それは今から10年も前のこと。
今更蒸し返すなど一体この男は何を考えているのだろうか。



日の当たらないじめじめとした日陰にその家はある。
鬱蒼とした暗い森を暫く進むと、これまた陰鬱なパッとしない家が唐突に現れる。来るものを歓迎する気など更々ない、堅固で重い、濃い茶色の木の家だ。
家の庭には申し訳程度に菜園らしきものがある。しかしながら菜園に植わっているのは明るい色の花でもなく、家の主が食べるであろう野菜でもなく、一目見ただけではわからない、雑草のような植物がところ狭しと並べられている。
木々の影に家の周囲は暗く沈み、気が滅入ること、この上ない。

そんな家に、本日珍しく客人が訪ねてきた。

その小さな日陰の家の主、マリル=シープネスは突然の訪問者を不躾なほど、まじまじと眺めた。
翡翠色の綺麗な瞳、キメの整った白い肌、瞳よりも濃い緑の髪。
女のマリルよりも可愛らしいのではないかと思う、その男性はマリルににっこりと微笑んだ。その拍子に見えた歯が、また白い。
「突然の訪問をお詫び致します、マリル妃殿下」
妃殿下。およそこの暗い家には似つかわしくないその敬称にマリルは身を固くする。
その様子に彼は顔の前で手を振った。
「あなたを捕らえに来たわけではありません。ご安心下さい」
彼はまるで害がないようにニコニコと笑う。その顔が能面を被っているようでマリルには気味が悪い。
「あなたに提案があってお伺いしたのです。急に女性の家に押し掛けるなど、不躾は重々承知の上ですが、どうか私の話を聞いてもらいたいのです」
マリルより頭一つ分背の高い彼はゆっくりとマリルに頭を下げる。たったそれだけの仕草がひどく優雅に見える。
それが彼が身につけた教育の賜物だということをマリルは知っている。
なぜなら、マリルも同じ教育を受けた身だからだ。
その美しい所作を身につける過程、そのための費用、人員。それは自分一人のために多くのものが動くということだ。そんな贅沢が許されるのはごく一部の階級しかいない。
この目の前の名前も名乗っていない、失礼極まりない彼は恐らくそういう身分の人物なのだ。
「…私があなたのお話を聞くことに意味があるとは思えません。お引き取り下さい」
マリルが一礼するのと同時に長い黒髪がさらりと落ちる。
人が来るのなら髪くらい結っておけば良かった、マリルは自身の髪が目の前に来るのを見ながら思った。
この家に人はほぼ来ない。だからいつも髪は結わないし、化粧もしない。服にも気を使うことなどない。
マリルはいつもの白いブラウスに濃紺の膝下のスカート姿だ。
目の前の彼のような絹の服はもう何年も着ていなかった。
「そう仰らずに、マリル妃殿下。まずはお話を聞いてくれるだけで良いのです」
「私は妃殿下ではありません。ただの庶民です」
極力平静にマリルは言葉を紡ぐ。声が荒ぶることがないように深く呼吸する。
「そもそも名前も名乗らないような得体の知れない方とは極力関わりたくありません。それも女性の一人暮らしと知っていて、知らせもなく来るような不躾な男性なら尚更です」
「…女性の一人暮らしと知っている、と何故思うのですか?」
「知らなければ『女性の家』とは言わないでしょう」
戸口に女性が出ることは不思議なことではない。けれど出で来た女性に向かって、『女性の家』とはあまり言わない。普通は『ご主人は』とか、『ご家族は』とかそう言った言葉が出る筈なのだ。
その上、この男はマリルの素性まで知っている。開口一番、それを告げてきたその振る舞いからは、自分を脅迫しに来たとしか マリルには思えなかった。
「ご承知でしょうが、この家には従者も家族もおりません。そういった者とは縁がございませんので、お話を聞いても私が役に立つことなどありません」
彼はどこかの貴族か何かだろう。だから生国のマリルの縁を求めてわざわざこんな所まで来たのだろう。マリルが追われた国の特権階級と縁を結びたくて。
「どこのどなたか存じ上げませんが、お引き取り下さい」
視線を外すことなく、真っ直ぐに翡翠の瞳を見つめる。
マリルは彼が生国の全ての縁を切られた自分を侮辱するように眺めるだろうと考えていた。だからこそ目を反らさず、屈辱を跳ね返すつもりで彼を見返した。

けれども彼は一瞬、蛙が予想もしていない攻撃を受けたような、驚いた顔をし、すぐに体を折り曲げて笑い出したのだ。

「…ふっ、ふふふ、あはははは!面白い!」
お腹を抱えて笑い出すと目に浮かんだ涙を白く長い指で拭った。
更に一頻り笑った後、彼は息を整えた。
「すみません、つい…」
「笑われるような事を言ったとは思えませんが…」
「そうですね、あなたの言ったことは正しい。そこに笑う要素はありません。…ただ、あまりにも私の用件と違いすぎて、面白くて、つい笑ってしまいました」
「…用件と違う…?」
今度はマリルが困惑した表情を見せる。
マリルに向かって彼は頷いた。
「…まずは名乗ります。私はこの国、タガールの第一王子、トリイ=タガールと申します。あなたには、私の婚約者になってもらいたいとお願いに来たのです」
その翡翠の瞳の男性はマリルに向かってもう一度、ゆっくりと一礼した。
その仕草はどこまでも優雅な、まるで白い鳥のように見えた。
この国の王子だと名乗るこの男は何を言っているのだろう。
戸口に向かい合ったまま、マリルは困惑しきった様子で忙しなく視線を上下させた。トリイを頭から爪先まで眺めて、今度は逆から、更にもう一度眺める。
上等の絹の服は白く、玄関から入る少ない光にピカピカと輝いている。胸元の金の紋章は確かにタガール王家のものだ。
王家には二人の王子と一人の姫がいる。第一王子は今年22歳になるという。腹違いの第二王子はまだ幼く、3つか4つだと聞く。姫は16歳の、非常に愛らしい容姿の娘だそうだ。
こんな日陰の孤独な一人暮らしのマリルでもそれくらいは知っている。
というか、それくらいしか知らない。
新聞で読んだその程度の知識だ。
当然、面識もない。
マリルが生国でまだ王宮にいた時にも特に関わりはなかった。

