「千春………」
思わず僕は、元彼の名前を口にした。
脳裏に千春の姿がよみがえり、しばらく僕は目の前に彼女をぼうぜんと見つめた。
「なんで、助けたんですか?私は、ここで死にたかったのに」
目の前にいる彼女が一歩僕に近づいて、強い口調で問いつめるように言った。
顔は僕の好きな千春にそっくりだったが、性格は似てなかった。まるで、生きることに希望をなくしているように思えた。
「私は、死にたかったの。なんで、助けたの」
「それは………」
彼女にもう一度訊かれて、僕は言葉に詰まった。
さっきまでは死にたかったら勝手に死ねばいいと思っていたが、なぜか彼女に口に出してその言葉が言えなかった。今はなぜか、彼女に生きててほしいと思った。そして、この彼女を助けてよかったと思った。
「もういいです」
助けた理由が答えられなくてあきれたのか、彼女は僕に背を向けた。
「今度こそ死ぬんで………じゃまはやめてくれませんか?」
そう言って彼女は、右足をゆっくりと上げて歩道から道路に飛び出そうとした。
「君には、死んでほしくなかったから。僕の好きだった、彼女に顔が似てるから。だから、助けた」
僕は、彼女を助けた理由を口にした。
「え!」
後ろから聞こえた僕の言葉を聞いて、彼女の足がピタリと、そこで止まった。
「それが、私を助けた理由?」
彼女は振り返らず、小さな声で僕に訊いた。
「うん、そうだよ」
それは、咄嗟に思いついた理由だった。
僕が彼女を助けた理由ははっきりとなく、どちらかと言うと反射的なものだった。それが偶然、僕の好きだった千春に似ていた。
「あなたの愛した女性、私と顔が似てたのですか?」
「似てるよ」
似てるというよりも、そっくりだった。違うとしたら、性格ぐらいだ。千春はどんな深刻な状況でも、前向きな性格をしていた。僕は、千春のそこを好きになった。
「ざんねんです。あなたの好きな人に顔が似てなければ、私は死ねたのに………」
そう言って彼女は、振り向いた。
「名前、なんていうのですか?」
「………陸。西田陸」
彼女にそう訊ねられて、僕は自分の名前を言った。
「君は?」
「千夏………秋野千夏」
「千夏………」
僕は、彼女の名前を口にした。
顔もよく似ているが、名前も似ていることに僕の好きだった千春の姿が脳裏によみがえる。
「責任とってください」
「へぇ?」
「私の命を助けたのだから、一周間しか生きれない私と付き合ってください」
「はぁ ?」
とつぜんの千夏の申し出に、僕は驚いた顔をした。
「似てるんでしょ。あなたの好きだった人と、私が」
「それはそうだけど………」
拒否できない千夏の言い方に、僕は嫌とは言えなかった。
「じゃあ一周間、私の短い彼氏になってください」
「………」
僕は付き合うとは言ってないが、差し出された千夏の白い手を握った。
*
ーーーーーーピィピィピィピィ。
「朝か………」
翌朝、僕はうるさく鳴り響く目覚まし時計の音で目を覚ました。ぼやけた視界に映ったのは、いつも見ている白い天井だった。
昨晩、けっきょく僕は千春のお墓には行かなかった。千春そっくりな千夏という女性と出会い、LINEと電話番号を交換して家に帰った。
「うるさいなぁ」
けたたましく鳴り響く目覚まし時計のボタンを軽く右手でボタンを叩いた後、僕は寝室からリビングに向かった。
「おはよう」
うつろな目をこすりながら、僕はあいさつをした。
「おはよう」
僕の声が聞こえたのか、母親は笑顔を浮かべてあいさつをした。しかし、表情はなんだか貼りつけたような笑顔のように思えた。
「お母さん、昨日もおそかったの?」
「ちょっとね。飲んでたから」
昨晩のことを思い出したのか、母親の口調は明るかった。
昨晩、僕は千春という女性と別れてすぐに家に帰ってが、母親の姿はなかった。はっきりと覚えてないが、僕が帰宅した時間はたしか十一時近くだったはず。さすがに父親も帰宅しており、僕は怒られた。
「まぁ。家の用事もしてるんだし、パートの仕事だってちゃんとやってるんだから。友人と、お酒ぐらい飲ませてよ」
軽い口調で言いながら、母親はテーブルの上に今朝の朝食を置いた。
母親の口からアルコールの匂いがかすかにして、僕はまたお酒をたくさん飲んだなぁと思った。
「そりゃそうなんだけどさぁ…」
それを言われると、僕はなにも言えなくなる。
