会場を出たマリルはどこをどう通ったのか分からぬままにトリイに連れられてどこかの部屋に入っていった。
部屋は広く華美ではないが質の良い調度品がいくつかと、飴色に艷めく机と赤い背もたれの椅子が置かれている。クリーム色の絨毯に一歩足を踏み入れてドアを閉めるとトリイはマリルにソファーに座るように示した。
「…私は家に帰りたいのだけど」
「家に帰る?できると思っているのか?…シープネスの姫であることが世間に知らされた今でも?」
「それはそっちのせいでしょう?」
「…何も話すなと約束しただろう」
怒りを吐き出すような溜息を出した後、トリイは飴色の机に軽く腰掛ける。それは王子ともあろう者がするには少し行儀の悪い振る舞いと言えた。
「…私は家に帰りたいの」
小さいがきっぱりとマリルは言い切る。それからトリイを見つめた。
「私の素性が知れたことであの家には帰れない。そんなことわかってる。あなたがこの話を持ち掛けてそれを承諾した時から予想できた。…あなたは私を利用した。だから私もあなたを利用した、それで平等でしょう」
静かに淡々とマリルは言う。
「…初めからそのつもりで?」
「シープネスの姫だという動かぬ証拠が手に入ったのなら大人しくしているつもりだったわ。…でも、そんなもの手に入れられなかったでしょう?」
解りきったことだと言わんばかりの言葉にトリイは眉を上げた。
「確かに苦戦している。…が、その話はしていない。どうしてわかる?」
「手に入っていれば、さっさとそれを提示する筈でしょう。その方が問題は少ないもの。…それから、もう一つ。シープネスの王宮が取引に応じる筈ないのよ」
マリルはまるで祈るように両手を組み合わせ、顔の前に持ってきた。ぎゅっと手を握り、眉間にシワを寄せ、苦しそうに一度目を閉じる。
その姿は自身を捨てた生国を案じているようにも恨んでいるようにも見える。
「マリル=シープネスは生きていては都合が悪い人物なの。だから私がシープネスの皇女だった証拠は出てこないし、シープネスの人間もそんな証言はしない。私は自称シープネスの姫のまま、あなたの婚約者をいつまで続けられるかしら。…それでもいくらかの時間稼ぎは出来る。その間にあなたは権力者として力をつけて、それから私はまた元の生活に戻る。…あなたの最初の目的と何も変わらない」
「…そして公の場でシープネスの姫ではないと示されれば晴れてただの娘として生活できる。今までのようにシープネスの追っ手から逃げまくる必要もなく」
トリイの言葉にマリルはふっと微笑む。静かで寂しげな微笑みに見えた。
「そう。そして私は家に帰って穏やかに暮らす。それだけでいい。家に帰って静かな生活をする、それだけが私の望みよ」
マリルは静かに、けれど強い意思を滲ませた声で告げた。トリイを見据えたまま、目を反らすことなく。
部屋の中の沈黙を破ったのは外からドアをノックする音だった。
マリルは自身の望みを告げた後、一言も発することなく、微動だにしなかった。漆黒の瞳は手元を見ているが、それは遠い過去を振り返っているようにトリイには見えた。トリイはそんなマリルを少しの間眺めて、溜息をつくと、きちんと机に座り直し目を閉じた。愛用の椅子の背もたれに体を預け、これからについて思案する。
考える必要のある事柄は途切れることがなかった。
コンコン
2回ノックがされた後、返事も待たずにドアは開けられた。
そちらに視線を向けたマリルは現れた人物に目を瞬かせた。
そこにいたのは先ほど会場で出会ったアクリスである。
「お兄様、どうして勝手に…」
非難めいた視線と口調で足を踏み入れると同時にトリイを見たアクリスはそこにマリルがいることに気付き、あんぐりと口を開けた。
「…まぁ!マリル様、いらっしゃったの?」
驚きを隠せない顔でマリルを見つめるとアクリスはさっきよりも怒った顔をしてトリイを睨み付けた。
「お兄様!どうしてマリル様を客室に案内しないの!いくら婚約者と言ったって、まだ結婚もしてない男女がこんな夜遅くに一緒にいるべきではないでしょう!しかも、こんな暗い部屋で!」
照明は充分過ぎる程ついているし、この部屋は決して暗くはない。そうトリイが返すとアクリスは更にいい募る。
「そういう暗いではありません。私が言っているのは、こんな地味で野暮ったい、華やかさの欠片もない、お兄様の自室ではなくて、もっと美しい、マリル様に似合いそうな部屋に通すようにと言っているのです!」
「少し話をしただけだ。直ぐにお前のいうその華美な部屋へ案内する」
「華美ならいいってものではないのですよ!…お兄様の見立てたお部屋なんかでは、心配ですわ。私がご案内致します!」
会場で出会ったあの大人しそうな雰囲気はどこに行ったのか、アクリスはトリイに向かって捲し立てるとくるりと視線をマリルに向けた。その瞬間、彼女はにっこりと笑う。それは噂通りの見目麗しの笑顔で。
「…マリル様、お兄様に何もされておりませんわよね?何か失礼な事や発言でお気を悪くされておりませんか?」
心底心配そうにアクリスはマリルを覗き込む。恥ずかしくて花も萎れてしまうだろうその顔は確かにトリイと似通ったところがある。
どうして、直ぐに気づかなかったのだろうと、マリルは赤面した。
ダカールに姫がいたのは知っていたし、年の頃もよく見れば顔だって似ているところがあるというのに。
自分の至らなさにマリルがますます恥じ入って赤面すると、それを勘違いしたのか、アクリスはまたもや兄であるトリイを睨みながら振り返った。
「お兄様!何かなさったの!?」
悲鳴にも似た声でアクリスは叫ぶ。
「…そんな訳ないだろう。だが、もし仮にそんな事になったとしても、何も問題ない。なにせ婚約者だからな」
これにはマリルの方が焦った。
なぜ火に油を注ぐような事を言うのだろうか。否定だけで終わればいいのに。