それなのに、婚約者とは一体何の事を言っているのだ。

マリルは何度か口を開け閉めし、漸く言った。
「…どう、いう、こと?」
つっかえつっかえ、なんとか口に出す。
驚きすぎて敬語も忘れていた。
そんなマリルをトリイはますます面白そうに見つめてその整った顔で娘達が蕩けるような微笑を浮かべる。
「唐突なお話で驚いたでしょう。訳もきちんとお話します。少しお邪魔して宜しいですか?」
いきなり押し掛けてきて、意味のわからない話を突きつけるくせに、あくまでも姿勢は丁寧だ。そして玄関から奥へはマリルの許可を得てから入ろうとしている。それはこれから無理難題を押し付けるから今は機嫌を損ねないように丁寧に対応していることをマリルにそれとなく伝えている。
玄関口で立ち話をする話ではないことは明らかだ。
断れない状況を作り出して、それを上手く相手の意思によるものにしている。
トリイの交渉はなかなかの手際だといえるだろう。
マリルは渋々ながら、トリイを自宅に招き入れるしかなかった。



マリルの家は一部屋しかない。
その一部屋に小さなダイニングテーブルが一つと、チェストが二つ、それに古いベットがある。
家の見た目同様、部屋の中もあまり日差しが入らないからか、仄かに暗い。ただ毎日窓を開けるためか、換気は行き届いていて、空気は悪くない筈だ。
ダイニングテーブルの向かいにある小さなキッチンでマリルはお茶を作った。庭で植えているハーブを使ったお茶だ。独特の味がするが、他に良いお茶がある訳でもないので、そのままダイニングテーブルへ持っていく。
トリイはその間大人しく座って待っていた。
「…どうぞ。お口に合うかはわかりませんが」
目の前に湯気の立つお茶を出す。
トリイはきちんと礼を言い、お茶を一口飲んだ。その眉間に皺が寄るのをマリルは見逃さなかった。
「変わった味でしょう?特に美味しくはないけれど、慣れれば問題なく飲めます」
「美味しくないことはご承知なんですね?」
「他に美味しいお茶がある訳ではありませんから。事前にご連絡頂ければご用意できたかもしれませんけれど」
美味しくないお茶を飲むのはマリルのせいではなく、事前の連絡もないトリイの自業自得だと言外に含ませてマリルはお茶を啜った。
「それで、先程のお話ですが」
マリルが先を促すとトリイは一つ頷いて話始めた。



来月はトリイの22回目の誕生日だ。
第一王子のトリイに正妻はまだなく、この来月の誕生パーティーが、事実上のお見合いパーティーになるのは自明のことだった。その最有力候補が冷戦状態の隣国の皇族マルチ家の長女、リリハという少女である。彼女はマリルと同じ18歳だというから、年齢的にもおかしくないし、家柄的にも申し分無い。おまけにこの婚姻が決まれば冷戦も一応解消できる。ただ、トリイにとってリリ ハは自分の花嫁、そして王妃としての器には値しないと考える娘なのだ。
「この国では王妃は王の次に権力を持つ。リリハは悪い子ではないけれど、そういった権力を振り回すのが好きなんです。悪く言えば我が儘ですね。しかもいつ隣国のスパイになるかわからない。だから王妃にはしたくないのです」
それなら別の娘を迎えればいいのだが、そういう訳にもいかないらしい。
ダカールには今、王家に次ぐ権力のある貴族は3つある。そしてどの家にも年頃の娘がいる。北部のルリトー家、中部のダドリー家、南部のルーニ家は互いに不仲で正に三つ巴状態である。その内の誰を選んでも国内の勢力争いに偏りが出るのは明白だ。
「国内の貴族はほぼその御三家の派閥にあるんです。派閥に入っていない貴族の娘や、平民と縁を結んでも結局どこかの派閥に最終的に組み込まれるから意味がない」
つまり、隣国はスパイを招き入れるから避けたい、そして国内の人間も派閥に組み込まれるから嫌だ、ということなのだ。
「そんなことを考えていたら誰とも結婚できないのでは?」
「そうですね。私自身がそれらの起こりうる問題に対処できればそれで解決します。それは私も理解しています。ただ、それにはもう少し時間がほしい」
トリイは深い溜息をつく。
彼はそれを父親である王に何度も告げている。だからこそ22になる今まで妻がいなかったのだ。縁談の話が持ち上がり始めて3年間、それで通したが父親は痺れを切らし始めている。
今度の誕生パーティーでは無理にでもリリハと婚約させようとするだろう。
「父としてはリリハととりあえずでも婚約させてまずは冷戦を解消したい筈です。その上で今後時間をかけて私に力をつけさせようとする腹積もりでしょう。リリハも父の手前上、あまりおおっぴらには動けない筈ですし、そうそうスパイにもならないでしょうから」
マリルは全く持ってダカールの王に賛成だ。それで全て上手くいきそうではないか。何故そこで自分が登場しなくてはならないのだ、そう考えていたのが顔にでていたのか、トリイは苦笑した。
「確かにそれで良いのかもしれません。でもそれは確実ではない。私はできるなら不確定なことは避けたいのです。その為に時間がほしい。…そして、あなたと形式上での婚約があれば、それができると思ったのです」
「…つまり私を利用してできるだけ時間を稼ぎたい、それがいつまでかかるかわからないけれど、私にそれを承諾してほしい、そういうことですか?」
「そういうことです。あなたはとても優秀な様で助かります」
にこりとトリイは笑う。
マリルは厚顔無恥とはこういうことを言うのだと思わず感心してしまう。
自分の自由の為に人を犠牲にする、そういう行為を理解して、そういう風に行動できる。
トリイはリリハを権力を振り回すから王妃にさせたくないと言う。けれど、この提案はトリイの言う権力を振り回すことと何ら変わりない。結局トリイもリリハと同じではないか。それなら時間を稼ぐ必要がどこにあるのだ、思う存分トリイも権力を振り回してずっと今まで通り我が儘を押し通せばいいのだ。
「…お断り致します。私など無くてもトリイ王子様であれば十分時間が稼げるでしょう

