれを手にして窺うように鎌田先輩の顔を見たら、ちょっとだけ涙目で何気に苦しそうな表情を浮かべていた。

「あの、大丈夫ですか?」

「飲み物が、少しだけ気道に入っただけです。心配いりません」

「……はぁ」

 何だ、心配して損しちゃったかも。

 そんなことを思っていたら持っている書類の上の部分に指を差し、ギロリと睨んでくる。涙目のままなのであまり怖くはなかったけれど、何かを指摘されるのは今までの経験上分かっていたので、体を小さくして小言に備えた。

「それよりもここ、間違っています。見ている資料が違うのかもしれませんので、きちんと確認してきて下さい」

「分かりました、資料室に行ってきます」

 あーあ、またしても完璧に仕事をこなせなかった。ドジっちゃった――

 しょんぼりしながら肩を落として、資料室に向かったのだった。
***
 あからさまに肩を落として出て行った彼女の後ろ姿を、こっそりと横目で見送っていたら。

「鎌田先輩って、もしかして策士?」

 唐突に小野寺が話しかけてきた。一瞬、言葉が出なかった――作戦がバレているのだろうか?

 目の前にいる小野寺に視線を飛ばしてみると、どこか怜悧な眼差しで俺のことを見ている。

「何のことでしょうか?」

「先輩のデスクの上にある青いファイル、もしかして彼女が必要としているものじゃないんですかね」

 そこを指差しながら、丁寧に指摘してきた。

「…………」

「珍しいですね、完璧主義の先輩がミスるなんて。何か俺に出来ることがあれば、率先して手伝いますよ」

 微笑みの貴公子風な笑みを浮かべ、小野寺が提案してきたのだが。

(――コイツの笑顔が、実は厄介なんだ)

「申し出は有り難く、別の仕事で受け取らせてもらいます」

 素っ気なく対応すると、意味深な笑みをキープしたまま凝視してきた。その視線に負けないように、メガネの奥から睨み返してやる。

「鎌田先輩ってば好きなコに対しては、いじめちゃうタイプだったりして? クラスに必ずいますよね、そういうヤツ」

「……何が、言いたいんです?」

「愛だの恋だのにうつつを抜かしてたら、仕事に支障が出るっていう真面目な話です。その内、足元をすくわれますよ」

「君と、一緒にしないでいただきたい」

 手元にあるファイルを彼女のデスクに置き、小野寺からの視線を断ち切る様に背中を向けて、さっさとその場をあとにした。

「その資料、俺が持っていたことにしてもいいっすよ」

 実にのん気な声が後ろからかけられる。

(俺に、恩を売るつもりなのだろうか――)

「一昨日のプレゼンで、助けてもらったお礼ですよ。深い意味はありませんから」

 顔だけで振り返ると唇に人差し指を当てて、シーという仕草をしていた。

「そんな気遣いは結構です。午後からの会議のまとめを、しっかりして下さい」

「わっかりました、しっかりまとめまぁす!」

 なぜか敬礼をして気味の悪い笑顔をしている小野寺を一瞥し、彼女がいる資料室に向かった。
***
 俺にとっては超苦手な鎌田先輩が、資料室に向かったのをしっかり確認してから、ヤツのデスクにある書類を見やる。

 パラパラめくっていると、突然白紙が出てきた。

 不思議に思いながら、それを引っ張り出して中身を確認。裏面に書いてある文章を最後まで読みふける。その内容に、自然と笑みが浮かんでしまった。

「俺だけじゃなく、鎌田先輩も恋する男だったんだ。へぇ、なかなかいい詩、書いてるじゃないか。早速今夜これを使わせてもらおうかな」

 書類からそれをしっかり抜き取り、丁寧に折りたたんでから背広の内ポケットにしまう。そしてデスクを元の状態に戻してから、しれっとした顔で自分の席に戻った。

 利用価値のあるヤツが、自分の傍にいるのは有り難いね。

 くっくっくと笑いながら、言いつけられた仕事をしてやったのだった。
***
「急がなきゃ!」

 午後一時半から始まる会議に、何としてでも間に合わせなきゃならない。

 慌てて資料室に入り、たくさんあるファイルと格闘すべく対峙した。手に汗を握りながら、上から下まで隅々チェックしてみたけど、該当したファイルが全く見当たらない。

 最後の手段と考え半泣き状態で、扉にかけてある入室記録簿を確認してみた。最近使用した人は小野寺先輩と鎌田先輩、それと隣の部署の三人だけ……

(――良かった、大人数じゃなくて)