案の定、アクリスは更にヒートアップしてトリイを責め立てている。可愛らしいその姿で今にもトリイに掴みかからんばかりだ。
「…あ、あの、アクリス皇女殿下。何もされておりません。ただ、話をしただけですの。こんな夜更けにみっともない事をしてしまい、申し訳ありません」
美人は怒ると怖い、とは確かにその通りのようだ。恐る恐る言葉を紡ぐマリルにアクリスは『あっ』と声をあげると、一気に潮らしくなった。まるでパンパンに膨らんだ風船が針で刺されて萎むようにしゅんと肩を下げる。
「…こちらこそ、みっともない場面をお見せしてしまい申し訳ございません。…その、私がお部屋にご案内致しますわね」
幾分、バツが悪そうにアクリスは言う。それに頷き、マリルはトリイの自室だというその部屋を後にした。自室には疲れた顔をしたトリイのみが残った。
アクリスに案内された部屋は先ほどの部屋とは全く違う、とても雰囲気の良い部屋だった。広さは少しだけ小さいようだが、深く美しい深紅のソファーが目を引く、華美過ぎず地味過ぎない部屋だ。
「…素敵ですね」
部屋を見ましてマリルはアクリスへと視線を向けた。
「気に入って頂けましたかしら?もし気になることがあれば遠慮せず仰って下さいね。お部屋も狭いようでしたら他の部屋へご案内致しますわ」
決して狭くない部屋なのだが、王宮の中では小さい部類に入るのだろう。マリルは顔の前で手を振った。
「このお部屋で充分です。…というか、もっと狭い部屋でも、何なら使用人の方と同じ部屋でいいのですが」
「それは難しいと思いますわ。マリル様はお兄様の婚約者ですし、シープネスの皇女殿下で在らせられますもの。それ相応の待遇をさせて頂かなければ」
マリルがシープネスの皇女であることをどれ程信じているのか、その笑顔からは推察は出来なかった。曖昧に笑うとマリルはアクリスに頭を下げた。
「ご丁寧に恐縮でございます。感謝申し上げます、アクリス皇女殿下」
「まぁ、皇女殿下などと他人行儀な呼び方なさらないで下さいな。私は『様』呼びしておりますのに……あっ、もしかして、私、馴れ馴れし過ぎましたか?お気を悪くされていらっしゃいますか?」
アクリスは焦り、マリルに心配そうな視線を向ける。何か恐ろしいことでも見つけてしまった子供のように不安げな瞳がマリルを見つめた。
その姿さえ、絵になる。まるで夢のような気持ちがする。むしろ、これは夢でマリルは本当はあの森の家の自分のベッドで寝ているのではないだろうか。とりとめもなくそんな事を考えている内にマリルは知らず知らずに無言でアクリスを眺め続けていた。
「…や、やっぱり怒っていらっしゃいますか…?」
今にも泣き出しそうな顔と声音が、マリルに現実を突きつけた。はっとして意識を戻したマリルは焦ってアクリスに首を振った。
「いえ、そんなことありません。どうぞお好きな呼び方をして下さい。なんなら『様』もなくても構いません」
マリルとしては自身が皇女と認められることはない筈だから、一般庶民と同じ立場のつもりだ。使用人と同じなのだから、『様』などいらないと言ったつもりだったのだが、アクリスは少々違う意味にとったようだった。
「まぁ!嬉しい!まるで本当の姉妹になれた気分ですわ。…私、ずっと親しくできるお義姉さまが欲しかったんですの。これからどうぞよろしくお願いしますね、マリル。あ、もちろん、私のことも『様』も『皇女殿下』もつけずに呼んで下さいね」
にっこりとアクリスは微笑む。この花も恥じらうような満面の笑みを目にして断れる人間はどのくらい存在するのだろう。少なくともマリルはその立場の人間ではない。後ろめたい気分を感じながらマリルはぎこちなく頷いた。
「こちらこそ宜しくお願いします……アクリス」
トリイの誕生パーティーは滞りなく終了した、とマリルは翌日部屋に現れたアクリスから聞いた。主役が途中退出し、いきなり曰く付きの姫が婚約者に現れたそのパーティーのどの辺りが滞りなく終了したのか、マリルにはわからない。
それでもその日から一週間経った今でもシープネスの使者は現れなかったし、トリイが、マリルがシープネスの皇女である証拠を掴むこともなかった。
日々は穏やかに何事もなく過ぎているように思える。
この二週間は至れり尽くせりの生活でマリルとしては手持ちぶさただが、アクリスがしばしば訪ねてきて話相手になってくれている。そのおかげでマリルも塞ぎ込むことなく過ごせていた。
誰もいないあの家がどうなっているのかは敢えて考えないようにしていた。
「…マリル、今少し宜しいかしら?」
ドアからひょっこりと顔を出し、アクリスが現れた。普段は午後に訪れるのだが、今はまだ午前中だ。珍しいと感じつつ、マリルは頷いた。
「もちろん。どうかしたの?」
日に日に打ち解けたアクリスとは既に敬語で話してはいない。一度敬語を外してから、これではまずいと言い直したマリルにアクリスは例の潤んだ瞳でそのまま敬語を外してほしいと訴えた。アクリス曰く、『いずれ姉妹になるのですから、敬語なんていりませんわ。…私も、敬語を使わなくても宜しいかしら?』とのことだった。敬語を使わなくなると、一層親しげにアクリスはマリルに笑いかけるようになった。
それ自体は不快でもなく、むしろ喜ばしいことだが、いずれここを去るつもりのマリルは複雑な気持ちが心に残っていた。
「もしよければ、これから街へお出かけしない?…お忍びで」
アクリスはマリルに近づくと内緒話のように唇を耳に寄せた。
「街に?…お忍びって…どういうこと?」
「もちろん、本当のお忍びではないの。護衛の騎士だっているし、二人きりではないわ。ただ、大袈裟にぞろぞろ遠くまで行くのではなくて、ちょっと城下町を覗くだけ」
「アクリス、あなた手慣れているようね?」
悪いことをしている気はまるでない様子のアクリスをマリルは多少呆れを含めて見つめた。アクリスはイタズラが見つかった子供のように、はにかむように笑う。
