一頻り泣いた後、アクリスは深呼吸して立ち上がった。
「ありがとう。急に泣いたりしてごめんなさい」
まだ赤い目でにこりと微笑む。
「もういいの?落ち着いた?」
心配そうに尋ねるマリルにアクリスは頷く。
「大丈夫。気持ちは落ち着いたから」
恥ずかしそうにはにかみアクリスは扉に向かう。まだ心配そうに見つめるマリルに一度頷き、アクリスは扉を開けた。
出ていこうとしたアクリスはそこで動きを止めた。
扉の前にはかくれんぼをしていたカイルとアクリスが避け続けているケイトがいた。
「姉さま、見つけた!」
カイルは嬉しそうに叫びアクリスに抱きつく。が、アクリスはカイルではなくケイトから視線を外せない。カイルは微動だにしないアクリスを不思議そうに見つめ、反応しない彼女を見飽きたのかキョロキョロと回りを見回す。部屋の奥にマリルを見つけてカイルはアクリスから離れマリルに駆け寄ってきた。
「マリー!」
ぎゅっとマリルに抱きつきカイルは頬擦りをする。
「姉さま、動かないよ?」
「そうね…どうしましょうか…」
バタン、と音を立ててアクリスは扉を閉める。それは見たくないものに蓋を被せるのと変わらない。マリルは小さな溜息をつく。
「閉めてもどうしようもないでしょう。…カイル、アクリスはケイトとお話があるの。私と一緒にお庭でお散歩でもしましょう」
カイルは散歩の言葉に嬉しそうに頷く。小さな体を抱き抱えてマリルは扉の前から微動だにしないアクリスの隣に立った。
「アクリス、私の両手は塞がっているの。…扉を開けてくれる?」
両手でケイトを抱えたまま自分の横に立つマリルをアクリスはまじまじと見つめた。その視線を受けてマリルは安心させるように微笑んだ。その何もかもを受け入れてくれるような微笑みは、同時に有無を言わさない力がある。従わざるを得ないと、誰にも思わせる。
アクリスは深呼吸をし、扉を開けた。
「…ありがとう。…ケイト、私はこれからカイルと少しお散歩に出てくるわね。暫くしたら戻ってくるから」
先程と同じ位置にいるケイトに向かってマリルは告げる。ケイトは無言で頷き、マリルと入れ違いに部屋へと足を踏み入れた。



パタンと扉を閉める音がする。
入ってきたケイトを避けるように一歩、アクリスは後退りする。それを見咎めてケイトは不機嫌そうに入ってきた扉に凭れた。出口を塞ぐような仕草にアクリスは戸惑う。何か話さなければと思えば思う程に、緊張で口の中がからからになる。
「…あの…」
漸く出た言葉はその先が続かない。何を言おうか、結論が出ずにアクリスは口を開けては、思い留めて口を閉める。その様子を眺めてケイトは溜息をつく。
「…なんで避けるの?」
声には押し殺した怒りが感じられる。びくりとアクリスの肩が震える。
「…避けてるわけでは…」
「避けてるよね?」
ケイトの声音には有無を言わさない響きがある。何を言っても言い訳になることがアクリスにもわかっている。小さくアクリスは呟いた。
「…ごめんなさい」
俯き、視線を床に向ける。
その姿を少しの間じっくりと観察し、ケイトは再び溜息をつく。溜息にも纏う雰囲気にも怒りが滲んでいる。
いつものあの何もかもを適当に流す気配は微塵もない。徹底的に話し合うつもりなのか、ケイトは無言でアクリスに近づく。
アクリスはびくりともう一度身を震わせる。逃げ出しそうに足が動くが、アクリスは意思の力でそれを押し留める。ぐっと力を入れて挑むようにケイトを見上げた。その見慣れた顔は間近に迫っている。
ケイトの、髪よりも濃い茶色の瞳がアクリスを見つめている。その目には思案するような、責めるような、欲望を秘めているような不思議な色が浮かんでいる。正面からそれを受け止めてアクリスもケイトから視線を外すことができない。
「…逃げるなら今だよ」
小さな声でケイトは囁く。警告するような声音にアクリスは瞬く。
「どういう…」
『どういうこと?』そう言おうとした言葉は最後まで続かない。
ぐいっとケイトに引き寄せられてそのまま唇が押し当てられる。強い力で抱き寄せられて顎に触れている手によって顔はケイトから離れない。角度を変えて何度も口づけられる。
「…んっ…」
背けようとする度に引き戻されて触れる唇から吐息が漏れる。
抱き寄せられている腰に回っている腕に力が加わる度にアクリスも無意識にケイトの服を強く握る。
飢えた獣が餌に噛みつくように、留まることのないキスがアクリスの意識を奪っていく。
体も脳味噌も蕩けそうな感覚に全てを委ねそうになりながら、ケイトは無理矢理唇を離した。
間近に見るアクリスは驚きと不安が混ざったような顔でケイトを見上げている。そこに非難の色はない。恋い焦がれた少女を腕に抱いて、その瞳が責めていないことがわかり、もう一度その唇に触れることを我慢できなかった。軽くキスをしてケイトは自分の意思の弱さに自分でも呆れてしまう。職業柄、意志が弱いとは思っていなかったのだが、そうでもなかったらしい。小さく溜息が出る。
「…ごめんなさい…」
ケイトの溜息を聞いてアクリスは焦って離れようとする。それを腕に力を込めて遮ってケイトは首を傾げた。
「なんで謝ってるの?」
どちらかと言えば謝るべきは自分の方なのだが、アクリスは困ったように顔を伏せてしまう。赤みを帯びたその顔が可愛いらしい。
「…顔、上げて」
もっと見ていたいと全身が渇望している。ケイトの声に大人しく従ってアクリスは顔を上げた。
「……好きだよ」
耳元に囁けば、アクリスは顔を真っ赤に染め上げる。信じられないものを見るようにケイトを見上げて、アクリスは口を何度か開け閉めする。ぱくぱくと声にならない仕草を繰り返す。赤くなった顔と合わせると金魚のようだとケイトは頭の隅で思う。
「…嘘。信じられない…」
「じゃあもう一回キスする?…信用できるまで何回でも」
「は!?」
反論を防ぐようにケイトはもう一度アクリスの唇に触れる。また離れることができるくらいに短く、数回続けて。
「…待って。…もう一回言って」
何度目かの離れた時に、アクリスは呟く。見上げてくる琥珀色の瞳は見間違うことなく潤んでいる。それを見つめてケイトはふっと微笑んだ。
「…好きだよ」
色とりどりの花が風に揺れている。微かに吹くそよ風が花の匂いとほんの少しの冷気を運んでくる。暖かい日差しに照らされてのんびりとした空気が漂う。庭園の木陰で膝の上にカイルの頭を乗せてマリルはその柔らかな髪を撫でた。カイルは疲れてぐっすりと眠り込んでいる。身近に感じる暖かみはこれが現実だとマリルに伝えている。
トリイが言ったように庭園は素晴らしく、まるで夢のようにも見える。
そもそもここにいることが夢のようなものなのだ。手に触れる物も目に見える物も現実でありながら、それは現実感を与えない。
「…偽物だからかしら…」
思わず一人で呟いたマリルの背後から声がかかった。

