***
「あっきゅん、どこのレストランを予約してくれたの?」
一ヶ月前にゲットした彼女が聞いてくる。可愛いんだけど束縛虫がウザいんだよな――
「もうすぐ着くからさ」
そう言って目の前の横断歩道の先を見ると、見たことのある二人が手を繋いで必死に走っていた。何だか切羽詰った勢いで走ってるな、仕事でトラブったのか!?
遠目から見ても分かるくらい、二人揃って顔が赤い。走っているから……ではないだろう。
「ふーん」
このまま二人で、ホテルまで走って行っちゃう? 鎌田先輩のキャラはそういうのじゃないから、きっと無理だろうなぁ。
ちょっと前まではふたりは犬猿の仲だったハズなのに、一体何があったんだろうか。さっきまで社内では見ている限り、何もなかったよな。考えられるのは社外でってことだね。
一緒に仕事をしたときの、鎌田先輩のネチネチ口撃を思い出す。仕事も恋も両方を手に入れようなんて、絶対にさせてたまるか。
「ねぇあっきゅん、どこ見てるの? さては可愛いコでも見つけたんでしょう?」
そう言って彼女が俺の頬っぺたを、ぎゅっと思いきり引っ張ってきた。
「会社の先輩がいたんだよ。ほらキレると怖いって噂のカマキリが、女と手を繋いで走ってたの」
「ふぅん」
同じ会社だが部署が違うので、予想通り興味まったくなしですか。……別にいいけどね。それより明日、何があったか聞いてみよう。今日の自分の展開よりも、非常に気になるね。
***
「あの……」
ライブハウス前で気付いたことを言ってみようと、掴まれてた手首を何気なく触りながら、思いきって口を開いてみた。
「この恰好のままでライブに行くのは、ちょっとおかしくないですか?」
自分としては思いきって声に出したのに、ぼそぼそっと語尾が小さくなってしまった。
最初は無理矢理、鎌田先輩を引っ張って来てしまった。一緒に行くことしか頭になかったので、スーツ姿の有り様なのである。ライブハウスでは、間違いなく浮いてしまうだろうな。
「いつもこのスタイルで、ライブハウスに行ってますが?」
「えっ!?」
「お陰で、ファンにバレなくて済みます」
あっけらかんとした表情で、鎌田先輩は言い放ってきた。私は直ぐに見破れたというのに?
「気にせず、このまま行きましょう」
そう言って、ひとりでさっさと中に入って行く。少し躊躇いながら続いて入ってみたら、受付の店員さんが鎌田先輩と親しげな様子で、何やら話をしていた。
「今日はウチのイチオシメンバーが、三組もいる日なんですよ。ぜひぜひ最後まで聴いてやって下さい!」
両手で親しげに握手までされている様子に首をひねった。一体、何があったの?
「それではお言葉通り、最後まで鑑賞させてもらいます。さぁ中に入りますよ」
突然私の肩に手を回して、店の中へと誘導してくれた。中は薄暗い上にお客もかなり入っていて、正直動きにくい。だけど鎌田先輩のリードのお陰で、空いてる席に無事に座ることができた。
混み合っていた周りの様子に困惑しつつも、躰を密着させた鎌田先輩の存在を感じてしまって、んもぅ心臓が破裂しそうなほどドキドキする。
(薄暗くて良かった。ほっぺが熱い……)
コソッと目の前にある顔を伺うと、何事もなかったように、いつもの涼しい顔をしていた。女の人の扱いに慣れてるのかな。私ひとりでドキドキしてるのは、何だか損した気分――
「……何を怒っているんですか?」
唐突に、鎌田先輩の顔が近づいてきた。暗くても分かる、いつもと違う優しい眼差しに見えるのは、メガネがないせい?