「私の言い分を通すにも3年以上同じ理由では通らないのです」
「では、その非常に優秀な頭脳で他の理由をでっち上げれば宜しいのでは?」
「…例えば?」
からかうような、興味本位のような表情でトリイはマリルを見据える。
翡翠の瞳に見つめられてマリルは言葉に詰まった。
「例えば…?…そうですね…仮病を使うとか?」
「仮病ではパーティーは休めても婚約はなくなりません。長い病と仮定すればそれこそ縁談はなくなりますが、私は王位を継げなくなる。それは本位ではありません」
「…暫く身を隠しては?」
「それもあまり意味がありません。私がつけたいのは国内外での権力的な力です」
「いっそのこと、全員と結婚しては?一人が正妻、残り三人は側室として」
「ダカール王室は側室をおいておりません。法律で禁じられていますし、例外として三人を側室にしても新たな火種を生むだけでしょう」
「…では、あなたが王位を諦める他ないのでは?」
「それは先程も申しました。私にその考えはありません。…他に具体例はありますか?」
「……ありませんが、提案は承服しかねます」
マリルは一方的に論破された気分で不満を顕にする。トリイはそんなマリルを眺めてつまらなそうにまた溜息をついた。
「こんなことは言いたくありませんが、あなたはこの提案を呑まなければならない筈です。あなたの生国シープネスはまだあなたを探しているのでしょう?」
トリイの発言にマリルは動きを止める。睨むようにトリイを一瞬見て、すぐに手元に視線を戻す。カップの中のお茶はもう湯気は立っておらず、啜るとほんのりと温かい。一口飲んでゆっくりとそれを元の位置に戻した。
「…脅迫ですか?」
微かな苛立ちを込めた声音はいつもより低い。トリイは今度こそ本当に面白そうに目を細めた。
「そうとって頂いて構いません。こちらもそのつもりで来ました」
「…成る程。確かに私はこの提案を断ることはできないようです。非常に不本意で不愉快でもありますが、承諾します」
「それは良かった!あなたが優秀で本当に助かります」
トリイは本当に満足そうに独特の味がするお茶を一気に飲んだ。それがさも美味しいものであるかのように。

キラキラと輝くシャンデリアがテーブルの上のグラスを更に輝かせる。沢山の豪華な料理の回りには色鮮やかなドレスを着た女達がいる。そしてその近くには彼女達をエスコートする男達が料理やグラスを使用人から受けとるのに忙しい。
真っ赤な絨毯には色鮮やかなドレスの集団がいくつもできていた。


マリルは今日、トリイの誕生パーティーに出席していた。
きらびやかな会場に着いた途端、帰りたくなってくる。
一歩足を踏み入れたマリルは思わず足を引き返してしまいそうになった。マリルはそれを懸命に押し止めてなんとか壁際までやって来ることができた。



マリルが提案を受けてからトリイは3日と開けずマリルの家に通って来た。特に用事はないのだが、
「形式上とはいえ婚約者の振りをしてもらうのですから。少しでも親密になっておきたくて」
とマリルを脅迫したその口であの日の翌日に通って来て言った。
最初のうちは敬語を使っていたマリルも今ではトリイに敬語は使っていない。それはトリイも同様で、最初のあの丁寧なですます口調は今では嘘のように消えていた。



「…嫌だわ…」
マリルは誰にも聞こえないように小さな声で呟く。しかしその声を聞き取った者がいるらしい。
「…私もです…」
声はマリルの前から聞こえた。
前にはドレスの集団があり、どうやらその中の一人だったらしい。
すすす、とマリルに近付くと少女はにこやかに微笑んだ。
「…アクリスと申します。以後お見知りおき下さいませ」
琥珀色の瞳と淡い緑の髪を持っている見目麗しい少女である。彼女はドレスの端をつまんで優雅に一礼をした。
それから、にこやかに微笑む。そうすると、まるで花が咲いたように辺りが明るくなる気がする笑顔だった。
マリルも慌てて同様に自己紹介をした。相手と同じ様に名前だけ名乗った。
「マリル様は何か憂鬱なことがございますの?」
小首を傾げる仕草がとてもよく似合う。可愛げのないマリルにはできない仕草だ。
「…いえ…その…こういった場に馴れておりませんので。きらびやか過ぎて私には向いていないようです」
本当はトリイの婚約者だと発表されることを考えると憂鬱で堪らないが、そんなことを言って後で大事になるのは面倒だった。
アクリスは目を瞬かせた。それから、にこやかに微笑む。
「まぁ、そうですのね。私もこういった場にはあまり来たことがありませんの。緊張してしまいますわね」
ふふふ、とアクリスは何故か嬉しそうに笑っている。仲間ができたようで嬉しいのだろうかと、マリルは曖昧に笑った。
それから少しアクリスと話をし、彼女が知り合いであろう少女達に呼ばれるとマリルは壁を伝ってバルコニーへ出た。
ここへ着いた時は夕方だったが、辺りはすっかり暗くなっている。夜風がひんやりとして少し寒いくらいだ。剥き出しの肩に手を触れると少し暖かくなった。
ダカールで開かれている今日のパーティーには国内外の賓客が訪れている。若い男女が多いのはこういった場所が出会いになるからだ。しかし今日のパーティーのお目当ては勿論、トリイだろう。何とか彼の目に入り、正妻、若しくは事実上の側室を目指しているのだ。そのギラついた女達を相手にしないといけないと考えるとマリルの憂鬱は退くことなく、長い雨のように頭を打ち続ける。
形式上だから、時期居なくなります、とは口が避けても言えない上に、何故こんなことに巻き込まれなければならないのか、憤りを無くすこともできない。
ふぅ、とマリルは重い溜息をついた。

「…憂鬱そうだな」

ここ暫くよく耳にする声にマリルは気だるそうに振り向いた。案の定、そこにはこの状況の原因、トリイがグラスを二つ抱えて立っている。
「主役がいるべきなのはこんなバルコニーではなく、部屋の中央では?」
「こんな、とは言ってくれる。庭園が一望できる素晴らしいバルコニーだろう?」
「…真っ暗ですが」
庭園は昼間であれば色とりどりの花が咲く確かに美しい庭だろう。それが一望できるこのバルコニーは確かに素晴らしい。昼間であれば。
「王宮は財政難なの?入口のように庭にも装飾をしたらいいのに」
嫌味のつもりで言ったのだが、大して気分は害さなかったようだ。トリイはクッと、喉の奥で笑う。
「俺の婚約者はなかなか辛辣だな」
「辛辣な婚約者が嫌なら解消して頂いて結構よ」
「…まだ諦めてないのか。今までにも散々議論しただろう。他にもっと良い案がない限りそれは出来ないと何度も告げている」
今日までマリルの家で二人の話にはいつも最後にはこの話が出た。その度にトリイは今と同じ言葉を繰り返し、対するマリルも他の案が浮かばずここまで来てしまったのだ。
「…わかってるわ。今日は上手くやる」
トリイの完璧な婚約者を演じきる必要がある。二人がとても愛し合っていて他者が入る隙などないこと、マリルの血筋を明らかにしてリリハでさえ抵抗できない完璧な縁談であることを人々と王の前で示すのだ。