「偽物なんだ?じゃあ、シープネスの姫さんじゃないってこと?」
ぎょっとしてマリルは背後を振り向く。
そこには背の高いひょろりとした男性がいた。黒い服の袖から細くて大きな手が見えている。背の高さと服の黒さによって異様な迫力がある。
ダカールの人間ではない。彼は味方ではない。
頭の奥で本能がそうマリルに告げている。
この男は何者なのか、警戒し立ち上がるマリルの腕をその男は掴んだ。
「そう警戒しなくてもいいじゃん。少しお話しようか、お姫サマ」
ギリギリと掴んでいる手に力が加わってくる。喉の奥から小さな悲鳴が漏れそうになるのを必死に押さえて、マリルは一度だけ深呼吸する。
「話してもいいわ。でもこの子は関係ないでしょう」
カイルを示しマリルはその男を睨む。彼は今気付いたようにカイルへ視線を向けるとにっと笑った。
「あぁ…その坊っちゃんはそのまま置いておけば?…大丈夫、見ての通り、他に俺の連れはいない。そこに寝かして置いておけば勝手に自分で起きるだろう?」
彼は自分の周囲を示しマリルに辺りに人がいないことを確認させる。確かに一見しただけでは周囲に他に人はいない。どこかに隠れているのかもしれないが、マリルにはそれは見えない。
「なかなか疑り深いねぇ。でもそれは悪くない。何事も疑ってかかるのが大事だ」
マリルの考えを見通しているかのように彼は言う。にやにやと人を試すような笑顔でマリルをじっと見つめた。
「でも俺は先を急ぎたいんだよ。その坊っちゃん、置いていかないなら一緒に連れていくかい?」
「…わかった」
カイルを連れていくことはできない。マリルは座っていた位置へとカイルを戻す。一瞬カイルがぴくりと動くが、特に起きることはなかった。小さな安堵の息を吐き、マリルはその男へと向き直った。
「そう心配しなくてもいいさ。少し話したいだけだよ、二人だけで」
囁くように彼は言う。マリルが逃げないように肩を抱いて歩き出す。
気持ち悪い、と心から思う。
その男に触れられた部分から何かが背中を伝うように背筋がぞわぞわと無図痒い。
身を固くするマリルを引き連れて彼は人目を避けて歩く。王宮を熟知しているのか、迷っているだけなのか判断がつきにくい動きだった。
暫く歩き、王宮の外れまで来た所で彼は足を止めた。
王宮の外壁に凭れかかり、マリルを正面からもう一度見据える。
マリルは漸く離れられたことにほっと息を吐いた。
「その動作、ムカつくなぁ。俺としては随分紳士的にここまでお連れしたと思うんだけどなぁ」
にやにやと笑いながら彼はマリルを眺める。それは商品を品定めでもするような視線だ。
「…お礼を言うつもりはないわ」
少し離れた距離を更に広げようとマリルは後退りする。本当は大声を出したいところだが、そんなことをして誰かが駆けつけてくれるまで無事でいられる保証はない。マリルにできそうなことはできるだけこの男から距離を取ることだけだった。
「せっかくここまで来たんだ。…逃げる前に俺の話を聞いてくれるよねぇ?」
彼はマリルを見据える。その鋭い眼光はこれ以上マリルが遠くに行くことを許してはいない。幾分暴力的な気配を感じ取ってマリルはそれ以上後ろに下がるのを止めた。
「…あんた、なかなか鋭いね。そう、そこが最終ラインだ。それ以上は下がるなよ。こっちも暴力は奮いたくない」
彼は興味深そうにマリルを眺めている。
「俺はお使いでね。…実を言うとあんたを殺すように言い遣ってきてる。…でも、それを知った他の人間がそれは止めるように俺に言ってきてる。俺としてはどっちの命令を聞こうか思案しているってわけさ。特にまだ決めちゃいなかったんだが、あんたを見て決めたよ」
男はにぃと笑みを深くする。その笑みは狂っているようにも正気なようにも見える。
「俺はあんたを殺さないことにする。…但し、ここは出て行ってもらうけどな。3日やるよ。3日後の真夜中日付が変わる時にここに来いよ」
「今すぐ連れて行かなくていいの?…私が誰にも言わない保証なんてないでしょう?」
マリルの言葉に彼は更に笑みを深くする。新しいおもちゃを見つけた子供のように嬉しそうに見える。
「いいねぇ。その頭の良さ、気に入ったなぁ。…でもあんたは言わないよ。俺が誰のお使いでここにいるか、想像できるだろう?…ここの王子サマはあんたにご執心のようだし、あんたが誰かに拐われたとなっちゃ、大事だな。…そうしたら、またあんたのせいで人が死ぬかもなぁ。…そんなの、望んでないだろう?」
にやにやと嬉しそうに彼はマリルに言う。
それを眺めて、小さくマリルは微笑んだ。
その笑顔は自虐と慈愛に満ちている。
「…お義母様のお使いなのね…?」
質問に彼は答えない。それでもマリルの確証を得たい質問に対して彼がにやりと笑うのを見ることで、それが正しいことなのだと理解できた。
「…そんなに私を殺したいのかしらね」
記憶の中にある継母を思い起こしてマリルは目を閉じる。きつく組み合わせた両手を握りしめて、眉間に皺を寄せる。足元の緑をほんの少し、睨むように見つめて顔を上げた。
「3日後、真夜中日付が変わる時に」
その男へ真っ直ぐに視線を向ける。彼は一つ頷くと背を預けていた壁を乗り越えて出て行った。
名前も知らない男が出ていくのを眺め、その姿が見えなくなるとマリルはその場に座り込んだ。
身体中の緊張が解けてほぅっと長い溜息を吐く。落ち着くように何度か深呼吸をしてから立ち上がった。これから道順を覚えながらもう一度カイルの所まで戻らなければならない。カイルはまだそこで眠っているだろうかと、マリルは少し不安になる。
警護の固い王宮に、あの男は潜り込んできた。いつの時代のどこであろうと、侵入者は入ってくるものなのだとマリルは過去を思い出しながら考える。