 そう思った瞬間、背後に人の気配を感じたので振り向いてみたら、鎌田先輩が腕組みをしながら棚にもたれ掛かって、こちらを見ているじゃないの。しかも、口の端を上げて笑っているなんて……

 明らかに私が困ってる状態を、背後から眺めて楽しんでいるみたいだ。

 鎌田先輩の様子にイラッとしたけれど、何とか感情を押し殺して彼の傍に駆け寄った。

「あの資料を探したんですが、全然見つかりませんでした」

「そのことですが、私のデスクにファイルがありました。申し訳ない」

「へっ!?」

「調べ物に夢中になっていて、うっかりしていたようです」

 先ほどまで浮かべていた笑みを消し去り、頭を下げる。鎌田先輩が謝っただけじゃなく、私に向かって頭を下げるなんて信じられないことだった。

 ……そういえば小野寺先輩が、今日の鎌田先輩はおかしいと言っていた。私がドジるならまだしも、鎌田先輩がそんなうっかりをするなんて。

(――アレッ!?)

「じっ、じゃあどうして、声をかけてくれなかったんですか?」

 私が慌てふためいている状況を真後ろで、実に楽しそうに見学していた。

「だって鎌田先輩、ムダが嫌いだって言ってましたよね。これは明らかに、無駄な時間を過ごしたと思うんですけど」

 ちょっと憤慨して訴えてみる。もうあまり、時間がないというのに――

「君は、資料室を堪能しましたか?」

「堪能?」

「ここにある資料ファイル、項目別の年式や配置がきちんと整えられているでしょう」

 そういえば乱れがなかった。だから調べるのにそんなに時間をかける事なく、探しているファイルがないのが、短時間で分かったんだ。

「たまにしか使われていないという理由で乱れがないのですが、おおむねこの配置を常にキープしているんです。この配置を頭に叩き込んでおけば、使いたい時に簡単に見つけ出す事ができ、尚且つムダな時間をかける必要はありません」