なんて面倒臭い…

心の中でぼやいてマリルはトリイが差し出したグラスを受け取った。
パーティーは中盤に差し掛かり、いよいよ音楽家達がメインのワルツの曲を弾き始める準備に入った。
普段であれば、美しいその旋律はマリルの心を和ませるだろうに、このきらびやかな会場では地獄の入口への挿入歌である。

このワルツから3曲をマリルはトリイと踊るのだ。

舞踏会のワルツは恋人同士、若しくは政治的な婚約者、それから意中の相手への遠回しなアプローチなのである。
男性が女性に手を差し伸べて、女性がその手を取れば成立、何かと理由をつけて断られれば不成立だ。分かりやすいが、男性にしてみれば意中の相手へのアプローチとしてはなかなかハードルが高いだろうと、マリルは考えている。事実、あまりこの場でいきなり手を差し出す男性はいない。ほぼ、エスコートした相手か、事前に打ち合わせた相手へ手が差し伸べられる。
そして、マリルはトリイと事前にワルツについて打ち合わせている。
ワルツから3曲連続で踊り続ける。
それは現在、過去、未来を表すそうで3曲踊り続けるのはその男女は相思相愛、将来の約束をしたことになるのだとトリイが事前に説明してくれた。
トリイは今日エスコートした相手はいないし、この最初のワルツでの相手はかなり注目されているだろう。
それが、こんな今まで人前に出たこともないような地味な女なら、尚更だ。
会場は阿鼻叫喚に包まれる筈だ。



出入口の近くに突っ立っているマリルへ白い手袋に包まれた長い指が差し出される。
会場が一瞬水を打ったように静まり返り、次いで予想の通りに阿鼻叫喚にも似た悲鳴が爆音のように響き渡る。
その白い手の差出人は美しい翡翠の瞳でマリルを見つめる。
整った顔立ちでまるで夢に出てくる王子様そのものだ。
けれど、マリルにはワルツは地獄の挿入歌、目の前にいるこの男はその地獄の大魔王としか見えない。

打ち合わせたにも関わらず、暫く手を取らないマリルにトリイはにっこりと微笑む。

"早く取れ"、声に出さずとも目が雄弁に語る。

あぁ、と小さな溜息を聞こえないように注意しながら漏らし、マリルはその手を取った。








ワルツから3曲、無事に踊り終えたマリルは一目散に出口を通り、家に帰りたかった。
けれども、そこからマリルはトリイに連れられてダカールの王の元へと向かった。ダカールの王は事前の連絡があったのか大した動揺も見せずにマリルへいくつか質問をした。氏名、住所、年齢、それから出身。
それはこの公式な場でマリルの素性を暴露することだ。
シープネス王国のことは誰もが知っているし、その前国王の一人娘が10年以上行方知れずというのも有名な話だ。
だからこそ、この場で素性を明かしたマリルへの視線は様々なものが入り交じっている。

「…父上、今宵はこの辺りで宜しいでしょうか。お集まりの皆々様には引き続き宴をお楽しみ頂きたく存じますが、マリルにおいては些か疲れている様です。どうか私達の退出をお許し頂けますか?」
トリイのこれも打ち合わせ済みなのか、ダカール国王は主役の途中退出にも特に意見も言わず、頷くのみだった。
形だけの挨拶を終えてマリルはトリイに連れられて会場を出口へと向かった。
出口へと向かうマリルとトリイの前に一人の少女が現れた。
彼女は優雅に一礼するとここは通らせない、とばかりに二人の前に立ちはだかった。
「お初にお目にかかりますわね、マリル皇女殿下。私はリリハ=ブライトウェルと申しますの。…少しお時間を頂けます?二人きりでお話がしたいのですけれど?」
周りの視線は更に熱くなる。
トリイの最有力婚約者候補と見られていた隣国の姫と突如現れた曰く付きの謎の姫の対面。
それもガチンコ勝負である。
これからどうなるのか、会場中の注目の的だ。周囲はあからさまにこちらを見る者もいれば、興味のない振りをして顔を背けながらもチラチラとこちらに視線を向ける者もいる。
その突き刺さる視線にマリルは辟易している。
だから堂々と勝負を挑むリリハにマリルはほんの少しだけ好意を持った。

「…大変申し訳ありませんが、マリルは馴れない舞踏会で疲れているのです。どうかこのまま静かに退出させて頂きたいのですが」
するりとマリルとリリハの間に分け行って、トリイはリリハに笑いかけた。
「トリイ殿下、私はマリル皇女殿下とお話をしたいと申しました。女性同士、二人きりで」
「ですから、マリルは疲れているのでこれから退出したいと申しました」
「私はマリル皇女殿下にお聞きしておりますの。トリイ様ではなく」
じろりとリリハはマリルへ視線を向ける。マリルはトリイに隠されてリリハの目線を正面から受けることはない。けれどそれが、相手の心情を煽っていることは明らかだった。
仕方がないと溜息をつくと、マリルはトリイの陰から出でリリハと対峙した。
リリハは燃えるような深紅の巻き毛と同じ色の瞳を持っている。会場で出会ったアクリスとは全く違う雰囲気の美人である。強く、気高く、そして我が儘。それがリリハが与える印象だった。
マリルは一礼して形式上の自己紹介をする。それからリリハにすくまない様に姿勢を正して彼女を正面から見つめた。
「…場所を移しましょうか?」
リリハは満足げににっこりと微笑む。
マリルは彼女に首を振った。
「結構です。私はお話することはございませんが、お聞きになりたいことがあれば、どうぞ仰って下さい」
「では、遠慮なく。マリル皇女殿下は10年間も行方知れずと聞きます。その皇女殿下が急にこの場に現れたとなれば、私の今からする質問は至極当然のものです。…お怒りにならないで下さいましね。