マリルの生国シープネスは現在、女王の統治下にある。
彼女はマリルの生母亡き後に迎え入れられた隣国の姫だった。
義理の母にとってはマリルも自分の夫も邪魔な存在だったのだろう。気付いた時には彼女は女王として以上の確かな権力を持ち、強かに夫と連れ子を蹴落とした。まるで魔女のように、足音もなく背後に近寄って一瞬で邪魔者を消すその手腕は見事なものだった。
王宮での権力争いは珍しくない。
マリルは彼女の行為自体を非難するつもりはない。彼女は彼女なりの理由があったのだろうし、そこで争いが起こった時に負けたのはマリル自身の、そして父親の落ち度だ。

けれど、他国に住んでいる今のマリルには王宮のことなど関係ない筈だ。
義母が今までマリルの居場所が掴めなかった筈はない。
大人しくしていなければ殺すと、威嚇してきているのだ。先程の男を手として使って。
そこまでして殺されなければならない理由があるとは思えない。ダカールはシープネスから遠く離れている。マリルが仮とは言え、トリイの婚約者だと知れたところで今更脅威になどならないだろうに。

「…どうして」
小さく呟く声は風に消える。
少しだけ強く吹いた風に髪が煽られる。
漆黒の長い髪が視界を覆い、顔を伏せたマリルに向かいから声がかかった。

「…何をしてる?」
低い、落ち着いた大人の声。もう聞き慣れた声には責める様子はなく、ただ不思議そうな響きがある。
その声を聞いた途端、マリルは安堵した。
「…何も。散歩していただけ」
声は震えなかっただろうか。安堵して息を吐くのと一緒に緊張も出ていったようなのだが、今度は涙も一緒に出そうになる。
顔が上げられないまま俯き答えるマリルに、トリイは静かに近付いて来る。
一歩一歩近付く距離を足元で確認し、その距離がもう少しになったところで、マリルはくるりと身を翻した。
「…来ないで」
脱兎の如く、一目散に走り出す。
スカートがヒラヒラと揺れて、足にまとわりつく。走る速度に併せて鼓動も速くなる。息が苦しく、瞳から涙が溢れた。
見られたくない。
その強い一心でひた走る。
それでもマリルがトリイから逃げ切るのは不可能に近い。
直ぐに追い付かれてマリルはトリイに腕を捕まれて動けなくなっていた。背中から回されたもう片方の腕はしっかりとマリルを後ろから抱き寄せている。
「放して」
いつも以上に声を荒らげるマリルにトリイは腕に力を込める。
「嫌だ。…落ち着け」
耳元で聞こえる声にマリルはぎゅっと目を閉じる。その瞬間に溜まっていた涙が落ちる。それはマリルを抱えているトリイの手に落ちてしまう。
「…マリル?」
不審そうにトリイはマリルの名前を呼ぶ。心配そうな声音にマリルはこれ以上涙が溢れないように唇を噛む。ぐっと抱え込まれている腕に力を込めるが、腕の力は弱まることはない。
くるりと、マリルはトリイによって反転させられる。
俯き、顔を見られないように咄嗟に手で顔を覆う。
「見ないで」
肩を震わせて顔を覆うと頭上からトリイの溜息が聞こえた。

なんてみっともない、そう思ってもう一度離れようとするマリルをふわりとトリイは抱き締める。マリルの顔はトリイの胸に押し当てられた。
「わかったから。これなら見えない」
優しく抱き締められてマリルは戸惑う。トリイの身体は温かい。その穏やかな温かさは、マリルの心を癒すようだった。
急に泣き出したマリルを抱き締めながら、トリイはその黒髪を撫でる。小さく震える肩は華奢で、ほっそりとした腰は力を入れれば直ぐにでも折れそうだ。柔らかく、甘い芳しい匂いに理性が飛びそうになるが、何とか意識を保つために深く息を吐き出した。
「…ごめんなさい…」
びくりとマリルの肩が大きく震える。離れようとするその体をもう一度胸に引き寄せる。
「落ち着いたか?」
「…えぇ。あの、もう大丈夫だから。…逃げないから…放して」
「却下」
戸惑い腕から逃れようとするマリルはトリイへと顔を向ける。
その潤んだ瞳に見上げられてトリイは一瞬息が止まる。
乳白色の柔らかな肌と漆黒の瞳、林檎のような赤い唇。普段は大人びた視線は、今日に限って不安げな子供のように所在無さげに辺りをさ迷っている。
ほんのりと目の縁が赤く、トリイはそっとその部分に触れた。ぴくりとマリルは身体を固くする。
それでも特に顔を背けることもなく、驚いたようにただトリイを見つめている。
触れた肌は滑らかで温かい。
「…あの…」
小さく紡がれた言葉が発せられた唇に指を伸ばし、トリイはマリルの顎を掬う。
そのまま、流れるように唇を触れ合わせる。

溺れている。
理性も効かないほどに、深く深く。

驚いてバシバシと自分を叩く手を掴み、トリイはキスを深くする。
「…っ…」
舌を絡めて奥へ奥へと入っていこうとするトリイの手にマリルは爪をたてる。小さな痛みにトリイは漸く唇を離した。