「…多少の経験はあるの。でも危険な目にはあったことがないし、気晴らしにはうってつけだと思うわ」
その気晴らしがアクリスにとってのものでなく、自分を気遣ってのことだと思い当たりマリルは苦笑した。塞ぎ混んでいるつもりはなかったのだが、周りからはその様に見えているのだろう。
「…わかった。では気晴らしに、私に城下町を案内してくれるのね?」
「もちろんよ。きっと楽しいわ。そうと決まったら着替えて行きましょう」
心底嬉しそうにアクリスはマリルの手を引いてドアを出で行った。
宮殿の使用人の別館でマリルとアクリスは着ていた服を脱ぎ、アクリスにとっては粗末な、けれどマリルにとっては当たり前の庶民的な洋服に着替えた。二人とも白いブラウスにマリルは濃い赤のスカート、マリルは淡い水色のスカートを穿いている。
アクリスは手慣れたものでその庶民の服に違和感は感じなかった。ただ、その愛らしい顔に違いはなく、どの服を着ても美少女であることに変化はなかった。
二人が連れだって城門を出たところで一人の青年が近寄って来た。
「クリス、そちらが例の?」
青年はアクリスに話しかけ、マリルへと視線を向けた。
アクリスはにっこりと微笑む。
「そうよ。…マリル、今から私のことはクリスと呼んでね。アクリスだとバレてしまうから。それから、私もマリルではなくマリーと呼ぶわね。…こちらは騎士のケイト=ハジル」
「…ケイト=ハジルって…それはもしかして…」
この国の騎士のトップではないのか。国王選任の護衛騎士団の団長がその名前である筈だ。確かまだ若く、国王の息子であるトリイとは同年だといつかの新聞で読んだ記憶がある。
「多分、マリーが想像している人物で間違いないと思うわ」
あっさりとアクリスは肯定する。
なぜ騎士団の団長がここにいるのか、国王を護衛する仕事はどうしたのか、なぜお忍びの町歩きに彼がついてくるのか。疑問がマリルの頭の中を飛び回る。
その疑問を察したのかケイトがマリルににこりと微笑んだ。
淡い茶色の髪と黒縁の眼鏡、ラフなワイシャツ姿の彼は、一見して騎士には見えない。体の線も細く見え、温厚そうな爽やかな青年の印象を与える。
「…失礼ながら、今だけはマリーと呼ばせて頂きます。バレてしまっては面倒ですから、敬語も外して宜しいですか?」
聞かれてマリルは頷く。ケイトは安心したように更に笑みを深くした。
「良かった。実は敬語、苦手なんだ。…今日は仕事はお休みだからね。そこに可愛らしいお嬢さん方と城下町の散策のお話が舞い込んできたから、俺としてはこれ以上ない程の休日だよね」
爽やかに笑顔を振り撒いてケイトはアクリスとマリルの肩に手を回す。ぎょっとしてマリルは思わず身を固くしたが、ケイトはそのまま二人を連れて歩き出した。
「ケイト、マリーにベタベタ触らないでね」
「じゃあ代わりにクリスにベタベタしていいの?」
「…ふざけないで」
じろりとアクリスがケイトを睨む。マリルはこの少女が誰かを睨む姿など見たことがなかった。
驚いているマリルの肩から手を離し、ケイトはアクリスを見つめた。
「…怒った顔も可愛いよ」
にこにことアクリスを眺めるケイトを冷ややかに一瞥し、アクリスは自身の肩に乗っている手をつねった。
「痛い痛い!」
叫んで肩から手を離すケイトを無視し、アクリスはマリルへと心配そうな視線を向けた。
「マリー、大丈夫?何もされてないわよね?」
「その言い方、傷つくなぁ…。ちょっと触っただけじゃん」
「ケイトは黙ってて。マリーに聞いてるの」
「大丈夫よ。少し驚いただけ」
アクリスはケイトからマリルを守るように隣に移動すると更に『本当に?』と尋ねた。マリルはもう一度頷く。
「…良かった。何かされたら直ぐに言ってね」
「…ありがとう」
アクリスからのこの信用度の低さに多少の不安を覚えながらマリルはぎこちなく笑顔を返した。
ダカール国王の守護騎士の一人であるケイトは普段はしないであろうお忍びの城下町の護衛に非常に慣れた様子だった。
アクリスは道中、彼の目の前で彼を『風船でできたような軽すぎる騎士』と評した。実際ケイトは町中の娘達から熱い視線を受け、その度に甘ったるい断り文句を口にした。その度にアクリスがケイトに向ける視線は冷ややかさを増していった。そしてその瞳の中にその度に嫉妬の色が映るのをマリルは見逃さなかった。それをケイトが毎回確認し、その度に彼が嬉しそうに笑うことも。
「…私、完全にお邪魔虫よね?」
どちらにともなく呟くマリルに二人が同時に首を傾げた。
「お邪魔虫?何を言ってるの?」
「そうだよ。こんな美人を邪魔だなんて、誰が言うのさ?…あ、アイス売ってるね。二人とも何味がいい?」
ケイトは通りの出店を示す。
「味は…バニラとチョコとイチゴとチョコミントだって」
看板に目を凝らしケイトはメニューを読み上げる。距離としては近くないのだが、よく見えるものだとマリルは感心した。
アクリスはイチゴを頼み、マリルはチョコミントを頼んだ。ケイトは直ぐにそれらのアイスを買ってきてそれぞれに手渡した。
礼を言って受け取りアイスを一口かじる。
マリルの口に独特の甘くすっきりした味わいが広がった。
アイスを食べて城下町を三人でぶらぶらと見て回った。それは確かに気晴らしになる時間の使い方だった。
誰かと話ながら買い物をするのはマリルにはあまり経験がなかったが、アクリスとケイトに連れられて歩く度にその楽しみを感じていた。
だから忘れていたのだ。
自分が追われる立場であることもその身を隠す必要がある存在だということも。
崩れてくる材木を眺め身動きもできないマリルを誰かが突き飛ばした。
地面に尻餅をついて転んだマリルの耳に周囲から上がった悲鳴が飛び込んできた。
建築中の建物の材木が突然バラバラと崩れて来る。
使用予定の材木は一ヶ所に集められ縄で固く固定されていた。太い丸太のままの材木が何本かと形の整えられた柱のような材木が何本かそこに集められていた。