あなたは本当にシープネス王国の姫君、マリル=シープネス皇女殿下で在らせられますか?その証拠はどこにございますの?」

ざわざわと会場が波打つ。
横のトリイはイラつきを隠すこともなくリリハとマリルを睨み付けた。
彼としてはマリルは謎の姫のまま退出させたかったのだ。余計なことを話して問題を起こすことはしたくなかった。彼はただ、マリルという謎の姫の婚約者を立てて当分の猶予を得るつもりだった。
事実、それができると踏んでいた。
マリルの素性を話せばリリハ、若しくは別の誰かがマリルが姫である証拠を示せと要求するのは解りきっていた。本当は今日までにそれを作り上げる予定だったが、物的証拠は間に合わなかった。だが、今日を乗り切ればまた暫く猶予ができる。舞踏会はそうそうに切り上げてマリルからボロが出ないようにしたかったのだ。
出口まであと数メートル、リリハが話しかけてきた時は予想していたとは言え、酷く腹立たしかった。
その上、わざわざ間に入ってやり過ごそうとしたにも関わらず、マリルが応戦したのだ。
事前にこうなる可能性も説明し、その時は大人しく挨拶のみに留める。その他は口を開かないこと、と散々言い聞かせたにも関わらず。
隣でマリルが小さな吐息を漏らした。
「…私がシープネスの皇女である証拠はありません。シープネス王国の誰かを連れてきて対面するしか確証を得ることはできないでしょう」
じろりとトリイはマリルを睨んだ。
マリルはその視線を受け流し淡々とした表情のまま出口を見つめた。
トリイはそれを見て、それからおもむろに近くのグラスに手を伸ばし、その持ち手をゆっくりと傾けた。
バシャッ。
グラスの液体は重力に引っ張られて当然のように床に向かって落下する。それはトリイとマリルの服の一部を染め上げた。
「…これは失礼致しました。洋服が汚れてしまいましたね。風邪を引いては困りますから今宵はこれにて失礼させて頂きます」
言うや否や、トリイはマリルを引いて出口へと向かう。大人しくそれに従いながら、トリイの退出の大義名分にマリルは大袈裟すぎると溜息をついた。
服の裾が汚れたくらいで人は風邪など引かないものだ。
会場を出たマリルはどこをどう通ったのか分からぬままにトリイに連れられてどこかの部屋に入っていった。
部屋は広く華美ではないが質の良い調度品がいくつかと、飴色に艷めく机と赤い背もたれの椅子が置かれている。クリーム色の絨毯に一歩足を踏み入れてドアを閉めるとトリイはマリルにソファーに座るように示した。
「…私は家に帰りたいのだけど」
「家に帰る?できると思っているのか?…シープネスの姫であることが世間に知らされた今でも?」
「それはそっちのせいでしょう?」
「…何も話すなと約束しただろう」
怒りを吐き出すような溜息を出した後、トリイは飴色の机に軽く腰掛ける。それは王子ともあろう者がするには少し行儀の悪い振る舞いと言えた。

「…私は家に帰りたいの」

小さいがきっぱりとマリルは言い切る。それからトリイを見つめた。
「私の素性が知れたことであの家には帰れない。そんなことわかってる。あなたがこの話を持ち掛けてそれを承諾した時から予想できた。…あなたは私を利用した。だから私もあなたを利用した、それで平等でしょう」
静かに淡々とマリルは言う。
「…初めからそのつもりで?」
「シープネスの姫だという動かぬ証拠が手に入ったのなら大人しくしているつもりだったわ。…でも、そんなもの手に入れられなかったでしょう?」
解りきったことだと言わんばかりの言葉にトリイは眉を上げた。
「確かに苦戦している。…が、その話はしていない。どうしてわかる?」
「手に入っていれば、さっさとそれを提示する筈でしょう。その方が問題は少ないもの。…それから、もう一つ。シープネスの王宮が取引に応じる筈ないのよ」
マリルはまるで祈るように両手を組み合わせ、顔の前に持ってきた。ぎゅっと手を握り、眉間にシワを寄せ、苦しそうに一度目を閉じる。
その姿は自身を捨てた生国を案じているようにも恨んでいるようにも見える。
「マリル=シープネスは生きていては都合が悪い人物なの。だから私がシープネスの皇女だった証拠は出てこないし、シープネスの人間もそんな証言はしない。私は自称シープネスの姫のまま、あなたの婚約者をいつまで続けられるかしら。…それでもいくらかの時間稼ぎは出来る。その間にあなたは権力者として力をつけて、それから私はまた元の生活に戻る。…あなたの最初の目的と何も変わらない」
「…そして公の場でシープネスの姫ではないと示されれば晴れてただの娘として生活できる。今までのようにシープネスの追っ手から逃げまくる必要もなく」
トリイの言葉にマリルはふっと微笑む。静かで寂しげな微笑みに見えた。
「そう。そして私は家に帰って穏やかに暮らす。それだけでいい。家に帰って静かな生活をする、それだけが私の望みよ」
マリルは静かに、けれど強い意思を滲ませた声で告げた。トリイを見据えたまま、目を反らすことなく。





部屋の中の沈黙を破ったのは外からドアをノックする音だった。
マリルは自身の望みを告げた後、一言も発することなく、微動だにしなかった。漆黒の瞳は手元を見ているが、それは遠い過去を振り返っているようにトリイには見えた。トリイはそんなマリルを少しの間眺めて、溜息をつくと、きちんと机に座り直し目を閉じた。愛用の椅子の背もたれに体を預け、これからについて思案する。
考える必要のある事柄は途切れることがなかった。

コンコン

2回ノックがされた後、返事も待たずにドアは開けられた。
そちらに視線を向けたマリルは現れた人物に目を瞬かせた。
そこにいたのは先ほど会場で出会ったアクリスである。