「…な、何を…」
真っ赤になってマリルはトリイを見つめてくる。
「…その顔、煽ってるのか?」
掴んでいる手を指を絡ませて繋ぎトリイはマリルの身体に力を入れる。マリルが慌てて腕から逃れようとする。その仕草を見ながらトリイは微かに眉を寄せる。
「…逃げるな」
耳元で囁けばマリルはぴくりと小さく動く。それから緊張して身動きが取れずに固まった。その背をするりと撫でれば、小さな悲鳴が漏れた。
「…やっ…」
その声は煽ってるようにしか聞こえない。今にももう一度泣き出しそうな瞳は戸惑いながらもトリイから視線を外さない。
「…どうして…?」
マリルの呟く声にトリイの眉間の皺は深くなる。
「どうして?…それはつまり、理由がわからないと?」
「だって…これではまるで……好きみたいに」
次第に小さくなる声にトリイは苛つきを隠すことなく溜息を吐く。マリルは間違った回答をした後のようなばつの悪い顔をする。
「ごめんなさい、違うわよね」
マリルが顔を背けると、白い首筋がよく見える。真っ白なその肌にトリイは口づけする。
「…やっ」
ぴくりと身動ぎするマリルから唇を離し、その顔を正面に見据える。
「違わない。好きみたいではなく、好きだ」
「…え、と…」
「俺は好きではない女性にキスはしないし、抱き締めて口説くこともない」
マリルの首筋についた赤い斑点を指先でなぞり、トリイはマリルを見つめた。
赤い。白い肌はうっすら赤く染まり、頬と唇がより一層赤く映る。
マリルにはトリイの言葉が異国の言葉のように直ぐに理解できない。
夢ではないだろうか。どこからが夢なのか、判断ができない程にマリルには沢山のことがありすぎた。
マリルはすっと手を伸ばし、トリイの頬に触れる。
そのまま彼の頬を力一杯につねった。
「いて」
トリイは不機嫌そうな声を出し、マリルの手を取る。
「なんだ?」
「あ、夢かと思って…」
「人の頬でなく自分の頬にしろ」
言うや否やトリイはマリルの頬をつねる。しっかりとした痛みにマリルは自分の頬を握っている手を叩く。
「痛い痛い!…ごめんなさい!」
ぱっとトリイはマリルから手を離す。それからマリルを抱き締めていた腕を離した。漸く離れたマリルはほっと息を吐く。
「…で?何をしてた?」
「何も……少し感傷的になっただけ」
「そうか…ならそういうことにしておこう。今はな」
トリイはそっとマリルの手を取る。暖かなその手にマリルは安堵してしまう。
これからあの男と一緒にここを出ていくというのに。
離れがたいと、心底思う。
「…それで、あなたこそ、どうしてここにいるの?」
「カイルが呼びにきた。カイルはマリルがいないと大騒ぎしている」
「あぁ、無事戻ったのね」
あの男の言うとおり他に仲間はいなかったのだろう。何事もなくカイルの名前が出たことにマリルはほっと安堵の息を吐いた。

明るい日差しが色とりどりの花を照らす。暖かな春の日の午後に庭園で母親が紅茶を飲んでいる。白いテーブルクロスの上には甘いお菓子が鎮座していた。突風がクロスを吹き上げ母の髪が靡く。母の柔らかな膝に駆け寄り、身体ごと抱き締めてもらう。
良い匂いと優しい手に髪を撫でられて安心して眠りにつけると思った。



ぱちりと目を開けてマリルはベッドから起き上がる。久しく見ていない夢だった。寝起きから泣きたくなるような、温かく切ない夢だ。
「…今更夢に見なくてもいいのに」
あの夢は見ている間は幸せになれる。それが起きた途端に悪夢に思える。
あの夢の景色は二度と戻ってこない、過去の夢だ。もう手に入らない欲しくて欲しくて堪らない帰る家の夢は、マリルにいつも現実を突きつける。
マリルの帰る家はどこにもない。
帰りを待つ家族はいないし、最近では戻る家もなくした。
あの小さな森の家はマリルが舞踏会に出た数日後、小火騒ぎが起こり今ではダカール王家監視のもと、憲兵が住み込みで働いている。森の家に特別な思い入れがあるわけではなく、トリイからその話を聞いた時もマリルは特に動揺しなかった。
ただ少し、また帰る家を失ったと残念に思っただけだった。
自分には安定した家は持てないのだろうかと思った瞬間、マリルは思わず呟いていた。
「旅に出よう」
まるで天啓を受けた聖者のようにマリルの頭にその考えは急速に深く染み渡る。
あの男と一緒に行って生きていける保証もなければ、どこに行くのかもわからない。ここに残っても迷惑をかけるだけ。
それならば一人で遠くへ行けばいいのだ。
マリルは元々追われる身だ。ここから出て行っても元に戻るだけだ。
トリイと出会う前に。
「…あぁ…やっぱり夢だったんだわ」
ここはあの幸せな夢の続きと同じなのだ。欲しいものが、自分を受け入れてくれる暖かい場所がここにはあった。
離れる。そのことを考えてマリルは滲んできた涙を指先で拭った。
清潔で質のよいシーツに包まれてマリルは数回深呼吸する。涙を押し殺すために暫く膝を抱え、顔を伏せる。
暫くそうして深呼吸したマリルはふっと顔を上げた。
「行こう」
自分に言い聞かせるように呟くと、マリルはベッドから降りた。






やらなくてはいけない事は沢山はない。
出ていくのは明日にしようとマリルは決めていた。今日はカイルとアクリスに会って、それからトリイへ会いに行こうとマリルは考えた。
トリイには感謝の気持ちがある。それから彼の意外と優しい部分を知れた。それが自分に対しても発揮されたことが嬉しかった。思い出してみれば彼は確かに自分勝手にマリルを振り回したが、いつも配慮してくれていたように思う。
舞踏会でリリハが問い質しにきた時も初めはマリルが矢面に立たないように庇ってくれていたし、ケイトの事故の時もマリルが自分を責めないように上手く立ち回ってくれていた。心配していると言ってくれたのは本当に嬉しかった。
トリイが自分を好きだと言った事も嬉しかった。
けれど、マリルには自分の気持ちが掴めていない。
これから離れる決心をしてこんなに辛いのはマリルがトリイを好きだからなのか、欲しかった居場所を失うのが嫌だからなのか、それともカイルやアクリスと同じ、仲良くなって離れるのが寂しいだけなのか、マリルにはわからない。
トリイを好きだとマリル自身が自覚できないでいる。