「えっと……店員さんとのやり取りが、何だかおかしいなと思いまして」
鎌田先輩の視線のせいで、変な切り返しをしてしまった。
「ああ――向こうが勝手に、音楽業界の人間だと勘違いしたんです。話にそのまま乗せてもらいました」
さすがだな、私にはきっと無理。だって素直に、何でも白状してしまうから。
「で、不機嫌の本当の理由は何ですか?」
――何でバレてる!?
私ひとりがドキドキしているのが不服だとは、ハズカしくて言えるワケがない。
「私も鎌田先輩みたいに、仕事ができる人になりたいです」
誤魔化そうと適当なことを口走ってみた。でもこれは、正直な自分の気持ちだった。目の前にいる鎌田先輩は、いろんな意味で羨ましい。仕事ができるし、それなりに人望もある。一つ不満なのは、キツい言葉を使って怒らなければもっといいのにな。
「そうですね。これからはもう少し、物事に対して視野を広げて下さい。いろんな世界が見えて、きっといい勉強になりますから」
いつも通りの冷静な返答……職場にいるのと、ちっとも変わらない。
――何か違った、リアクションが欲しい。
「鎌田先輩は私といて、ドキドキしますか?」
その質問に、近寄ってた顔の位置があからさまに引かれてしまった。
「ドキドキしますよ、いろんな面で」
何故か、片側の口の端を上げて笑っている。
「真面目に答えてるのに変な切り返しをしてきて、かなりドキドキさせられましたし、先程の支離滅裂な発言も結構ドキドキしました」
「は……?」
「出会ったバンドの中で一番素敵とか言って、点数を稼いでやろうなんていう魂胆は、見え見えなんですよ」
そう言って私の鼻を、長い指でキュッと摘まんできた。
「ほんたんなんへ、ほんあぁ」(魂胆なんてそんなぁ)
「この俺を翻弄させようなんて、百年早いです」
メガネなしの眼差しは、どこまでも優しくて物言いは難だけど、すごく楽しそうに見える。しかも今『俺』って言った――普段は言わないのに。
目の前にいるのは、本当にカマキリなの? ものすごい大嫌いな先輩だったのに、ずっとドキドキしてる。――私おかしい、どうかしてる。
摘ままれていた鼻の指がデコピンの形に変化して、私のオデコに直撃した。
「イタイ……」
「何をぼーっとしてるんです、ステージにバンドが入りました。彼らですか?」
「えっと、違います」
「店員オススメのバンドの中に、入っていればいいのですが――」
始まった曲のテンポに合わせて長い足でリズムを刻む鎌田先輩から、目をそらすことができずにいた。職場で見る真剣な顔とは、また違った雰囲気。メガネがないだけなのに――
鎌田先輩が歌うボーカルの姿に絶句して、出会ったときと同じように周りの音が全く聞こえない状態になった――胸の鼓動が高鳴ったまま、一向に収まる気配を見せない様子に困惑するしかない。
こんな短期間で、恋に落ちたのは初めてだった。
***
「――残念でしたね」
結局、私が先週見たバンドは出なかった。
「店員オススメの中に入ってなかったんですから、きっと大したことはないんでしょう」
なぜだか楽しそうに瞳を細めながら、鎌田先輩が言う。
「ホントに良かったんですよ。歌詞に共感が出来るみたいな」
「では、どんなフレーズなんですか?」
「うっ……」
「覚えてないということは、その程度のレベルなんです。いい音楽を聞くと必ずどこかのフレーズやメロディーが、心の中に残るものですから」
そう言ってスーツの上着を脱いで、夜風にあたる。ちょっとした仕草にドキッとしてしまい、直視ができない。頬に熱を感じ、思わず俯いてしまった。
「だから君に、俺のバンドがどうだったかを聞いてみたんですよ」
「ううっ、すみません……」
「しょうのない人ですね。そんな君だからしっかり聞いてほしくて、予定表を渡したんです。見に来てくれますか?」