「お兄様、どうして勝手に…」

非難めいた視線と口調で足を踏み入れると同時にトリイを見たアクリスはそこにマリルがいることに気付き、あんぐりと口を開けた。
「…まぁ!マリル様、いらっしゃったの?」
驚きを隠せない顔でマリルを見つめるとアクリスはさっきよりも怒った顔をしてトリイを睨み付けた。
「お兄様!どうしてマリル様を客室に案内しないの!いくら婚約者と言ったって、まだ結婚もしてない男女がこんな夜遅くに一緒にいるべきではないでしょう!しかも、こんな暗い部屋で!」
照明は充分過ぎる程ついているし、この部屋は決して暗くはない。そうトリイが返すとアクリスは更にいい募る。
「そういう暗いではありません。私が言っているのは、こんな地味で野暮ったい、華やかさの欠片もない、お兄様の自室ではなくて、もっと美しい、マリル様に似合いそうな部屋に通すようにと言っているのです!」
「少し話をしただけだ。直ぐにお前のいうその華美な部屋へ案内する」
「華美ならいいってものではないのですよ!…お兄様の見立てたお部屋なんかでは、心配ですわ。私がご案内致します!」
会場で出会ったあの大人しそうな雰囲気はどこに行ったのか、アクリスはトリイに向かって捲し立てるとくるりと視線をマリルに向けた。その瞬間、彼女はにっこりと笑う。それは噂通りの見目麗しの笑顔で。
「…マリル様、お兄様に何もされておりませんわよね?何か失礼な事や発言でお気を悪くされておりませんか?」
心底心配そうにアクリスはマリルを覗き込む。恥ずかしくて花も萎れてしまうだろうその顔は確かにトリイと似通ったところがある。
どうして、直ぐに気づかなかったのだろうと、マリルは赤面した。
ダカールに姫がいたのは知っていたし、年の頃もよく見れば顔だって似ているところがあるというのに。
自分の至らなさにマリルがますます恥じ入って赤面すると、それを勘違いしたのか、アクリスはまたもや兄であるトリイを睨みながら振り返った。
「お兄様!何かなさったの!?」
悲鳴にも似た声でアクリスは叫ぶ。
「…そんな訳ないだろう。だが、もし仮にそんな事になったとしても、何も問題ない。なにせ婚約者だからな」
これにはマリルの方が焦った。
なぜ火に油を注ぐような事を言うのだろうか。否定だけで終わればいいのに。
案の定、アクリスは更にヒートアップしてトリイを責め立てている。可愛らしいその姿で今にもトリイに掴みかからんばかりだ。
「…あ、あの、アクリス皇女殿下。何もされておりません。ただ、話をしただけですの。こんな夜更けにみっともない事をしてしまい、申し訳ありません」
美人は怒ると怖い、とは確かにその通りのようだ。恐る恐る言葉を紡ぐマリルにアクリスは『あっ』と声をあげると、一気に潮らしくなった。まるでパンパンに膨らんだ風船が針で刺されて萎むようにしゅんと肩を下げる。
「…こちらこそ、みっともない場面をお見せしてしまい申し訳ございません。…その、私がお部屋にご案内致しますわね」
幾分、バツが悪そうにアクリスは言う。それに頷き、マリルはトリイの自室だというその部屋を後にした。自室には疲れた顔をしたトリイのみが残った。
アクリスに案内された部屋は先ほどの部屋とは全く違う、とても雰囲気の良い部屋だった。広さは少しだけ小さいようだが、深く美しい深紅のソファーが目を引く、華美過ぎず地味過ぎない部屋だ。
「…素敵ですね」
部屋を見ましてマリルはアクリスへと視線を向けた。
「気に入って頂けましたかしら?もし気になることがあれば遠慮せず仰って下さいね。お部屋も狭いようでしたら他の部屋へご案内致しますわ」
決して狭くない部屋なのだが、王宮の中では小さい部類に入るのだろう。マリルは顔の前で手を振った。
「このお部屋で充分です。…というか、もっと狭い部屋でも、何なら使用人の方と同じ部屋でいいのですが」
「それは難しいと思いますわ。マリル様はお兄様の婚約者ですし、シープネスの皇女殿下で在らせられますもの。それ相応の待遇をさせて頂かなければ」
マリルがシープネスの皇女であることをどれ程信じているのか、その笑顔からは推察は出来なかった。曖昧に笑うとマリルはアクリスに頭を下げた。
「ご丁寧に恐縮でございます。感謝申し上げます、アクリス皇女殿下」
「まぁ、皇女殿下などと他人行儀な呼び方なさらないで下さいな。私は『様』呼びしておりますのに……あっ、もしかして、私、馴れ馴れし過ぎましたか?お気を悪くされていらっしゃいますか?」
アクリスは焦り、マリルに心配そうな視線を向ける。何か恐ろしいことでも見つけてしまった子供のように不安げな瞳がマリルを見つめた。
その姿さえ、絵になる。まるで夢のような気持ちがする。むしろ、これは夢でマリルは本当はあの森の家の自分のベッドで寝ているのではないだろうか。とりとめもなくそんな事を考えている内にマリルは知らず知らずに無言でアクリスを眺め続けていた。
「…や、やっぱり怒っていらっしゃいますか…?」
今にも泣き出しそうな顔と声音が、マリルに現実を突きつけた。はっとして意識を戻したマリルは焦ってアクリスに首を振った。
「いえ、そんなことありません。どうぞお好きな呼び方をして下さい。なんなら『様』もなくても構いません」
マリルとしては自身が皇女と認められることはない筈だから、一般庶民と同じ立場のつもりだ。使用人と同じなのだから、『様』などいらないと言ったつもりだったのだが、アクリスは少々違う意味にとったようだった。
「まぁ!嬉しい!まるで本当の姉妹になれた気分ですわ。…私、ずっと親しくできるお義姉さまが欲しかったんですの。これからどうぞよろしくお願いしますね、マリル。あ、もちろん、私のことも『様』も『皇女殿下』もつけずに呼んで下さいね」
にっこりとアクリスは微笑む。この花も恥じらうような満面の笑みを目にして断れる人間はどのくらい存在するのだろう。少なくともマリルはその立場の人間ではない。後ろめたい気分を感じながらマリルはぎこちなく頷いた。
「こちらこそ宜しくお願いします……アクリス」





トリイの誕生パーティーは滞りなく終了した、とマリルは翌日部屋に現れたアクリスから聞いた。主役が途中退出し、いきなり曰く付きの姫が婚約者に現れたそのパーティーのどの辺りが滞りなく終了したのか、マリルにはわからない。
それでもその日から一週間経った今でもシープネスの使者は現れなかったし、トリイが、マリルがシープネスの皇女である証拠を掴むこともなかった。
日々は穏やかに何事もなく過ぎているように思える。
この二週間は至れり尽くせりの生活でマリルとしては手持ちぶさただが、アクリスがしばしば訪ねてきて話相手になってくれている。そのおかげでマリルも塞ぎ込むことなく過ごせていた。
誰もいないあの家がどうなっているのかは敢えて考えないようにしていた。

「…マリル、今少し宜しいかしら?」

ドアからひょっこりと顔を出し、アクリスが現れた。普段は午後に訪れるのだが、今はまだ午前中だ。珍しいと感じつつ、マリルは頷いた。
「もちろん。どうかしたの?」
日に日に打ち解けたアクリスとは既に敬語で話してはいない。一度敬語を外してから、これではまずいと言い直したマリルにアクリスは例の潤んだ瞳でそのまま敬語を外してほしいと訴えた。アクリス曰く、『いずれ姉妹になるのですから、敬語なんていりませんわ。…私も、敬語を使わなくても宜しいかしら?』とのことだった。敬語を使わなくなると、一層親しげにアクリスはマリルに笑いかけるようになった。