「あ――」

「新人など下の者は雑務が中心ですから君もそろそろこの配置を、覚えておいてもいい時期なのでは?」

「もしかして、それをさせるのに資料室に……」

「一見ムダに見える時間でも、君にとっては有意義な時間だったでしょう?」

 ふわりと笑いながら、優しく頭を撫でてくれた。とってもあたたかい手の平――それを感じた瞬間、頬が熱を持ってしまって、心臓が一気に駆け出してしまった。

 そんな顔を見せないようにすべく思いっきり俯き、体をふるふると強張らせたら、頭を撫でていた手がそっと引っ込んでいく。

「君のデスクに、ファイルを置いておきました。これから急いで、作業に取りかかって下さい。終わったら、目を通しますので」

「はい……」

 やっぱりすごいな鎌田先輩。文句を言ってしまった自分が、いろんな意味で恥ずかしいよ。

「最後までしっかり、資料を確認して下さい。それと……」

 妙な間に違和感を覚え恐るおそる顔を上げたら、眉間にシワを寄せながら顎に手をあてて、何かを考えている姿が目に映った。

「……何か、他にあるんですか?」

 鎌田先輩が二の句を告げないので自分から話しかけてみると、ハッとした顔をしてからメガネを押し上げる仕草をした。

「その……小野寺と話す時間があるのなら、自分の仕事に精を出しなさい」

「わかりました。それこそ時間の無駄ですもんね、急いで修正してきます!」

 その場に佇む鎌田先輩にきちんとお辞儀をしてから、急いで自分のデスクに向かった。

 むー、次はどうやって小野寺先輩の話を断ろう。お喋りな彼の言葉を遮るのは結構、難題だったりする。

 部署に戻りながら、鎌田先輩が撫でてくれた頭を意味なく触ってみた。昨日といい今日といい、鎌田先輩にドキドキしっぱなしなんて、どうかしてるかも――

「っ、ドキドキしてる場合じゃないんだってば! 集中して書類の直しをしなきゃ」

 頬を叩いて気合を注入したお陰で、きちんと書類の修正をする事が出来たのだった。
***
 気味の悪い小野寺の視線を振り切り、足早に資料室へと向かう。相当慌てて入室したのだろう、扉が大きく開け放たれたままになっていた。

 手に取るように分かるその様子に思わず苦笑いしながら中に入ってみると、真剣な顔をしてファイルと格闘している、愛しい君の姿があった。

(そんな姿を、いつまでも眺めていたい――)

 物音を立てないよう資料室の隅に移動し、声をかけずにじっと見つめた。

 何とかしてやろうとする勇姿にコッソリと胸をときめかせていたら不意に顔を上げ、扉に掛けてある入室記録簿をチェックし始める。いい所に気が付いたらしい。

 思わず笑ったら、突然君が振り向いた――どうしてここにいるんだと顔に書いてある様相は、さらに笑いを誘うものだったが、それだけ集中して探していたんだろう。

 俺が自分のミスを口にし頭を下げたら、途端に君の顔が曇った。しかも後ろから眺めていたことに、苦情を述べられる始末。そんな生意気なところさえ、可愛くみえるなんて相当重症だ。

 資料室の正しい使い方と無駄じゃない時間のことを教えると、一瞬にして態度が変わる。表情がコロコロと百面相。シュンとしている君を励ましたくて、頭を撫でてあげた。

 フワフワな髪が、指にまとわりつく。

 ドキッとしたのを悟られぬように、無機質な声で指示をしてしまう。当然、君の顔は曇ったままだったが、頬が赤くなっていたのは見間違いだったのかな。

 気を取り直して、伝えなければならない資料のことを言ってみる。

「最後までしっかり、確認して下さい」

 とだけ言うつもりだったのに思わず、いらない言葉が口から飛び出してしまった。資料室に向う前の小野寺とのくだりが、どうしても胸に引っかかっていたのだ。

 思わず考えこむ――小野寺と喋ると妊娠するぞ。なぁんて脅すべきか、それとも他に何かいい言葉が見つからないだろうか……。

 考えあぐねていたら焦れた君が声をかけてきたので仕方なく諦め、普通に注意を促すしかなかった。今は、これしか思い付かない。

 しっかりお辞儀をして去っていく君の後ろ姿を見ながら、髪に触れた手をそっと握りしめた。

 たったこれだけのことで、舞い上がる自分に苦笑してしまう。

 ――こんなにも、君に惹かれているなんてな――

 そんな嬉しさを噛みしめながら、彼女の後を追うように足早に部署に戻った。そして自分のデスクを見たとき、何となく違和感を覚えた。物の配置が、微妙にズレていたのだ。

 こういう場合、何かなくなっている物がある。今までの経験上それが分かっていたので、探す行為は容易なことだったのだが。

 重要書類の確認、ファイルの中、パソコンのデーター。仕事上の物は、何も盗られていなかった。用心のためにこれからは鍵のかかる引き出しに、書類関係を片付けることに決める。

 他になくなっている物をチェックしていく内に、書類に挟んでいたアレが無くなっているのに気がついた。あんな駄作を盗っていったヤツの気が知れない。

 自作の歌詞の盗難――ここでコッソリと、歌詞を書くことができなくなってしまった。彼女の姿を目に留めるだけで、自然と歌詞が浮かび上がってきたのに。

 だが一体、誰の仕業なんだろうか……?