数歩先前を歩く鎌田先輩が、ゆっくりと振り返る。
「……友達とその内、お伺いします」
どんな顔をしていいのか分からず、俯いたまま答える。さっきから鎌田先輩の顔が、マトモに見られないでいた。
「じゃあそのときは、ぜひとも感想をお願いします」
呆れた声と一緒に、ため息が耳に漏れ聞こえてきて。その雰囲気に恐るおそる顔を上げると、優しい眼差しとぶつかった。
「遅くなりましたので送ります」
ふわりと笑って視線を逸らし、私の前を颯爽と歩く。入り組んだ道を迷うことなく、まっすぐ歩くことを不思議に思った。
「あの……私の家、ご存知なんですか?」
「君の自宅だけでなく、デスク周りの人間の住所と電話番号は頭に入っています。何かあったときのためにです」
私の問いかけを、前を向いたまま答える。当然、どんな表情をしているか全然分からない。
「……そうなんですか」
仕事関連がしっかりしてる人だからなぁ、私だけじゃないのね。
「……よくできた上司だと誉めて下さい」
「えっと――?」
「バンドの俺と仕事してる俺、どっちがイイですか?」
目を細めて笑いながら振り向きざまにされてしまった突飛な質問に、どう答えていいのか分からない。正直、お口が開きっぱなしである。
「プッ、可笑しな顔してますよ」
片側の口角を上げて、さもおかしそうに笑いながら先を歩く鎌田先輩。自宅に着くまでマトモな会話はなかったけど、自分の目に映る大きな背中が何かを語っていたような気がした。
明日職場で、普通に会話ができるかな――?
眠りにつく前に今日あった出来事を考えただけで、ずっとドキドキしっぱなしだった。
――いかん、興奮して眠れない……
***
ライブハウスに着く直前、君の足が急に重くなる。自分達のスーツ姿に、どうやら違和感を覚えたらしい。
俺がいつもこの格好で行くと言うと、かなり驚いた様子だった。それでもまごまごしているので、その場に置いてきぼりにしてみる。少ししたら観念した顔の君が中に入ってきた。
店員が何故だか業界の人間と錯覚したお陰で、タダでライブを鑑賞することができてしまう。しかもオススメのバンドが三組いるという、前情報が手に入ったのもラッキーだった。
相変わらずしょぼくれた君を何とかしたくて、思いきって肩に手を回してみる。華奢な躰がビクッとして一瞬強張ったが、すぐに緊張をといてくれた。
その様子を横目で見て、内心ほっとしながらライブ会場に入る。思ったより狭いところだったので、動きが取りにくい状況に眉根を寄せた。
(他のヤツに、彼女を触れさせてたまるか)
回した腕に力を入れながら強引に君を壁側に寄せながら客の合間を縫っていると、空いている席が隅の方にあったので、そこに座らせる。
途中何度か視線を感じたが、スルーさせてもらった。目を合わせたらきっと、大変なコトになるのは明白だ。
席に着いて君の顔を盗み見すると、何だかふくれていた。理由が、さっぱり分からない――何かあったのだろうかと、顔を近づけてみる。
「何を怒っているんですか?」
なのに君は変な切り返しをして、理由をなかなか言わない。その上……
「鎌田先輩は私といて、ドキドキしますか?」
なぁんて質問までしてきた。何かを悟られそうで、思わず顎を引くしかない。怒っている理由同様に、一体何を考えているのかさっぱり分からない。
会社では君の失敗にドキドキさせられたり、行動を見てるだけでいろいろ危なっかしいし、常にあどけない表情を周りに見せるから、ハラハラさせられっぱなしなんだが――
ちょっと憎たらしくなって、君の鼻を摘まんでしまった。可愛いを通り越して何とやら。この俺が、こんなに翻弄させられるとは……。