それ自体は不快でもなく、むしろ喜ばしいことだが、いずれここを去るつもりのマリルは複雑な気持ちが心に残っていた。

「もしよければ、これから街へお出かけしない?…お忍びで」
アクリスはマリルに近づくと内緒話のように唇を耳に寄せた。
「街に?…お忍びって…どういうこと?」
「もちろん、本当のお忍びではないの。護衛の騎士だっているし、二人きりではないわ。ただ、大袈裟にぞろぞろ遠くまで行くのではなくて、ちょっと城下町を覗くだけ」
「アクリス、あなた手慣れているようね?」
悪いことをしている気はまるでない様子のアクリスをマリルは多少呆れを含めて見つめた。アクリスはイタズラが見つかった子供のように、はにかむように笑う。
「…多少の経験はあるの。でも危険な目にはあったことがないし、気晴らしにはうってつけだと思うわ」
その気晴らしがアクリスにとってのものでなく、自分を気遣ってのことだと思い当たりマリルは苦笑した。塞ぎ混んでいるつもりはなかったのだが、周りからはその様に見えているのだろう。
「…わかった。では気晴らしに、私に城下町を案内してくれるのね?」
「もちろんよ。きっと楽しいわ。そうと決まったら着替えて行きましょう」
心底嬉しそうにアクリスはマリルの手を引いてドアを出で行った。
宮殿の使用人の別館でマリルとアクリスは着ていた服を脱ぎ、アクリスにとっては粗末な、けれどマリルにとっては当たり前の庶民的な洋服に着替えた。二人とも白いブラウスにマリルは濃い赤のスカート、マリルは淡い水色のスカートを穿いている。
アクリスは手慣れたものでその庶民の服に違和感は感じなかった。ただ、その愛らしい顔に違いはなく、どの服を着ても美少女であることに変化はなかった。
二人が連れだって城門を出たところで一人の青年が近寄って来た。
「クリス、そちらが例の?」
青年はアクリスに話しかけ、マリルへと視線を向けた。
アクリスはにっこりと微笑む。
「そうよ。…マリル、今から私のことはクリスと呼んでね。アクリスだとバレてしまうから。それから、私もマリルではなくマリーと呼ぶわね。…こちらは騎士のケイト=ハジル」
「…ケイト=ハジルって…それはもしかして…」
この国の騎士のトップではないのか。国王選任の護衛騎士団の団長がその名前である筈だ。確かまだ若く、国王の息子であるトリイとは同年だといつかの新聞で読んだ記憶がある。
「多分、マリーが想像している人物で間違いないと思うわ」
あっさりとアクリスは肯定する。
なぜ騎士団の団長がここにいるのか、国王を護衛する仕事はどうしたのか、なぜお忍びの町歩きに彼がついてくるのか。疑問がマリルの頭の中を飛び回る。
その疑問を察したのかケイトがマリルににこりと微笑んだ。
淡い茶色の髪と黒縁の眼鏡、ラフなワイシャツ姿の彼は、一見して騎士には見えない。体の線も細く見え、温厚そうな爽やかな青年の印象を与える。
「…失礼ながら、今だけはマリーと呼ばせて頂きます。バレてしまっては面倒ですから、敬語も外して宜しいですか?」
聞かれてマリルは頷く。ケイトは安心したように更に笑みを深くした。
「良かった。実は敬語、苦手なんだ。…今日は仕事はお休みだからね。そこに可愛らしいお嬢さん方と城下町の散策のお話が舞い込んできたから、俺としてはこれ以上ない程の休日だよね」
爽やかに笑顔を振り撒いてケイトはアクリスとマリルの肩に手を回す。ぎょっとしてマリルは思わず身を固くしたが、ケイトはそのまま二人を連れて歩き出した。
「ケイト、マリーにベタベタ触らないでね」
「じゃあ代わりにクリスにベタベタしていいの?」
「…ふざけないで」
じろりとアクリスがケイトを睨む。マリルはこの少女が誰かを睨む姿など見たことがなかった。
驚いているマリルの肩から手を離し、ケイトはアクリスを見つめた。
「…怒った顔も可愛いよ」
にこにことアクリスを眺めるケイトを冷ややかに一瞥し、アクリスは自身の肩に乗っている手をつねった。
「痛い痛い!」
叫んで肩から手を離すケイトを無視し、アクリスはマリルへと心配そうな視線を向けた。
「マリー、大丈夫?何もされてないわよね?」
「その言い方、傷つくなぁ…。ちょっと触っただけじゃん」
「ケイトは黙ってて。マリーに聞いてるの」
「大丈夫よ。少し驚いただけ」
アクリスはケイトからマリルを守るように隣に移動すると更に『本当に?』と尋ねた。マリルはもう一度頷く。
「…良かった。何かされたら直ぐに言ってね」
「…ありがとう」
アクリスからのこの信用度の低さに多少の不安を覚えながらマリルはぎこちなく笑顔を返した。








ダカール国王の守護騎士の一人であるケイトは普段はしないであろうお忍びの城下町の護衛に非常に慣れた様子だった。
アクリスは道中、彼の目の前で彼を『風船でできたような軽すぎる騎士』と評した。実際ケイトは町中の娘達から熱い視線を受け、その度に甘ったるい断り文句を口にした。その度にアクリスがケイトに向ける視線は冷ややかさを増していった。そしてその瞳の中にその度に嫉妬の色が映るのをマリルは見逃さなかった。それをケイトが毎回確認し、その度に彼が嬉しそうに笑うことも。
「…私、完全にお邪魔虫よね?」
どちらにともなく呟くマリルに二人が同時に首を傾げた。
「お邪魔虫?何を言ってるの?」
「そうだよ。こんな美人を邪魔だなんて、誰が言うのさ?…あ、アイス売ってるね。二人とも何味がいい?」
ケイトは通りの出店を示す。
「味は…バニラとチョコとイチゴとチョコミントだって」
看板に目を凝らしケイトはメニューを読み上げる。距離としては近くないのだが、よく見えるものだとマリルは感心した。
アクリスはイチゴを頼み、マリルはチョコミントを頼んだ。ケイトは直ぐにそれらのアイスを買ってきてそれぞれに手渡した。
礼を言って受け取りアイスを一口かじる。
マリルの口に独特の甘くすっきりした味わいが広がった。




アイスを食べて城下町を三人でぶらぶらと見て回った。それは確かに気晴らしになる時間の使い方だった。
誰かと話ながら買い物をするのはマリルにはあまり経験がなかったが、アクリスとケイトに連れられて歩く度にその楽しみを感じていた。
だから忘れていたのだ。
自分が追われる立場であることもその身を隠す必要がある存在だということも。



