明日の授業で使用する画材を用意している時、美術準備室のドアが控えめにノックされた。そのノックに返事をすると、そろそろとスライドドアが開かれる。
そこに立っていたのは、薄茶色のダッフルコートを着て赤色のマフラーを巻いた、見知らぬ女の子だった。緊張しているのかオドオドとしていて、中々視線を合わせてくれない。そんな彼女に、私はにこりと微笑んであげた。
「もしかして、四月からうちに入学する新入生?」
私の質問に、女の子は控えめに頷く。それから小さな口が、ゆっくりと開いた。
「えっと……春から、美術部に入ろうと思ってるんです……」
「美術部に? それは嬉しいわ!」
入学前に挨拶に来てくれた子は、彼女が初めてだ。私は散らかっている画材を避けながら彼女の元へ行き、小さな手を握る。手袋をしていないその手は冷たかった。
「歓迎するわ。あなた、お名前は?」
「桜井由紀です……」
「由紀ちゃんっていうのね!」
私は嬉しくなって、彼女の手を上下に振る。子供っぽかっただろうかと、少しだけ恥ずかしくなった。
「あ、あの……」
「どうしたの?」
由紀ちゃんは視線を伏せて、声を震わせながら呟く。
「私、美術科じゃないんです……入試、落ちちゃって……」
彼女が今にも泣き出してしまいそうだったから、私は握っていた冷たい手を優しく包み込んであげた。
「美術科じゃないからって、美術部に入れないわけじゃないよ。歓迎してあげる」
そう伝えてあげると、彼女は泣き出してしまった。私は思わず慌ててしまい、頭を撫でてあげる。
「ここじゃ寒いから、部屋に入ろっか。ストーブも焚いてるし、あったかいよ」
由紀ちゃんは最初こそ遠慮したが、私が強引にその手を引くと、後はなすがままだった。椅子を用意してあげて座らせてあげると、彼女は真っ先に手のひらをストーブに近付ける。きっと、とても寒かったんだろう。
私も明日の授業の準備をやめて、由紀ちゃんの隣で暖を取った。
「美術科に落ちちゃったのに、どうしてうちに入ろうと思ったの?」
そう訊ねると、彼女はほんのり顔を赤くして答えた。
「制服が、可愛いなと思ったんです……」
「たしかに、可愛いよね」
「変、ですか?」
「変じゃないと思うよ。そういう理由で入学してくる人、たくさんいるらしいから」
由紀ちゃんは安堵の息を漏らして、初めて笑顔を浮かべてくれた。けれど彼女は、また頬を赤らめる。
「あの、もう一つ変なこと言っていいですか……?」
「うん、いいよ」
「私、漫画家になりたいんです」
「えっ、漫画家?!」
私は思わず驚きの声を上げてしまう。失礼だったかもしれないと、少しだけ反省した。
「やっぱり、変ですよね……」
「ううん、全然変じゃないと思う! 先生、由紀ちゃんが漫画家になれるの応援する!」
由紀ちゃんはまた顔を赤くして、今度は俯いてしまった。とても、恥ずかしがり屋の女の子なんだろう。
「ということは先生、由紀ちゃんが漫画家になるためのお手伝いができるんだ。デビューしたら、すぐにサインもらわなきゃ」
「で、デビューだなんてそんな……まだ全然考えられないです……」
「目標はでっかく持たなきゃだよ」
私がにこりと微笑んであげると、由紀ちゃんもくすりと微笑んでくれた。
「どんな漫画を描いてるのかな?」
「えっと、少女漫画です……」
「いいねいいね、青春だね」
「でも私、恋愛とかしたことなくて……」
「こんな恋愛がしたいっていう理想を描いちゃいなよ。小説も漫画もフィクションなんだから」
「理想、ですか。先生は、彼氏さんとかいるんですか?」
純粋な目でそう訊ねられて、私は思わず顔が熱くなった。これは下手なことを喋ると、漫画のネタにされてしまうやつだ。
「せ、先生かぁ……それがさ、いないんだよね」
「えっ、いないんですか?」
「うん。いないよ」
「先生、すごく美人なのに……」
そんな言葉をぽつりと彼女は漏らし、私はまた顔が焼けたように熱くなる。それをごまかすために、由紀ちゃんの頭を撫でてあげた。
「告白とか、されないんですか?」
「うーん。ここだけの話だけど、何回かされたことはあるかな」
「いい人がいなかったんですか?」
「ううん。みんな、いい人だったよ」
じゃあどうして? というように、由紀ちゃんは首をかしげる。私はなんだか気恥ずかしくなって、頬を人差し指でかいた。
「今でも忘れられない、男の人がいるの」
「男の人?」
私がうなずくと、興味があるのか椅子をこちらへ寄せてくる。
「その人とは、どんな関係だったんですか?」
「聞きたい?」
「差し支えなければ」