つらつらと考えながら歩いていたマリルは到着したアクリスの部屋をノックした。
「…はい?」
扉を開けてアクリスの侍女が顔を出す。マリルを見て彼女はアクリスに声を掛けて退出していった。
マリルは部屋に通され、アクリスの示したソファーへ腰掛けた。
「マリルが来てくれるなんて珍しいわ。…どうしたの?」
嬉しそうにアクリスは笑う。その笑顔を見つめてマリルも釣られて微笑んだ。
「昨日、大丈夫だった?ケイトとは仲直りした?」
「え!えっと…あの…」
ケイトの名前にアクリスは顔を赤くする。アクリスは焦って侍女の用意した紅茶を少し溢した。
「大丈夫?」
アクリスの慌てようにマリルは驚いた。アクリスは何度も頷き、落ち着くように何度か深呼吸する。
「…あの…」
言い淀み顔を俯かせ、アクリスはマリルの耳元に口を寄せる。絶世の美少女の囁きがマリルの耳に届く。
「その、好きだって言ってくれたわ」
「そう、良かったわね」
アクリスは真っ赤になって頷く。その姿は普段のアクリスをより一層可愛らしくみせている。
「私、好きな人に好きって言ってもらう事がこんなに幸せだと思ってなかった。…マリルは?お兄様に好きって言われた?」
「どうして急にそんなことを聞くの?」
「お兄様、昨日様子が変だったから」
「…どこが?」
トリイの様子が変だったとは、マリルは思っていない。トリイはあの後もいつもと変わらず淡々としていた。マリルは昨日、色々な事が起こりすぎて余裕がなかった。早々に与えられた部屋へ戻り、さっさと寝てしまったのだ。
「お兄様のことだから、マリルに気持ちを伝えることなんて、今までなかったでしょう?それを急に婚約者なんて言うものだから、告白でもしたのかと思っていたの。なのに、この前聞いたら『言った覚えがない』だなんて…」
ぶつぶつとアクリスはトリイに文句を続ける。マリルはアクリスを驚いて見つめた。
「アクリス、もしかして私がどうしてここに来たのか知っているの?」
あの森の家でトリイが勝手に事を進めたのをアクリスは知っているのだろうか。アクリスはマリルに見つめられて、悪戯がバレた子供のような顔をする。
「その…詳しくは知らないのよ。ただお兄様が無理矢理押し掛けて、無理矢理婚約者にしたっていうのは、聞いてるの」
アクリスは事の始まりを知っていたのだ。マリルは全身から力が抜ける気分だった。
「黙っていて、ごめんなさい。お兄様とマリルの事だからあまり言ってはいけないかと思って…」
「いえ…いいの。事実だから」
「それで…えぇと、お兄様、ちゃんと言ったのかしら?」
恐る恐るアクリスはマリルを見る。その視線には興味津々な様子が見える。その顔を眺めてマリルの頭に疑問が浮かんだ。アクリスはどうしてケイトが好きと気付いたのだろう。
「…アクリスはケイトが好きなのよね?」
マリルはじっとアクリスを見つめた。アクリスは顔を赤くしたまま頷いた。
「…好きってどこで気付いたの?いつ?なぜ?」
難しい顔をして矢継ぎ早に尋ねるマリルにアクリスは首を傾げた。
「マリルはお兄様の事、好きではないの?」
責めている様子はなく、ただ不思議そうにアクリスは尋ねている。マリルは小さな溜息を吐いた。
「正直、よくわからないわ。そういうことはあまり考えたことがなかったから」
「…では、例えば、お兄様が他の人と結婚するとしたらどう思う?」
「…結婚…」
おめでたいことの筈だ。マリルのことを忘れて他の誰かと幸せな家庭を築く。トリイはきっとその女性を大切にするだろう。慈しんで優しく触れる。昨日マリルに触れた手と、唇で。
想像してマリルはがっくりと項垂れた。
心底、嫌だと思った。
それはつまり、認めざるを得ないのだ。トリイが好きなのだと。マリルは小さく呻いた。
「…マリル…?大丈夫?」
アクリスが焦った様子で聞いてくる。マリルはアクリスに苦笑した。
「…平静ではいられないでしょうね」
小さくマリルは呟く。その言葉は先程の問いに対する答えだとアクリスは気付いて、嬉しそうに微笑んだ。
「そう。良かった。…私はお兄様の妹だから、お兄様の希望が通れば嬉しい。けれど、その為にマリルが犠牲になるのは耐えられないわ。…だから、マリルがお兄様を好きでいてくれたら、きっとそれが一番幸せだと思うの」
アクリスは嬉しそうにマリルを見つめる。それを気恥ずかしく思いながらマリルは立ち上がった。
「話せて良かったわ。そろそろお暇するわね」
「お兄様にマリルの気持ちも伝えてあげてね。とても喜ぶから」
アクリスの言葉に照れながら苦笑し、マリルはアクリスの部屋から退出して行った。


アクリスの部屋を出たマリルはカイルを尋ねたが、カイルは部屋におらず、結局会うことはできなかった。夕食にもカイルは現れなかった。アクリスに聞いたところによると、カイルは熱があるらしい。昨日外で寝たせいだろうかと、マリルは心配したが、アクリスにやんわりと否定された。
その夕食後、マリルはカイルを訪れることなく自室に戻り、持ってきていた少ない荷物を草臥れた自分の鞄に詰め込んだ。
それはここに来た時と同じ鞄だ。戻るのだと、鞄に荷物を詰め終えた後、急速にその考えが現実味を帯びてきた。
マリルの持っているものはこの草臥れた鞄一つだ。豪華な調度品、立派なベッド、美しい衣服は、全て借り物に過ぎない。
分不相応だったようにしか思えないが、それでもとても良い生活だった。
明日ここを出て行ったら、もう二度と見ることはないだろう。今日はベッドでぐっすり眠ろうとマリルは心に決めた。
「…その前に…」
トリイに会いに行かなくてはならない。
本当は昼間、会いに行けば良かったのだが、どうしても足が向かず結局夜になってしまったのだ。
溜息を吐くと、マリルはトリイの部屋へと向かった。