これまでいろんな女性と付き合ってきたが、長続きしても半年。好きになってもなかなか告白できずにいたら、男ができたことが二回。やっとの思いで告白して付き合ってもイメージと違うと言われ、振られたことが何度あっただろう。
『私がいなくても、アナタはひとりでやっていけるわ。だから平気よね』
と振られたのがちょうど三年前か。
年上の女性と自分の意に反した行動を強要させる女性が苦手だったので、付き合わないようにしていたのだが、さっき社内で連れまわされたのは、明らかに意に反した行動だった。それなのに引きずられるように歩かされても、全然嫌じゃなかった。
――俺、丸くなったのかな。
ぼんやりと君を見る。
あまりの可愛らしさに、思わずデコピンをお見舞いした。この行動の半分は、八つ当たりだったのかもしれない。
本当は残業をしなければならないくらい仕事がたまっていたのに、それよりも君と一緒にこうしてライブに行けるという、魅力的な仕事を優先してしまった。明日は間違いなく残業が決定だけど今のデコピンで、ちょっとだけ気分が晴れてしまうなんてな。
心を躍らせるような音楽を聴きながら、傍に君がいることの喜びをしっかりと噛み締める――
結局、君贔屓のバンドに会えないまま、ライブハウスをあとにした。
傍に君がいるだけで勝手に体温が上昇したので、上着を脱いで涼しい夜風に身を任せる。
思いきって予定表を渡した理由を教えてみたのに、君はずっと俯いたままだった。何か気に入らないことでも、いつの間にかやってしまったのだろうか――?
そう考えていたら、ため息をつくと同時にゆっくりと顔を上げる君。
頼りないとか儚いとか何だかよく分からない雰囲気を醸している君を、このままひとりで帰すわけにはいかなかったので、迷う事なく家まで送ると提案してみた。
自宅を知っている理由を聞かれたが、曖昧に返答するしかない。たまぁに遠回りして、君の自宅前を通って帰宅していたのだ。そんなことは口が裂けても言えない。一見、ストーカーだから尚更。
元気のない君を何とかしたくて、
「バンドの俺と仕事の俺、どっちがイイですか?」
なぁんて質問してみた。君の突飛な質問に対抗したら目を大きく見開き、ぽかんとした顔をする。
俺がじっと見つめた途端にあたふたして落ち着きのない、いつもの君に戻った。
(――見事、作戦成功!)
だけどここから会話をどう展開していったらいいのか分からなくなり、無言のまま君の自宅に着いてしまう。
「今日サボってしまった分だけたくさん仕事がありますので、覚悟しておいて下さい。おやすみなさい」
そう言って別れた。君はその場に佇んだまま、こっちをじっと見ている。
少々、イジメすぎただろうか――今日一日でいろんな顔の君を見ることができて、俺としては嬉しいんだけどね。
次の日、部署へたどり着くのに、えらく時間がかかってしまった。
昨日あの鎌田を引きずり回し、きっと押し倒して凄いことをしたであろう女子社員! というワケの分からないレッテルを勝手にはりつけられた挙句に、同期やらいろんな人に質問攻めにあった。
「視野を広げなさいって、こういうことだったんだ……」
――今更ながら痛感。
みんなに何でもないことを言っても、なかなか信じてもらえなかった。だけどあの鎌田だから何もなく終わったんだろうと皆さん勝手に完結してくれた。これも普段の鎌田先輩の人徳なんだろう。
仕事がたまってるって宣告されているのに、いつもより出遅れて部署に入ると鎌田先輩は既に仕事モード全開だった。
「おはようございますぅ……」
ドキドキしながら挨拶する。
「おはようございます。コピーする書類を、デスクの上にまとめておきました。枚数も書いてあるので、今すぐにお願いします!」
テキパキと指示を出して電話をかけながらパソコンと格闘している鎌田先輩に、思わず見とれてしまった。