たしかに母親はパートの仕事だってやってるし、家の用事だってやってる。それについてはなにも文句はないし、むしろ感謝している。だが、もう少し早く帰宅してほしい。できれば、父親が帰って来る前に。それと、飲む量も自分のためにももう少し減らしてほしい。
「はぁ 」
母親に自分の思ってることが伝えられなくて、僕の口からため息が漏れた。
食卓テーブルの上に置かれている、今朝のトーストを僕は手に取って食べた。表面がこんがりと焼けたきつね色のトーストをかじると、僕の口の中でバターの風味が広がった。その後、青色のマグカップに注がれた、冷たい牛乳を飲んだ。トーストと牛乳の組み合わせは小さい頃からの僕の好きなメニューであり、高校生になっても、味の好みは変わらない。
「今日は、八月二十八日。金曜日か………」
僕は、カレンダーに視線を向けてつぶやいた。
昨晩、出会った千夏の姿が僕の脳裏に浮かび上がった。千夏が言ったことが事実なら、来週の木曜日に死ぬ。まるで、僕の好きだった千春のように。
僕は千夏のことが好きではなかったが、なぜか胸が苦しくなった。
「じゃ、行ってくる」
朝食を食べ終えた僕は、パジャマから制服に着替えて玄関先でそう言った。
「陸は、いつも早く家を出るのね」
「まあね」
僕は、短く答えた。
僕が家を早く出る理由は、千春のお墓に寄りたいからだ。千春のお墓の前で、たわいのない話をすることが僕の日課だ。いやーーーー僕の幸せだ。
「行ってらっしゃい」
母親がそう言ったのと同時に、僕は家を出た。
家を出ると、まぶしい日差しが降りそそいでいた。空を見上げると、雲ひとつない青空がどこまでも広がっていた。どこからとも聞こえるツクツクボウシの鳴き声が、夏の終わりを告げているように感じる。
「一周間か…」
僕は、一周間しか生きれない千夏のことを思い出した。
千春以外の女性は、もう好きになりたくなかった。けれど、なぜか彼女が気になった。
「千春の、お墓に行くか」
そう言って僕は、亡くなった千春のお墓に向かった。
「おはよう、千春」
このあいさつも、いつものことだった。
もちろんお墓で安らかに眠る千春からの返事はなかったが、僕は幸せを感じていた。
「天国での生活は、どうだ?」
「………」
なにも答えられないことはわかっているが、冬川千春の名前が刻まれた灰色の墓石を見ると、涙腺がゆるむ。
「ははは、ごめんな。答えられないよな」
僕は小さく笑いながら、千春の墓石を見つめた。
もう彼女としゃべることはできないが、こうしているだけで千春と過ごした記憶がよみがえる。
「僕は、親友の修也と仲良くやってるよ。高校に入学して、新しい人とも会った。けれど、千春以外に好きになることはないと決めている」
僕は、今の自分の私生活を千春に報告した。
この報告も、千春を安心させるためだった。
とつぜん僕がお墓に来なくなったり、千春以外に好きな人ができたら、天国にいる彼女が悲しむ。天国に彼女を悲しませないように、僕はいつも報告している。
「そういえば昨日、千夏という女性に出会ったんだ。顔も名前も、千春にそっくりな女性なんだ」
そう言った僕の口調が、急に明るくなった。
「べつに、好きとかそんなじゃないからな。ただ、千春に似てるだけで………」
天国にいる千春が悲しんでいるような感じがして、僕は慌てて言葉を付け足した。
「その千夏とかいう女性も、一周間しか生きれないんだって」
そう言った僕の声は、ひどく小さかった。
千春と千夏をあてはめるつもりはなかった。でも、どうしても似てる部分が多かった。そのせいか、千夏を思い出すと、まるで僕の好きだった千春を見てるように思えた。
「じゃ、またな」
そう言って僕は、学校に向かった。
午前八時三十五分、僕は学校に到着した。
「よぉ、陸」
教室の扉を開けて中に入ると、親友の修也が軽く右手を上げてあいさつをしてきた。
「よぉ」
軽く右手を上げて、僕は修也にあいさつを返した。
「陸。昨日はちゃんと、夏休みの宿題提出したか?」
からかうような口調で、修也が僕に声をかけてきた。
「提出したさ」
修也の質問に、僕は即答した。
「へぇ、結局提出したのか。昨日はあれほど嫌がってたから、出してないと思ったんだけどなぁ」
修也は驚いた顔で、僕を見つめた。
「めんどくさかったけれどなぁ。でも提出しなかったら、もっとめんどくさくなるだろ。せっかくやったんだから、提出したさ」
僕は、ため息混じりの声で言った。
家に帰ってすぐ、また学校に行くのはめんどくさかった。でも、夏休みの宿題を提出できたことに苦労した甲斐はあったと思えた。