ガッシャーンと騒々しい音を立てて材木は通りに倒れ込んでくる。
道行く人々は少なく、被害にあった人物はほぼいない。
突き飛ばされたマリルは顔を上げ、自分がいたであろう場所にケイトとアクリスの姿を見つけて小さな悲鳴を上げた。
駆け寄ろうと立ち上がるが、足が縺れてもう一度膝をつく。
その間に周囲から援助の手が二人の元へと伸びていく。
バラバラに倒れた材木の内の一本がケイトとアクリスの元へと伸びている。ケイトがアクリスを庇うように抱きしめ、彼の頭からは血が流れている。材木は駆けつけた人々によって横に移された。マリルはその間に二人の元へと移動した。
「大丈夫!?」
大丈夫ではないことは見た目でわかるが、そう声をかけずにはいられない。マリルに気づいたケイトはアクリスを抱く腕の力を緩め、マリルにアクリスを預けた。
「…大丈夫。ほら、傷一つないよ」
アクリスを示してケイトは嬉しそうに笑う。その顔に向かってアクリスが声を荒げた。
「バカ!私の話のはずないでしょう!」
「ほら、元気そう」
ははは、とケイトは声を上げて笑う。その間にも頭から血が流れ続け、彼は駆けつけた人々に担架で運ばれようとしていた。
「あ、担架は大丈夫です。多分ちょっと切っただけだから。意識もこれだけはっきりしてるし」
担架で運ばれることを拒否するケイトをアクリスが更に非難する。
「何を言ってるの!?大人しく担架に乗りなさい!」
「いやいや、大袈裟だって。…ねぇ?」
ケイトは助けを求めるようにマリルに視線を向ける。マリルはケイトに首を振った。
「担架に乗って。…私達も一緒に行くから。心配しないで。きちんと治療を受けましょう」
ケイトは自分とアクリスを気にして担架に乗らないのだとマリルは解釈した。騎士として立派な心掛けだし、行動なのかもしれないが、それより今はケイト自身を心配するべきだとマリルもアクリスも思っている。
「…側を離れないと約束できる?」
マリルとアクリスの視線に負けたようにケイトは溜息をつく。マリルはケイトに向かって頷いた。
「約束する。目の届く範囲にいるわ」
「わかった。但し、担架には乗らない。歩けるし何かあった時に困るから」
これ以上譲る気はないと言外にケイトは伝えている。確かに彼の立場上、これ以上の失態はできないし、何より二人を本当に心配している様子が見えた。
しっかりと固定された材木が三人を目掛けて、その上タイミングよく紐が切れるなど、偶然とは思えない。
何らかの人為的な意図があったとケイトは気付いていたし、そうなった場合二人を残しては置けないのだろう。
マリルとアクリスはケイトを間に挟み、ケイトの要望通り歩いて診療所へと向かった。
ケイトは本人が言うように少し頭を切っただけで特にどこも痛めていなかった。
単に石頭だっただけなのか、普段の訓練の賜物なのかはマリルには判然としないが、とにかく、無事だったことに安堵した。
診療所に歩いて行き、そこで簡単な止血をしてもらった彼は、駆けつけてきた部下にマリルとアクリスを王宮まで送らせた。マリルとアクリスは沢山の護衛に守られて王宮に戻り、起こった出来事について国王に報告した。それからゆっくりと風呂に入り、清潔なベッドの上で眠った。
その翌日、マリルはトリイに呼び出された。
トリイの部屋には頭を包帯で包んだケイトがおり、マリルは驚いて彼を見つめた。
「具合は?もう動いて大丈夫なの?」
トリイの前であることも忘れて昨日のように敬語を外してしまい、マリルは思わず口元を押さえた。だが、ケイトは気にすることもなく、昨日と同様砕けた様子で返答してきた。
「大丈夫。昨日はありがとう。気を使わせて悪かったね」
「いえ、それはいいのだけれど…」
ちらりとマリルはトリイを見る。それに気付いてケイトは何でもないようにひらひらと手を振った。
「トリイのことなら気にしなくていいよ。俺が敬語を話さないのなんて少しも気にしてないから」
「…それは、いいのかしら?」
「昔の誼でいいにしているだけだ。大体、こいつの下手な敬語を聞くよりはいい」
トリイはケイトを冷ややかに眺め、一度首を振ってからマリルへと視線を移した。
「昨日の件だが…」
「あ…申し訳ございませんでした。勝手に王宮を抜け出した挙げ句、あのような…」
「責めてない」
予想していた通り叱責されるのだろうと頭を下げたマリルをトリイは遮った。
「…はい?」
『責めてない』とは聞き間違えだろうか。思わずトリイを見たマリルは、彼が憮然とした顔をしているのを見た。やはりさっきのは聞き間違えだともう一度謝ろうとした所に、トリイは更に続けた。
「昨日の出来事は誰かに予想できた事ではない」
「…予想はできなくても用心していれば防げたことでは?」
「充分に用心はしていた。昨日の事は不足の事態だ。従って王宮を勝手に抜け出した不肖の妹と婚約者に非はなく、それを防げなかった情けない騎士は減俸1ヶ月とする。…それで押し通してきた。だから妙な言動は慎むように」
相変わらず憮然としたままのトリイをマ
リルは驚いてしげしげと眺めた。
マリルの中ではトリイがこんな事を言うとは思ってもいなかった。トリイはマリルを叱責するだろうと考えていたし、だからわざわざ呼び出したのだと思っていた。
何より、こんな風に誰かを庇う姿が想像できなかった。
「…何か?」
珍しいものを見る時の顔をしているマリルに不機嫌そうにトリイは尋ねた。
「…誰かを庇うようには見えなかったわ…特別に仲が良いのね」
正直に伝えるとトリイは大仰に顔をしかめた。
「気持ち悪い言い方するな。…それより、本題に移るぞ」
顔の前で手を組み合わせトリイは眉間に皺を寄せる。その本題が面白くない話だということはその様子を見ればわかる。マリルはトリイの前で姿勢を正した。