ノックの数秒後、トリイの部屋の扉が開く。従者が開けたのではなく、トリイ本人がいきなり出て来てマリルは驚いた。
「…夜分にすみません。今、宜しいかしら?」
一拍を置いてマリルはトリイを見上げた。トリイは眉間に皺を寄せてマリルを見ている。
「夜分に一人で男の部屋に来るな」
トリイはとりつく島もなく、扉を閉じようとする。慌ててマリルはその扉を手で押さえた。
「長居しないから!少しだけ、話せない?」
「部屋の外で?」
「…廊下はちょっと…その、どうしても入ってはいけない?」
恐る恐るマリルはトリイに尋ねる。トリイはそんなマリルを数秒眺めて深い溜息を吐いた。
「どうなっても知らないからな」
警告のようにトリイはマリルを見据えた。それから扉を開けてマリルを招き入れた。
「…気をつけます」
部屋の中に入ってくるマリルを見ながらトリイは二度目の溜息を吐く。気をつける気があるのなら、今すぐ出ていくべきなのだが、マリルにその様子はない。警戒心がない上に危機感までないのか、トリイを安全だと思っているのか、マリルの顔からは判断が難しい。
「…で?用件は?」
昨日の事だろうと予想しながらトリイは尋ねる。
「あ、その…お願いがあるの」
「お願い…?」
困ったようにマリルは微笑む。その笑顔がいつもより寂しげに見えてトリイの胸に嫌な予感が起こる。
「昨日の事は忘れて欲しい」
きっぱりとマリルは言いきる。その顔には意思を曲げない頑固さが滲み出ている。
「私はあなたに婚約者のふりをして欲しいと頼まれたの。…本当に婚約者になるのは、荷が重いわ」
にこりとマリルは微笑む。その瞳は揺らぐことがない。意思は固まっているのだとその目は言外に伝えている。
マリルは自分をまじまじと見つめるトリイから視線を反らし身体の向きを変えた。これ以上伝えることはない。扉に手を掛けてマリルはほんの少し振り返った。
「話はそれだけ。本当夜分に申し訳なかったわ」
マリルはカチャリと音をたてて扉を開けようとする。しかしそれは叶わなかった。
ドン、と顔のすぐそばで音がする。
マリルの意思によって開こうとしていた扉は別の手によって再び閉じられた。すぐそばにトリイの身体がある。
一度目を閉じてマリルはトリイを振り返った。
「…どうなっても知らないと、警告はした」
眉間に皺を寄せるマリルの唇にトリイの唇が触れる。噛みつくようなキスにマリルはトリイの肩を叩く。
「…っ…」
息もできないくらいに深く激しいキスに、マリルは泣きたくなる。本当はこのまま受け入れてしまいたいと思う反面、その事が良い結果をもたらす事がないとも思う。
ぎゅっと抱き締める腕の力が強くなる。力強い腕に身を預けてしまえたら、全て話したら、そう思った瞬間マリルはその場にへたり込んだ。
足の力が抜けて座り込むマリルをトリイは抱えあげる。
「なに…」
ポンとベッドに放り投げられてマリルは身を固くする。ベッドが軋む音をたてる。両腕を押さえられて、マリルがもがいても振りほどくことはできない。
「だから夜中に男の部屋なんか来るなって言っただろう」
噛みつくようにトリイはマリルの首筋にキスをする。びくりとマリルは身動ぎする。
「んっ…」
するりと太腿を撫でられてマリルは身がすくんだ。

恐怖に顔を強ばらせるマリルを目にした途端、トリイはぴたりと動きを止める。
ベッドの上でマリルに馬乗りになっていたトリイはぴたりと動きを止める。
マリルの顔には恐怖の表情が貼り付いている。その顔は理解できない魔物でも見るようにトリイを見つめている。
恐ろしくて醜い、救いようのない魔物に心底怯えている。
その顔を見た途端、トリイはマリルの上から下りていた。
「…悪かった」
トリイが自分から距離を取るのを見届けてマリルはベッドから降りた。震えが収まるように何度か深呼吸し、マリルは告げる。
「私は無理強いされるのは好きではないわ」
声音は固く、トリイとの間の距離はもっと遠くなるように感じる。少し乱れた着衣を直し、マリルはトリイの横を通りすぎる。部屋の出口に向かい、そのまま扉に手を掛けた。
「おやすみなさい」
今度は振り返らずにマリルは扉を開けて出て行った。






部屋に戻ってきたマリルは扉を閉めた途端に座り込んだ。
心臓は早鐘のように未だに音を立て続けている。手のひらにはじんわりと汗までかいていた。
「…怖かった」
男の人の力だった。マリルの力では逃げられないと思い知らされた。昨日の優しく抱き締めてくれた人物と同一人物だとは思えない暴力的な何かがそこにあった。それは飢えた肉食動物が草食動物を狩る感覚に似ているように思える。
相手の意思など関係なく、欲望のままに行動する傲慢さとそれを許されている強さが、マリルにはこの上なく気に入らない。
そんな風に自分が扱われることを享受することはできない。
それなのに、もっと触れて欲しいと思う自分がいることにマリルは衝撃を受けていた。
無理強いは嫌だ。
けれど、もしそうでないのなら、マリルはトリイを受け入れていたかもしれない。
そう思うと自分がとてつもなく自堕落な卑しい生き物に思える。
「あんな顔…」
自分を責めるような顔をトリイにさせたい訳ではない。
できれば笑って部屋を退出したかった。トリイに見せる最後の顔は笑顔にしたかった。残念ながらそれはできなかったが、勝手に出ていくマリルをトリイは許してはくれないだろう。
「…もう寝よう」
いつまでも後悔しても仕方ないとマリルは立ち上がる。重い体を引きずってベッドまで行くとそのまま眠りに落ちた。