崩れてくる材木を眺め身動きもできないマリルを誰かが突き飛ばした。
地面に尻餅をついて転んだマリルの耳に周囲から上がった悲鳴が飛び込んできた。
建築中の建物の材木が突然バラバラと崩れて来る。
使用予定の材木は一ヶ所に集められ縄で固く固定されていた。太い丸太のままの材木が何本かと形の整えられた柱のような材木が何本かそこに集められていた。

ガッシャーンと騒々しい音を立てて材木は通りに倒れ込んでくる。
道行く人々は少なく、被害にあった人物はほぼいない。
突き飛ばされたマリルは顔を上げ、自分がいたであろう場所にケイトとアクリスの姿を見つけて小さな悲鳴を上げた。
駆け寄ろうと立ち上がるが、足が縺れてもう一度膝をつく。
その間に周囲から援助の手が二人の元へと伸びていく。
バラバラに倒れた材木の内の一本がケイトとアクリスの元へと伸びている。ケイトがアクリスを庇うように抱きしめ、彼の頭からは血が流れている。材木は駆けつけた人々によって横に移された。マリルはその間に二人の元へと移動した。

「大丈夫!?」
大丈夫ではないことは見た目でわかるが、そう声をかけずにはいられない。マリルに気づいたケイトはアクリスを抱く腕の力を緩め、マリルにアクリスを預けた。
「…大丈夫。ほら、傷一つないよ」
アクリスを示してケイトは嬉しそうに笑う。その顔に向かってアクリスが声を荒げた。
「バカ!私の話のはずないでしょう!」
「ほら、元気そう」
ははは、とケイトは声を上げて笑う。その間にも頭から血が流れ続け、彼は駆けつけた人々に担架で運ばれようとしていた。
「あ、担架は大丈夫です。多分ちょっと切っただけだから。意識もこれだけはっきりしてるし」
担架で運ばれることを拒否するケイトをアクリスが更に非難する。
「何を言ってるの!?大人しく担架に乗りなさい!」
「いやいや、大袈裟だって。…ねぇ?」
ケイトは助けを求めるようにマリルに視線を向ける。マリルはケイトに首を振った。
「担架に乗って。…私達も一緒に行くから。心配しないで。きちんと治療を受けましょう」
ケイトは自分とアクリスを気にして担架に乗らないのだとマリルは解釈した。騎士として立派な心掛けだし、行動なのかもしれないが、それより今はケイト自身を心配するべきだとマリルもアクリスも思っている。
「…側を離れないと約束できる?」
マリルとアクリスの視線に負けたようにケイトは溜息をつく。マリルはケイトに向かって頷いた。
「約束する。目の届く範囲にいるわ」
「わかった。但し、担架には乗らない。歩けるし何かあった時に困るから」
これ以上譲る気はないと言外にケイトは伝えている。確かに彼の立場上、これ以上の失態はできないし、何より二人を本当に心配している様子が見えた。
しっかりと固定された材木が三人を目掛けて、その上タイミングよく紐が切れるなど、偶然とは思えない。
何らかの人為的な意図があったとケイトは気付いていたし、そうなった場合二人を残しては置けないのだろう。
マリルとアクリスはケイトを間に挟み、ケイトの要望通り歩いて診療所へと向かった。









ケイトは本人が言うように少し頭を切っただけで特にどこも痛めていなかった。
単に石頭だっただけなのか、普段の訓練の賜物なのかはマリルには判然としないが、とにかく、無事だったことに安堵した。
診療所に歩いて行き、そこで簡単な止血をしてもらった彼は、駆けつけてきた部下にマリルとアクリスを王宮まで送らせた。マリルとアクリスは沢山の護衛に守られて王宮に戻り、起こった出来事について国王に報告した。それからゆっくりと風呂に入り、清潔なベッドの上で眠った。
その翌日、マリルはトリイに呼び出された。


トリイの部屋には頭を包帯で包んだケイトがおり、マリルは驚いて彼を見つめた。
「具合は?もう動いて大丈夫なの?」
トリイの前であることも忘れて昨日のように敬語を外してしまい、マリルは思わず口元を押さえた。だが、ケイトは気にすることもなく、昨日と同様砕けた様子で返答してきた。
「大丈夫。昨日はありがとう。気を使わせて悪かったね」
「いえ、それはいいのだけれど…」
ちらりとマリルはトリイを見る。それに気付いてケイトは何でもないようにひらひらと手を振った。
「トリイのことなら気にしなくていいよ。俺が敬語を話さないのなんて少しも気にしてないから」
「…それは、いいのかしら?」
「昔の誼でいいにしているだけだ。大体、こいつの下手な敬語を聞くよりはいい」
トリイはケイトを冷ややかに眺め、一度首を振ってからマリルへと視線を移した。
「昨日の件だが…」
「あ…申し訳ございませんでした。勝手に王宮を抜け出した挙げ句、あのような…」
「責めてない」
予想していた通り叱責されるのだろうと頭を下げたマリルをトリイは遮った。
「…はい?」
『責めてない』とは聞き間違えだろうか。思わずトリイを見たマリルは、彼が憮然とした顔をしているのを見た。やはりさっきのは聞き間違えだともう一度謝ろうとした所に、トリイは更に続けた。
「昨日の出来事は誰かに予想できた事ではない」
「…予想はできなくても用心していれば防げたことでは?」
「充分に用心はしていた。昨日の事は不足の事態だ。従って王宮を勝手に抜け出した不肖の妹と婚約者に非はなく、それを防げなかった情けない騎士は減俸1ヶ月とする。…それで押し通してきた。だから妙な言動は慎むように」
相変わらず憮然としたままのトリイをマ
リルは驚いてしげしげと眺めた。
マリルの中ではトリイがこんな事を言うとは思ってもいなかった。トリイはマリルを叱責するだろうと考えていたし、だからわざわざ呼び出したのだと思っていた。
何より、こんな風に誰かを庇う姿が想像できなかった。
「…何か?」
珍しいものを見る時の顔をしているマリルに不機嫌そうにトリイは尋ねた。
「…誰かを庇うようには見えなかったわ…特別に仲が良いのね」
正直に伝えるとトリイは大仰に顔をしかめた。
「気持ち悪い言い方するな。…それより、本題に移るぞ」
顔の前で手を組み合わせトリイは眉間に皺を寄せる。その本題が面白くない話だということはその様子を見ればわかる。マリルはトリイの前で姿勢を正した。