トリイの持ち出した本題は、予想通り全く面白くない話だった。嫌々口を開くといったトリイの様子を見ながらマリルはその内容に内心で舌打ちした。
「…まず、材木が倒れ込んだ件だが、それが人為的な事は理解できてるな?」
こくりとマリルは頷く。タイミングが良すぎる事もあったし、翌日には材木を固定してあった紐が人の手によって切られていたと聞かされていた。
「犯人は?」
「捕まった。…シープネスの工作員だった」
苦々しく思いながらトリイは告げる。そのままマリルを見据えるがマリルは特に驚いた表情もせずトリイを見返した。その漆黒の瞳は静かなまま変化を見せない。
「あまり驚いてはいないようだな」
「その可能性を考えなかったわけではないから」
静かだがきっぱりとした物言いにトリイは眉を上げる。
「まさかとは思うが、犯人を知っていた事はないよな?」
マリルが犯人を知っていたのなら、それはシープネスとの共謀を意味する。マリルの様子からはその気配も、動機も見当たらないがトリイとしては確認しないわけにはいかなかった。
マリルは首を振り、トリイを見据えた。
「知らないわ。…疑わしくは見えると思うけど、本当に知らなかった」
その声音には後悔の色が滲んでいる。シープネスの工作員が犯人だったとなれば、狙いはマリルだと考えるのが妥当だ。ケイトとアクリスは巻き込まれたに過ぎない。マリルはケイトへと視線を向けた。
「…怪我は私のせいね。ごめんなさい」
深々とマリルは頭を下げる。頭上からトリイの深い溜息が聞こえた。
「妙な言動は慎むように伝えた筈だ」
「この場合、謝るのは当然の事でしょう?」
「自分が関与していないのに謝る必要はない」
「…傲慢だわ」
ピリピリと場の空気が緊張感を帯びる。それを解いたのは成り行きを見守っていたケイトだった。
「……いやいや、何でそんな言い方になっちゃうかな…」
ケイトは溜息をつき、頭を横に振る。次いでトリイへ呆れた視線を向けた。
「もう少し分かりやすく正直に伝えるべきだよ」
じろりとトリイがケイトを睨むがケイトは全く気にすることもなく、マリルに顔を向けた。
「トリイが言ってるのは『マリーのせいじゃないから気にするな』ってことだよ。全く、言葉の選択肢が何であんなキツい言い方になるのか、理解できないよね」
これ見よがしに大きな溜息をついたケイトにマリルは首を傾げた。
「…とてもそういう意味には…」
「あの言い方じゃあねぇ。もっと言い方があるし、そもそも素直に『気にするな、心配するな』って言えばいいのに」
ケイトは再度、深く溜息をつく。それはまるで弟を見守る兄のように見える。
マリルはケイトからトリイへと視線を移す。その途端トリイはマリルから顔を反らせた。それが今度は子供がぷいっとそっぽを向くように見えてマリルは思わず綻んだ口元を手で覆った。
「…気にしてくれたの?」
トリイはマリルを振り向き、無言で手招きする。素直にそれに従いトリイの目の前まで近付いたマリルの頭にトリイは手を乗せる。
ポンポンと二回頭を撫でられてマリルは驚く。
翡翠色の瞳には気遣う色がある。自分とは違う男性の大きな手の重みがある。小さな子供の頃に父親に撫でられた時のように守られている気がしてマリルは気恥ずかしく感じた。
「言い方が悪かった。気にするな」
「……はい」
間近でじっと見つめられてマリルの頬がほんのりと赤くなる。それに気付いているのかいないのか、トリイはマリルの頭から手を離した。
「わかっていると思うが、シープネスが関わっている以上、妙な…いや、危険な言動はしないように。できるだけ単独行動は避けるように」
トリイは一旦言葉を切り、マリルを見つめた。ほんの少し迷うような顔をし、トリイは口を開いた。
「…心配している。何かあったら直ぐに言うように」
それからトリイはまた顔を背けた。その耳はほんのりと赤く見えた。
トリイの部屋から出て与えられた客室に戻ってきたマリルはドアを閉めて、三秒その場に留まった。
トリイに頭を撫でられて、その整った顔に見つめられて身体中の血が沸騰したようだ。トリイは本当にマリルを心配してくれているのだ。その心遣いはマリルの心に暖かな火を灯す。
そっと頭に手を伸ばし、トリイに撫でられた箇所を触る。
途端にまた、顔が熱くなる。
人に頭を撫でられるなんて、通常であれば気にくわないことの筈なのに…
「…嫌じゃないなんて…」
思わず呟いてマリルは溜息をつく。
これではまるでトリイのことが好きみたいではないか。そう考えた途端、マリルは勢いよく頭を横に振った。
先ほどのような経験をしたことがないからだ。初めてのことだったから、緊張して身体中が熱くなっただけのことだ。マリルはそう自分に言い聞かせる。
気持ちを落ち着けるように深呼吸を数回行った。
コンコンとノックの音がする。
返事をする前に扉が開き、アクリスが隙間から顔を覗かせた。
「…今、お邪魔してもいいかしら?」
小動物のようにそっと様子を伺う姿にマリルは頷いた。
アクリスは周囲を警戒するように見渡してから急いで部屋に入り、バタンと音を立てて扉を閉めた。優雅な振舞いが身に付いている彼女には珍しい動作だった。
「どうしたの?」
「…追われてるの」
「えぇ!?」
穏やかでない言葉にマリルはいつもより大きな声を出す。しっ、と口元に指を当ててアクリスはマリルを制した。
「追われてるって…誰に?そもそも王宮で追われるなんて…」
ここ以上に警護の固い場所はない筈だ。
シープネスの脅威はもう王宮まで届いているのだろうか。アクリスに危険が迫っているのならば、マリルの所よりも兄であるトリイか、父親である国王の元へ行った方が安全だ。それともそこまで行く余裕もないくらい危険が迫っているのか。アクリス同様緊張するマリルに彼女は声を潜めた。
「カイルと………あと、ケイト」
最後は消え入りそうにアクリスは答えた。
「…カイルとケイト?」