「……おはよう!」
後方からの声で、ハッと我に返る。
「あ、小野寺先輩、おはようございます……」
「山本さんってば、朝から噂の的だね」
コソッと話しかけてきた。
「ちょっと急ぎの用事があって、付き合ってもらっただけなんです」
忙しそうな素振りをして、デスクの上の書類をてきぱきと整理しつつ答えてみた。
「すみません、急ぎの仕事があるので失礼します」
そう言って、小野寺先輩のお喋りを切り抜けることに成功した。やれやれ――
***
「ふーん……」
昨日のことを詳しく聞こうと思ってたのに、あっさりと逃げられちゃった。
目の前のコブは昨日と打って変わって、仕事を鮮やかにこなしている。ポーカーフェイスの達人だし、俺が揺さぶりかけてもその表情からは読み取れないだろう。
さて、どうしたものか――
「小野寺さん、ちょっと」
入口に目をやると、付き合っている受付嬢が手招きしていた。
「取引先の山田さんて方が、小野寺さんに会いに来ているんですが」
そんなヤツ、知らないんだけどな。何か楽しい裏取引きの話だったりして。
「わざわざ呼びに来てくれて有り難う、一緒に下に行くよ」
笑顔を振りまきながら告げて、部署をあとにした。
***
「いつも通り過ぎて、何だか拍子抜けしちゃった」
昨日の一件で何となくだけど、少しだけ距離が縮まった感じがしたのにな……
コピー機から出てくる紙を見ながら、いらないことばかりを次々と考えてしまう。ため息をつきながら書類を纏めてデスクに戻ると、鎌田先輩とばっちり目があった。
「コピー、有り難うございます。これから第三会議室に行って朝のミーティングしてきますので、小野寺が戻ったら、そこに来るように伝えてください」
「はい……」
「それとこれ」
上着のポケットからそっと、鍵を取り出す。
「一番上の引き出しの鍵です。俺の印鑑が押してある書類がチェック済みになるので、確認したら君の印鑑を押して課長に提出して下さい」
(あれっ? 今、俺って言わなかった?)
ビックリして鎌田先輩を見ても、そのことにまったく気付いていないらしく、急いで部署を出て行ってしまった。
――昨日の名残なのかな。少し……いや、かなり嬉しい。
いそいそ鍵を回して引き出しを開け書類を出そうとしたら、何かに引っかかってしまった。引っかかっている物をどけようと手を伸ばした瞬間、
「鎌田先輩のデスクの中の家捜し?」
「わっ!」
どこから出てきたのか、小野寺先輩が隣にいた。しかも体にかなり密着している状態だった。
「声をかけたけど、気がつかなかった?」
「はい、探し物に夢中だったので……」
「それで、鎌田先輩の引き出しからエロ本でも出てきたとか?」
笑いながら、引き出しの奥を覗き見する。
「ふーん」
密着している体をさりげなくどけて、自分のデスクに戻った。
「きちんと鍵を閉めないと、また鎌田先輩に怒られるよ?」
「そうですね」
妙なドキドキを抑えつつ、慌てて机の鍵を閉める。
「鍵付きの引き出しにしまっているくらいだから、とーっても大切な物かもね」
「えっ!?」
「奥にあった、青いリボン付きのプレゼントらしき物」
「はぁ」
「きっと元カノから貰った物で、なかなか捨てられないのかもしれないなぁ」
元カノから貰った、大切なプレゼント――
「ほら鎌田先輩ってさ、浮いた噂がないでしょ? もしかしたらその元カノのことを未練がましくずっと想っているから、誰とも付き合わないのかもなぁって思ったりしたんだよね」
「小野寺先輩、鎌田先輩が第三会議室に来るようにって言ってました……」
早くどこかに行ってほしい。胸がズキズキする――
「ああ、決算報告書を持って行かなきゃならないんだった。教えてくれて有り難う」