翌日、マリルは王宮を出て行った。
特にこそこそすることもなく、堂々と城門を出る。
マリルは質素な平民の服に着替え、午後を迎えてすぐに行動に移した。
アクリスとトリイはその日は午後から人と会う約束があると前々から聞いていたから、マリルは誰に見られることもなく城門まで来れた。
一度、アクリスとお忍びで城下町に行った経験が活かされている。
その上マリルの顔は王宮内でもあまり知らされていない。
数人出会ったメイドも衛兵も王宮に食材か花でも持ってきた町娘くらいにしか思っていないようだった。
門の脇にいる兵士に軽く会釈し、マリルはそのままそこを出て行った。
夏草の匂いが鼻につく。暑い日差しがじりじりと肌を焼いて怪我をした左肩がじゅくじゅくと傷んだ。
懐かしい夢だとトリイは思う。頭のどこかでこれは夢だと認識しているのにまだ意識は覚醒できないでいる。まだ見ていたいと思うのはもう少ししたらマリルが現れると知っているからだ。


トリイがマリルと出会ったのは3年前になる。あの頃、ダカールは隣国であるリリハの生国ライオネスと争いが絶えなかった。冷戦になる前の最後の一暴れのごとく、戦禍は激しく、トリイは国内外を奔走していた。その最中、トリイは乗っていた馬もろとも崖下に転落したことがある。馬の足が縺れて一気に転落し、一緒にいた衛兵が助けを呼びにいった後、トリイは崖下の沢に転がっていた。
転落の時にできた怪我よりはその前の戦でできた肩の怪我がまた開いたらしい。焼けつくような痛みに眉をしかめてじっと耳を澄ます。
沢の音と風の音、その風に舞う小さなゴミの音。
戦場では聞くことのない音にトリイはどこか安心していた。じっと目を閉じているうちにいつの間にかトリイは深い眠りに落ちていた。



トリイが次に目を開けた時、そこは沢ではなく、どこかの洞窟の中だった。
暗い洞窟には小さな焚き火が仄かな明かりを灯している。パチパチと薪のはぜる音がする。身を起こそうとしたトリイを少女が覗き込んだ。
それがトリイがマリルと出会った瞬間だった。
艶めく黒髪に白い肌が仄かな光の元で自ら発光するように見えた。
マリルはトリイに手を伸ばしそっと額に触れる。ひんやりとした少女の手はトリイの熱を計り、安心させるようににっこりと微笑んだ。
その笑顔がトリイの脳裏に刻み込まれたのは、トリイにとっては至極当然のことだった。
マリルはトリイの瞼を指でそっとおろす。もう少し眠るようにと言葉に出さなくてもわかる仕草だった。何度か慈しむように頭を撫でられてトリイはどこか居心地の悪さを感じながら、もう一度眠りに落ちた。