カイルとは、アクリスの弟だ。アクリスはこくりと頷く。
「カイルとは、かくれんぼの最中なの」
トリイとアクリスの歳の離れた幼い弟はまだ4つだ。マリルもこの王宮に来て間もなくカイルと面会している。濃い深緑の髪に明るい金色の瞳の少年は誰にでも親しげに笑いかける物怖じしない性格だ。三兄弟の中では一番好奇心の強い、活発な性格のように思える。トリイもアクリスもこの歳の離れた弟が可愛いらしく、特にアクリスはよく遊び相手になっていた。時々はマリルもアクリスと一緒にカイルと遊んだ。
「そうなのね。…追われているなんて物騒な言い方しなくてもいいのに」
「追われてるのは、カイルよりケイトの方に」
「そう。ケイトに追われてるってどういうことなの?…あれから会ってないの?」
アクリスはマリルを見てぎこちなく頷く。
「…避けてるわけではないのよ?ただ、会いづらくて…」
「それでケイトから逃げてるの?」
「逃げてるつもりはないの。その、会って話すことがあるわけでもないし…」
アクリスにしては歯切れが悪い。
そのままアクリスはソファーに小さく丸くなってしまう。品行方正なアクリスには珍しい行動にマリルは瞬いた。
そっとアクリスの横に座るとその小さな背中を優しく撫でる。何度か背中を擦るうちに、アクリスはしゃくり上げた。
「…だ、大丈夫?」
琥珀色の瞳から透明な涙がこぼれ落ちる。ぼろぼろと泣き出すアクリスにマリルは驚いた。
「…私はいない方がいいかしら?」
恐る恐るマリルは尋ねる。アクリスはその質問に無言で首を横に振った。
「…いて」
小さな声で返答し、マリルの手を握る。アクリスの手を握り返し、マリルは暫く同じようにアクリスの背中を擦っていた。
一頻り泣いた後、アクリスは深呼吸して立ち上がった。
「ありがとう。急に泣いたりしてごめんなさい」
まだ赤い目でにこりと微笑む。
「もういいの?落ち着いた?」
心配そうに尋ねるマリルにアクリスは頷く。
「大丈夫。気持ちは落ち着いたから」
恥ずかしそうにはにかみアクリスは扉に向かう。まだ心配そうに見つめるマリルに一度頷き、アクリスは扉を開けた。
出ていこうとしたアクリスはそこで動きを止めた。
扉の前にはかくれんぼをしていたカイルとアクリスが避け続けているケイトがいた。
「姉さま、見つけた!」
カイルは嬉しそうに叫びアクリスに抱きつく。が、アクリスはカイルではなくケイトから視線を外せない。カイルは微動だにしないアクリスを不思議そうに見つめ、反応しない彼女を見飽きたのかキョロキョロと回りを見回す。部屋の奥にマリルを見つけてカイルはアクリスから離れマリルに駆け寄ってきた。
「マリー!」
ぎゅっとマリルに抱きつきカイルは頬擦りをする。
「姉さま、動かないよ?」
「そうね…どうしましょうか…」
バタン、と音を立ててアクリスは扉を閉める。それは見たくないものに蓋を被せるのと変わらない。マリルは小さな溜息をつく。
「閉めてもどうしようもないでしょう。…カイル、アクリスはケイトとお話があるの。私と一緒にお庭でお散歩でもしましょう」
カイルは散歩の言葉に嬉しそうに頷く。小さな体を抱き抱えてマリルは扉の前から微動だにしないアクリスの隣に立った。
「アクリス、私の両手は塞がっているの。…扉を開けてくれる?」
両手でケイトを抱えたまま自分の横に立つマリルをアクリスはまじまじと見つめた。その視線を受けてマリルは安心させるように微笑んだ。その何もかもを受け入れてくれるような微笑みは、同時に有無を言わさない力がある。従わざるを得ないと、誰にも思わせる。
アクリスは深呼吸をし、扉を開けた。
「…ありがとう。…ケイト、私はこれからカイルと少しお散歩に出てくるわね。暫くしたら戻ってくるから」
先程と同じ位置にいるケイトに向かってマリルは告げる。ケイトは無言で頷き、マリルと入れ違いに部屋へと足を踏み入れた。
パタンと扉を閉める音がする。
入ってきたケイトを避けるように一歩、アクリスは後退りする。それを見咎めてケイトは不機嫌そうに入ってきた扉に凭れた。出口を塞ぐような仕草にアクリスは戸惑う。何か話さなければと思えば思う程に、緊張で口の中がからからになる。
「…あの…」
漸く出た言葉はその先が続かない。何を言おうか、結論が出ずにアクリスは口を開けては、思い留めて口を閉める。その様子を眺めてケイトは溜息をつく。
「…なんで避けるの?」
声には押し殺した怒りが感じられる。びくりとアクリスの肩が震える。
「…避けてるわけでは…」
「避けてるよね?」
ケイトの声音には有無を言わさない響きがある。何を言っても言い訳になることがアクリスにもわかっている。小さくアクリスは呟いた。
「…ごめんなさい」
俯き、視線を床に向ける。
その姿を少しの間じっくりと観察し、ケイトは再び溜息をつく。溜息にも纏う雰囲気にも怒りが滲んでいる。
いつものあの何もかもを適当に流す気配は微塵もない。徹底的に話し合うつもりなのか、ケイトは無言でアクリスに近づく。
アクリスはびくりともう一度身を震わせる。逃げ出しそうに足が動くが、アクリスは意思の力でそれを押し留める。ぐっと力を入れて挑むようにケイトを見上げた。その見慣れた顔は間近に迫っている。
ケイトの、髪よりも濃い茶色の瞳がアクリスを見つめている。その目には思案するような、責めるような、欲望を秘めているような不思議な色が浮かんでいる。正面からそれを受け止めてアクリスもケイトから視線を外すことができない。
「…逃げるなら今だよ」
小さな声でケイトは囁く。警告するような声音にアクリスは瞬く。
「どういう…」
『どういうこと?』そう言おうとした言葉は最後まで続かない。
ぐいっとケイトに引き寄せられてそのまま唇が押し当てられる。強い力で抱き寄せられて顎に触れている手によって顔はケイトから離れない。角度を変えて何度も口づけられる。
「…んっ…」