そう言って軽い足取りで去って行く、小野寺先輩を見ることができなかった。
目元が熱い……
やり場のない気持ちに胸が押しつぶされそうで、苦しくて堪らなかった。
***
「ハハッ。してやったりかな?」
スキップしそうな軽い足取りで、会議室へと向かう。少し遅かったのか、ミーティングは既に終わっていた。
「遅かったですね。どこで道草くっていたんですか?」
メガネの奥から、レーザービームのようなものが放出される。殺傷能力が半端ねぇ感じで、マジ怖い。
「俺も、鎌田先輩並みに忙しいんです。すみません」
頭を下げながら、報告書を手渡した。
「打ち合わせって言っても名ばかりな、朝の雑談でしょ、どうせ!」
俺は壁に寄りかかり、報告書に目を通す鎌田先輩を横目で見やる。どうせ、今朝の噂話の弁解を必死にしていたんだろうさ。
「何を言ってるんです。各部署との連携をはかるための大切なミーティングです」
――とんだミーティングだな。
鼻で笑ってから、鎌田先輩の目の前に立ってやった。
「……なんですか?」
「俺、鎌田先輩と男の勝負がしたいです」
「なんで君と、そんな勝負をしなければならないんですか?」
実にものすごく、不満そうな顔をしているように見える。
「彼女をかけて勝負をしましょうよ」
メガネの奥の瞳の色が、瞬く間に変わった。へえ、目は口ほどに物を言う例えはホントだね。
「隠していたんですけど、彼女を好きになってしまいました」
「っ……。君は受付嬢の彼女がいるのでは?」
へぇよく知っているじゃないか。噂には疎そうなのに。
「そうですね。だけどいつも気取ってばかりの女と付き合ってると、正直疲れるんです。鎌田先輩にはそういう話が、全然分からないと思うんですけど」
「…………」
「毎日、フランス料理ばかり食べていたら飽きるでしょ。そこにお茶漬けを出されたら、食べずにはいられない」
「彼女は、お茶漬けではありません!」
低く唸るように、鎌田先輩は言い放つ。悪いけどそんな脅しは、俺に通用しないから。
「だーって、お茶漬けって飽きがこないでしょ。それに最近気づいたんです、彼女結構可愛いなって。あどけない仕草もそうだけど、やっぱり笑ってる顔が一番好きだなぁと思いまして」
笑いながら目の前にいる怖い顔した先輩の肩に、優しくポンと手を置いてみた。僅かだけど震えているのが伝わってくる。
「先輩が大事にしている彼女、俺が美味しく戴かせてもらいますね」
耳元でそう宣言して、会議室をあとにした。鎌田先輩の顔は顔面蒼白だった。
***
「たっだいまぁ」
明るい声の小野寺先輩とは対照的な、真っ暗い私の心。引き出しにあったプレゼントが元カノからの物だと決まったわけじゃないのに、たったあれだけのことで嵐のように心が乱されてしまった。
「おいおい、書類が逆さまになってるよ」
耳元で小野寺先輩が笑いをかみ殺したような声で囁く。今日はやけに体を密着してきて、すっごく不愉快だな――
「何か心配事があるなら、俺でよければ相談にのるよ?」
覗き込むような視線をやり過ごすべく、微妙に椅子をずらして小野寺先輩からそっと体を離した。
「いえ、大丈夫ですから」
やんわり断ると、目を細めて私の顔を眺める。
「さっきさ、鎌田先輩と楽しい話をしてきたんだよ」
「えっと……?」
「キツネの目の前にあった、とっても美味しそうな油揚げが、トンビにさっさと捕られちゃう話なんだけどね」
「……トンビではなく、雑食のカラスなのでは?」
いつの間にか現れた鎌田先輩が小野寺先輩の腕を掴み、強引に後方へと引っ張った。
「雑食のカラス……ねぇ。ふぅん」
二人の間に見えない火花が、ばちばち散っているように見える。もしかして会議室で何かあったのかな?
自分の想いでいっぱいいっぱいだった私には、全く想像できなかった。