くすりと微笑んでから、私は人差し指を口元に添えて「由紀ちゃんと私の、二人だけの秘密だよ」と言った。彼女がこくりとうなずいたのを見て、私は話し始める。
彼、滝本悠と、私の、終わってしまった物語を。
白い壁が歩道の真ん中をひた走っていた。その姿を、車の運転席からチラと見つめる。僕がその壁を追い抜くと、ちょうど目の前の信号機が青から黄色に変わり、ブレーキペダルを踏んだ。程なくして、黄色い点滅が赤に変わる。
僕のすぐ横を、白い壁が走って行く。その光景にしばしの間目を奪われる。しかしそれはよく見ると、白い布に覆われた大きなキャンバスだった。視線を地面の方へ向けてみると、キャンバスの下から綺麗な白い足が生えている。
その白い足はつまずきそうになりながらも、必死に地面を蹴り続けていた。キャンバスは木で出来ているから、落としたり転んでしまえば無傷では済まない。だけどそんなことに気を使っている暇も余裕もないのか、キャンバスの主は一心不乱に走り続けていた。
やがて赤信号が青信号に変わり、周りの車がゆったりと進み始める。僕もアクセルペダルを踏んで、波に乗る。
もう一度だけ、チラと大きなキャンバスを見たけれど、すぐに視線を外した。僕にも僕の用事がある。きっとこんなところで人助けをしていたら、大学の一コマ目に遅れてしまう。小心者の僕は、なるべく講義をサボるということをしたくはなかった。
だけど、もう一度キャンバスの横を通り過ぎてからしばらくして、僕はどうしてか、ほぼ無意識的に道を引き返していた。こんなことをしていれば、講義に遅刻をするというのに。そうだというのに、僕は再び大きなキャンバスを認めると、そのやや前方でプレーキペダルを踏んで助手席側の窓を開けた。こちら側の視界が塞がっているキャンバスの主に聞こえるよう、息を吸ってから大きな声を出す。
「急いでるんですか?」
ピタリと、その足の動きは止まった。それから僕のことを確認するように、キャンバスは方向を転換していく。ゆっくり、ゆっくりと向こう側の景色が見えてくる。
果たしてそのキャンバスを持って走っていたのは、髪の長い同年代ぐらいの女性だった。顔は涙でくしゃくしゃになっていて、キャンバスを持っているから拭くことも出来ないのか、鼻からは透明な汁が垂れている。
僕はそんな彼女の表情に驚いて、思わず再び車を発進させようとしてしまう。だけど良心がその行動に自制を効かせてくれて、変わりにハザードランプを点滅させた。
彼女は声をヒクつかせながら、必死に状況を説明してくれる。
「え、えっと……合評会が、あ、あって……九時までに作品を提出しなきゃいけないんですけどっ……!」
僕は腕時計で時間を確認する。現在の時刻は八時四十分。彼女がそんなに焦っているということは、時間ギリギリか、もしくは間に合わないのだろう。今も僕と話している時間すら惜しいのか、白色のスニーカーを地面にトントン叩いて小さく地団駄を踏んでいる。
僕の講義の開催時間は、九時ジャスト。こんなところで油を売っていたら、間に合うものも間に合わなくなる。
だけど、焦りすぎて化粧も忘れた彼女のことを不憫に思って、同情にも似た気持ちを抱きながら僕は車の外へと出た。
「目的地まで乗せてあげますので、その大きな荷物を後ろに乗せるの手伝ってください」
数秒間、僕の言っていることが理解出来なかったのか、泣き顔のまま固まる彼女。しかしやがて納得がいったのか、驚きの声と共に表情にも光が射した。
「ほ、本当ですか?!」
僕は頷くだけ頷いて、後部座席のドアを開ける。それからキャンバスを持つのを手伝い、なんとか車内に押し込む。僕の乗っている車が普通車ではなく軽自動車の類だったら、おそらくこのキャンバスは収まり切らなかっただろう。彼女とキャンバスを目的地まで運べることがわかり、僕はひとまず安堵した。
「助手席に乗ってください。すぐに発進させるので」
僕の言葉に、彼女は頷く。そして泣き顔のまま数秒見つめられ、恥ずかしくなって視線をそらした。それから聞こえてきたのは、「ありがとうございます」という感謝の言葉。
一度は通り過ぎた身だから、素直にその言葉を受け取ることは出来ないなと思った。
彼女を助手席に乗せて、ナビをしてもらいながら車を走らせる。そういえば、この車に女性を乗せたのは初めてだなと、そんなことをぼんやりと考えていた。
「そこに箱ティッシュあるので、遠慮しないで使ってください」
「あ、すみません……次の信号左です」