背けようとする度に引き戻されて触れる唇から吐息が漏れる。
抱き寄せられている腰に回っている腕に力が加わる度にアクリスも無意識にケイトの服を強く握る。
飢えた獣が餌に噛みつくように、留まることのないキスがアクリスの意識を奪っていく。
体も脳味噌も蕩けそうな感覚に全てを委ねそうになりながら、ケイトは無理矢理唇を離した。
間近に見るアクリスは驚きと不安が混ざったような顔でケイトを見上げている。そこに非難の色はない。恋い焦がれた少女を腕に抱いて、その瞳が責めていないことがわかり、もう一度その唇に触れることを我慢できなかった。軽くキスをしてケイトは自分の意思の弱さに自分でも呆れてしまう。職業柄、意志が弱いとは思っていなかったのだが、そうでもなかったらしい。小さく溜息が出る。
「…ごめんなさい…」
ケイトの溜息を聞いてアクリスは焦って離れようとする。それを腕に力を込めて遮ってケイトは首を傾げた。
「なんで謝ってるの?」
どちらかと言えば謝るべきは自分の方なのだが、アクリスは困ったように顔を伏せてしまう。赤みを帯びたその顔が可愛いらしい。
「…顔、上げて」
もっと見ていたいと全身が渇望している。ケイトの声に大人しく従ってアクリスは顔を上げた。
「……好きだよ」
耳元に囁けば、アクリスは顔を真っ赤に染め上げる。信じられないものを見るようにケイトを見上げて、アクリスは口を何度か開け閉めする。ぱくぱくと声にならない仕草を繰り返す。赤くなった顔と合わせると金魚のようだとケイトは頭の隅で思う。
「…嘘。信じられない…」
「じゃあもう一回キスする?…信用できるまで何回でも」
「は!?」
反論を防ぐようにケイトはもう一度アクリスの唇に触れる。また離れることができるくらいに短く、数回続けて。
「…待って。…もう一回言って」
何度目かの離れた時に、アクリスは呟く。見上げてくる琥珀色の瞳は見間違うことなく潤んでいる。それを見つめてケイトはふっと微笑んだ。
「…好きだよ」
色とりどりの花が風に揺れている。微かに吹くそよ風が花の匂いとほんの少しの冷気を運んでくる。暖かい日差しに照らされてのんびりとした空気が漂う。庭園の木陰で膝の上にカイルの頭を乗せてマリルはその柔らかな髪を撫でた。カイルは疲れてぐっすりと眠り込んでいる。身近に感じる暖かみはこれが現実だとマリルに伝えている。
トリイが言ったように庭園は素晴らしく、まるで夢のようにも見える。
そもそもここにいることが夢のようなものなのだ。手に触れる物も目に見える物も現実でありながら、それは現実感を与えない。
「…偽物だからかしら…」
思わず一人で呟いたマリルの背後から声がかかった。
「偽物なんだ?じゃあ、シープネスの姫さんじゃないってこと?」
ぎょっとしてマリルは背後を振り向く。
そこには背の高いひょろりとした男性がいた。黒い服の袖から細くて大きな手が見えている。背の高さと服の黒さによって異様な迫力がある。
ダカールの人間ではない。彼は味方ではない。
頭の奥で本能がそうマリルに告げている。
この男は何者なのか、警戒し立ち上がるマリルの腕をその男は掴んだ。
「そう警戒しなくてもいいじゃん。少しお話しようか、お姫サマ」
ギリギリと掴んでいる手に力が加わってくる。喉の奥から小さな悲鳴が漏れそうになるのを必死に押さえて、マリルは一度だけ深呼吸する。
「話してもいいわ。でもこの子は関係ないでしょう」
カイルを示しマリルはその男を睨む。彼は今気付いたようにカイルへ視線を向けるとにっと笑った。
「あぁ…その坊っちゃんはそのまま置いておけば?…大丈夫、見ての通り、他に俺の連れはいない。そこに寝かして置いておけば勝手に自分で起きるだろう?」
彼は自分の周囲を示しマリルに辺りに人がいないことを確認させる。確かに一見しただけでは周囲に他に人はいない。どこかに隠れているのかもしれないが、マリルにはそれは見えない。
「なかなか疑り深いねぇ。でもそれは悪くない。何事も疑ってかかるのが大事だ」
マリルの考えを見通しているかのように彼は言う。にやにやと人を試すような笑顔でマリルをじっと見つめた。
「でも俺は先を急ぎたいんだよ。その坊っちゃん、置いていかないなら一緒に連れていくかい?」
「…わかった」
カイルを連れていくことはできない。マリルは座っていた位置へとカイルを戻す。一瞬カイルがぴくりと動くが、特に起きることはなかった。小さな安堵の息を吐き、マリルはその男へと向き直った。
「そう心配しなくてもいいさ。少し話したいだけだよ、二人だけで」
囁くように彼は言う。マリルが逃げないように肩を抱いて歩き出す。
気持ち悪い、と心から思う。
その男に触れられた部分から何かが背中を伝うように背筋がぞわぞわと無図痒い。
身を固くするマリルを引き連れて彼は人目を避けて歩く。王宮を熟知しているのか、迷っているだけなのか判断がつきにくい動きだった。
暫く歩き、王宮の外れまで来た所で彼は足を止めた。
王宮の外壁に凭れかかり、マリルを正面からもう一度見据える。
マリルは漸く離れられたことにほっと息を吐いた。
「その動作、ムカつくなぁ。俺としては随分紳士的にここまでお連れしたと思うんだけどなぁ」
にやにやと笑いながら彼はマリルを眺める。それは商品を品定めでもするような視線だ。
「…お礼を言うつもりはないわ」
少し離れた距離を更に広げようとマリルは後退りする。本当は大声を出したいところだが、そんなことをして誰かが駆けつけてくれるまで無事でいられる保証はない。マリルにできそうなことはできるだけこの男から距離を取ることだけだった。
「せっかくここまで来たんだ。…逃げる前に俺の話を聞いてくれるよねぇ?」
彼はマリルを見据える。その鋭い眼光はこれ以上マリルが遠くに行くことを許してはいない。幾分暴力的な気配を感じ取ってマリルはそれ以上後ろに下がるのを止めた。