マリルに会ったのはその時だけだった。
トリイが次に目を開けた時にはマリルはいなかった。変わりに助けを呼びに行った衛兵が他の仲間を連れてきていた。
彼らに助けられてトリイは王宮に戻った。それからマリルの行方を探すように指示したが、マリルの行方は全くわからなかった。
それが半年前、漸く居場所がわかった。
だからトリイはマリルの元へ向かったのだ。トリイがマリルの家を訪ねる前に忍んで見に行った時、マリルはあの森の家の雑草のような植物に水を遣り、それを暫く眺めていた。
その慈しむ横顔にトリイは密かに見入っていた。
あの時の幼さは影を潜め、大人に移り変わろうとしている、その時期にしかない儚さのようなものがマリルの身を包んでいる。
花が綻ぶ前の清廉な初々しさにトリイはぎくりとする。
綻ぶ前の花を一瞬で散らしてやりたい衝動と、いつまでも愛でていたい欲情にトリイ自身が驚いていた。同時に誰かの手に渡るのが我慢できない身勝手な独占欲が出てくることにトリイは一人溜息を吐いた。
傲慢で身勝手だと理解しながらトリイは後日、マリルを訪ねた。
自分を覚えてくれていると少しは期待していたのだが、マリルは全く記憶になく、それにトリイは少なからず気分を害した。女性の独り身で警護もなく一人暮らす状態にも無防備過ぎて腹が立った。
連れてくる口実は特に思い浮かばず、適当な理由でマリルはトリイの婚約者のふりをして王宮に来た。『王宮内で力をつけたい』など、ふざけた理由を本当に信用したのか、『シープネスの姫が追われている』ことを利用した脅迫が効いたのか、それとも別の理由があるのかトリイにはいまいち掴めなかった。それでも手の届く場所にいれば良かった。
本当はもう少しゆっくり攻めるつもりだったのだが、案外もたなかったとトリイは少しだけ反省している。
むくりとベッドから起き上がりトリイは深く長い溜息をついていた。
トリイの元にマリルがいないと連絡が来たのはマリルが出て行った日の夜だった。
午後から姿を見たものはおらず、部屋にマリルの荷物はなかった。それをトリイ自ら確認して、トリイは通常より深く眉間に皺を刻んだ。
出て行ったのだと誰の目にも明らかな行動だ。
マリルは既に国境を越えたかもしれない。国境を越えれば行方を探すのは困難になる。どこまで用意周到に準備したのかトリイにはわからない。
わかるのは漸く近くなった距離が手から零れるように遠く離れていることだ。
深々と溜息をついたトリイは突然大きな音を立てて扉を開けたアクリスを驚いて見つめた。
「お兄様、マリルは?いないってどういうことなの!?」
悲鳴のように声を荒げるアクリスにトリイは部屋を示した。
「見ての通りだろう。荷物は綺麗になくなっているし、争った形跡もない。自分で出て行ったと考えるのが妥当だろう」
淡々と説明するトリイをアクリスは睨み返す。
「妥当って、それでおしまい?探さないつもりなの?」
「自分で出て行ったんだ。探す必要なんてないだろう」
マリルがいなくなったのは、昨日の自分の行動が嫌だったからではないかとトリイは強く感じている。あの恐怖とおぞましいものを見る目を思い出してトリイは深く後悔した。多分マリルはここへ帰るつもりなどないし、トリイと顔を逢わせる気もない筈だ。トリイにしても受け入れられないまま、あのまま近くにいるのは辛い。マリルが逢わないつもりなら、そっとしておく方がお互いにいいのかもしれない。
「…お兄様、やっぱり変わってない。自分のことしか考えてない」
じろりとアクリスはトリイを睨む。いつもなら流せる筈のその態度が今は神経を逆撫でする。アクリスはトリイがマリルを押し倒したことは知らないのだし、自分勝手に見えることも理解できる。それでもトリイは昨日の出来事をアクリスに話す気はなかった。
「何も知らない人間が口を出すな」
苛つきを隠すことなくトリイもアクリスを冷ややかに見据えた。意外と気の強い妹は一瞬怯む様子を見せたものの、すぐに反論をする。
「何も知らないのはお兄様の方では?…マリルの気持ちを考えたら探しに行こうと思わないの?」
「考えたから行かないんだ。…子供が口を出すな」
「どうしてそう上から目線なの?そもそも、急にいなくなるなんておかしいでしょう?お兄様、何かしたんでしょう?」
責める口調でアクリスはトリイに詰め寄る。トリイはアクリスから顔を背けた。
「その態度、本当に何かしたのね?」
「うるさい」
「何したの?酷い態度と言葉で傷つけたの?いつ?どこで?なぜ?」
ぐいぐいと迫ってくるアクリスの頭を片手で掴み、トリイはその腕と手に力を込める。
「痛い!図星だからって暴力に訴えないで!」
トリイの手を叩いてそこから逃れ、アクリスは頭を押さえた。それからじろりと先程よりきつくトリイを睨む。
「意気地無し!どうして出て行ったのか、理由くらい聞こうと思わないの?」
「うるさい」
「お兄様がそういう態度ならいいわ。私だけでも探すから、邪魔しないでね!」
大声で喚き、アクリスはくるりと向きを変えた。来るときも急なら帰るときも急に足音を立てて早足に歩き去る。その背を怒りと共に見送り、トリイは部屋へと視線を戻す。部屋には書き置き一つ残っていない。まるで存在そのものを消したいと願っているように、部屋は元通りの姿をしている。それがマリルがいなくなったという現実を奇妙に薄めている気がトリイにはした。
溜息をついて目を伏せ、トリイはふと窓へと視線を向けた。
それは何かが動いた感覚があったからだ。
一瞬、窓の外に黒いものが横切った気がしていた。
トリイは足早に窓辺へ寄り、そこに何者かがいることに気付き、一瞬で警戒心を呼び起こす。
全身の感覚を研ぎ澄まし、何が起こっても対応できるように準備を整える。
トリイは窓へと更に一歩近付き、そのまま勢いよく窓を開ける。
その瞬間、トリイは体を捻る。トリイの体の直ぐ側に鋭利な刃物の光が見える。咄嗟に避けなければそのまま体を刺し貫いていたであろう刃物は、直ぐに向きを変えて第2刃を切った。それを避けてトリイはその刃を握る手を掴む。ぐっと力を入れれば相手もトリイの手を外そうとする。
逃げようとするその手は白く細い女のものだ。
力一杯に手を引き、トリイはその女を窓から部屋へと引き入れ、動きが取れないように壁際に押さえ込んだ。手を背中に捻り上げられ、顔を壁に向けている女は手を捻る力を強くするとぐっと息を飲んだ。

「なんだ、捕まったのか。シロ」

捕まえた女に意識を集中していたトリイは突然聞こえた別の声に顔だけを窓へと向けた。
そこには別の見知らぬ男がいる。押さえている女に向かって話す男はトリイへと視線を向けた。
「用事があったのはお姫サマの方だったんだけどなぁ。あんた、お姫サマがどこにいるか知ってるかい?」
「それはこちらが聞きたい。お前たちは何者だ?」
ぎりぎりと締め上げる腕への負荷を強くする。このまま締め上げ続けたらこの女の腕は折れるだろうが、トリイは得体の知れない人物に情けをかける気はない。
「ああ、そうカリカリすんなって。そのシロはこう見えて意外と有能なんだ。腕折られると仕事に支障が出るから止めてもらいたいなぁ」
どこまで本気で言っているのか掴めないが、その男はニタニタと笑ったままだ。
「まず自己紹介でもしようか。俺はクロ。それから、それはシロ。それであんたはトリイ王子だろ?」
クロと名乗る男は窓枠に腰を下ろす。シロと呼ばれているトリイに押さえられている女は無言でクロを睨んだ。
「そう睨むなよ、シロ。…お姫サマの居場所は王子サマも知らないようだし、お互い協力しようじゃないか」
とても良いことを思い付いたようにクロは両手をパチンと打ち鳴らす。その様子をトリイは無言で見つめた。
「王子サマだってこっちの情報は知りたいだろ?俺達だってこのままお姫サマがいなくなりました、とはいかないんだよ。危害も加えない。お姫サマの居場所さえ分かればいいんだ。王子サマからお姫サマを取り上げることもしない。…悪い話は一つもないだろ?」
クロは、にぃ、と口を大きく広げ、舐め回すように視線をトリイに絡み付ける。ベタベタとしたその視線にトリイはますます眉間に深く皺を刻んだ。
「信用ならない」
クロを一瞥しトリイはシロの腕への負荷を更に強める。痛みにシロが小さく強ばった。
「おいおい、腕折ってくれるなよ。こっちは敵対する気はないって言ってるのに」
ゆっくりとクロは窓枠から部屋へ入り込み、シロを掴むトリイの腕を掴んだ。その手にぎり、と力が加わる。
「お互い穏便にいこうぜ、なぁ?」
顔に笑みを貼り付かせてはいるが、その目は笑ってはいない。じっと睨み合い、トリイはシロから手を離した。
「お、やっと理解したかい。良かった良かった」
ぱっとトリイから手を離したクロは手近にあった椅子を引き寄せる。そこへどっかりと腰を下ろた。
「お姫サマの居所を見つけるまで、仲良くしようじゃないの」
にんまりとクロは笑った。