「…あんた、なかなか鋭いね。そう、そこが最終ラインだ。それ以上は下がるなよ。こっちも暴力は奮いたくない」
彼は興味深そうにマリルを眺めている。
「俺はお使いでね。…実を言うとあんたを殺すように言い遣ってきてる。…でも、それを知った他の人間がそれは止めるように俺に言ってきてる。俺としてはどっちの命令を聞こうか思案しているってわけさ。特にまだ決めちゃいなかったんだが、あんたを見て決めたよ」
男はにぃと笑みを深くする。その笑みは狂っているようにも正気なようにも見える。
「俺はあんたを殺さないことにする。…但し、ここは出て行ってもらうけどな。3日やるよ。3日後の真夜中日付が変わる時にここに来いよ」
「今すぐ連れて行かなくていいの?…私が誰にも言わない保証なんてないでしょう?」
マリルの言葉に彼は更に笑みを深くする。新しいおもちゃを見つけた子供のように嬉しそうに見える。
「いいねぇ。その頭の良さ、気に入ったなぁ。…でもあんたは言わないよ。俺が誰のお使いでここにいるか、想像できるだろう?…ここの王子サマはあんたにご執心のようだし、あんたが誰かに拐われたとなっちゃ、大事だな。…そうしたら、またあんたのせいで人が死ぬかもなぁ。…そんなの、望んでないだろう?」
にやにやと嬉しそうに彼はマリルに言う。
それを眺めて、小さくマリルは微笑んだ。
その笑顔は自虐と慈愛に満ちている。
「…お義母様のお使いなのね…?」
質問に彼は答えない。それでもマリルの確証を得たい質問に対して彼がにやりと笑うのを見ることで、それが正しいことなのだと理解できた。
「…そんなに私を殺したいのかしらね」
記憶の中にある継母を思い起こしてマリルは目を閉じる。きつく組み合わせた両手を握りしめて、眉間に皺を寄せる。足元の緑をほんの少し、睨むように見つめて顔を上げた。
「3日後、真夜中日付が変わる時に」
その男へ真っ直ぐに視線を向ける。彼は一つ頷くと背を預けていた壁を乗り越えて出て行った。
名前も知らない男が出ていくのを眺め、その姿が見えなくなるとマリルはその場に座り込んだ。
身体中の緊張が解けてほぅっと長い溜息を吐く。落ち着くように何度か深呼吸をしてから立ち上がった。これから道順を覚えながらもう一度カイルの所まで戻らなければならない。カイルはまだそこで眠っているだろうかと、マリルは少し不安になる。
警護の固い王宮に、あの男は潜り込んできた。いつの時代のどこであろうと、侵入者は入ってくるものなのだとマリルは過去を思い出しながら考える。
マリルの生国シープネスは現在、女王の統治下にある。
彼女はマリルの生母亡き後に迎え入れられた隣国の姫だった。
義理の母にとってはマリルも自分の夫も邪魔な存在だったのだろう。気付いた時には彼女は女王として以上の確かな権力を持ち、強かに夫と連れ子を蹴落とした。まるで魔女のように、足音もなく背後に近寄って一瞬で邪魔者を消すその手腕は見事なものだった。
王宮での権力争いは珍しくない。
マリルは彼女の行為自体を非難するつもりはない。彼女は彼女なりの理由があったのだろうし、そこで争いが起こった時に負けたのはマリル自身の、そして父親の落ち度だ。
けれど、他国に住んでいる今のマリルには王宮のことなど関係ない筈だ。
義母が今までマリルの居場所が掴めなかった筈はない。
大人しくしていなければ殺すと、威嚇してきているのだ。先程の男を手として使って。
そこまでして殺されなければならない理由があるとは思えない。ダカールはシープネスから遠く離れている。マリルが仮とは言え、トリイの婚約者だと知れたところで今更脅威になどならないだろうに。
「…どうして」
小さく呟く声は風に消える。
少しだけ強く吹いた風に髪が煽られる。
漆黒の長い髪が視界を覆い、顔を伏せたマリルに向かいから声がかかった。
「…何をしてる?」
低い、落ち着いた大人の声。もう聞き慣れた声には責める様子はなく、ただ不思議そうな響きがある。
その声を聞いた途端、マリルは安堵した。
「…何も。散歩していただけ」
声は震えなかっただろうか。安堵して息を吐くのと一緒に緊張も出ていったようなのだが、今度は涙も一緒に出そうになる。
顔が上げられないまま俯き答えるマリルに、トリイは静かに近付いて来る。
一歩一歩近付く距離を足元で確認し、その距離がもう少しになったところで、マリルはくるりと身を翻した。
「…来ないで」
脱兎の如く、一目散に走り出す。
スカートがヒラヒラと揺れて、足にまとわりつく。走る速度に併せて鼓動も速くなる。息が苦しく、瞳から涙が溢れた。
見られたくない。
その強い一心でひた走る。
それでもマリルがトリイから逃げ切るのは不可能に近い。
直ぐに追い付かれてマリルはトリイに腕を捕まれて動けなくなっていた。背中から回されたもう片方の腕はしっかりとマリルを後ろから抱き寄せている。
「放して」
いつも以上に声を荒らげるマリルにトリイは腕に力を込める。
「嫌だ。…落ち着け」
耳元で聞こえる声にマリルはぎゅっと目を閉じる。その瞬間に溜まっていた涙が落ちる。それはマリルを抱えているトリイの手に落ちてしまう。
「…マリル?」
不審そうにトリイはマリルの名前を呼ぶ。心配そうな声音にマリルはこれ以上涙が溢れないように唇を噛む。ぐっと抱え込まれている腕に力を込めるが、腕の力は弱まることはない。
くるりと、マリルはトリイによって反転させられる。
俯き、顔を見られないように咄嗟に手で顔を覆う。
「見ないで」
肩を震わせて顔を覆うと頭上からトリイの溜息が聞こえた。
なんてみっともない、そう思ってもう一度離れようとするマリルをふわりとトリイは抱き締める。マリルの顔はトリイの胸に押し当てられた。
「わかったから。これなら見えない」
優しく抱き締められてマリルは戸惑う。トリイの身体は温かい。その穏やかな温かさは、マリルの心を癒すようだった。