ナビをしながら、隣の彼女は大きく鼻をかむ。ズズッという音が、車内に大きく響き渡る。恥ずかしかったのか気を使ったのか、二回目からは比較的小さな音を立てていた。
「あの、申し訳ございません。見ず知らずの方を、足にしちゃって……」
「別にいいですよ。急いでたんですよね?」
「はい……」
だんだんと彼女の声はしぼんでいく。僕はなんだか申し訳ない気持ちになって、運転に集中しながら話を振ってみることにした。
「今向かってるところって、やっぱり美大なんですか?」
「はい……」
「確か、ここら辺にある美大って国立ですよね。そんなところに通ってるなんて、すごいです」
自分の通っていた高校に美術科があったから、美大へ入ることの困難さはぼんやりと知っている。
「合評会っていうのは、定期テストみたいなものなんですか?」
「はい。期限までに作品を提出して、学生や教授に批評してもらうんです。その提出期限が、今日の九時でして……」
僕は車内のアナログ時計を確認する。時刻は八時四十五分で、真っ直ぐ僕の通っている大学へ向かったとしても、もう講義には間に合わない。
「合評会には間に合いそうですか?」
「あなたのおかげで、ギリギリ間に合いそうです。本当に、ありがとうございますっ!」
ギリギリということは、やっぱりあのまま走っていても間に合わなかったのだろう。
「僕は絵を描いてないですけど、なんとなく大変なんだなって分かります。テストみたいに明確な答えがなくて、完成は自分のさじ加減で決まりますから。ギリギリまで粘ってたってことは、たぶんいい評価を貰えますよ」
そんな風に彼女のことを励ましてみる。しかし彼女は落ち込んだままで、安心したような表情を浮かべない。よっぽど合評会というものに緊張しているのか、表情が張り詰めていた。締め切り当日まで作品作りを頑張っていたのだから、彼女の努力は報われてほしい。
そういうことを考えながら車を走らせていると、やがて目の前に大きな白色の校舎が見えてきた。時計を確認するとまだ時間に余裕があり、僕はまた、ホッと安堵の息を漏らす。彼女も僕と同じように、安心したように胸を撫で下ろしていた。
校門の前に車を停めて、後部座席に載せていたキャンバスを取り出す。彼女は背面の木枠を器用に持って、それを受け取る。先ほどまで走っていたとはいえ、大きなキャンバスを持っていくのは危なっかしく思えた。
「昇降口までですけど、持つの手伝いますよ」
彼女からの返答が来る前に、キャンバスを両手で掴む。二人で持った方が、落としてしまう心配はない。
「あの、そこまでしてもらうのはさすがに申し訳ないです……それに、用事があるんじゃないですか?」
「別に構いませんよ。乗りかかった船ですから」
そんな押し問答をしている余裕もないはずだから、僕は足を動かし始める。彼女もつられて、足を動かす。
ふと、彼女は歩きながら僕に質問をしてきた。
「お名前、なんていうんですか?」
「滝本(たきもと)悠(ゆう)です。あなたは?」
「多岐川(たきがわ)梓(あずさ)です」
多岐川さんの頬が、少しだけ緩んだのがわかった。僕も、同じ『たき』というフレーズに親近感を覚えて、少しだけ緩む。
「滝本さんは、大学生ですか?」
「大学生です」
「ちなみに、どちらへ?」
僕はここから北の、山の方に建てられている大学の名前を答えた。そうすると多岐川さんは一度立ち止まり、目を見開く。
「すごい! 国立じゃないですか!」
「いや、美大の国立に受かる方が難しいと思いますよ」
僕はそう言って苦笑する。おそらく美大と僕の通っている大学じゃ、倍率は比べ物にならないだろう。
「何回生ですか?」
と、再び歩き始めた多岐川さんは質問する。
「二回生です」
「あっ、私も二回生なんです」
「多岐川さんもなんだ」
思わず敬語が取れてしまったけれど、彼女は特に気にしたそぶりを見せなかった。
しばらく歩くと昇降口の前へ到着して、僕はキャンバスから手を離す。多岐川さんは、また器用に裏枠を持った。
学生たちが、立ち止まっている僕らを次々と追い越していく。講義が始まるから急いでいるのだろう。多岐川さんも急がなければいけないが、どうしても僕は一度だけ彼女を引き止めたかった。
「ごめん、時間がないのは分かってるんだけどさ。一目でいいから、多岐川さんの描いた絵を見せてくれないかな。興味があるんだ」
美術の知識なんて全くないけれど、ここで知り合ったのも何かの縁だ。夢を追いかけている彼女がどんな絵を描いているのか、純粋な興味を持った。
多岐川さんは迷惑そうなそぶりを見せることなく、笑顔で「構いませんよ」と頷いてくれる。真っ白い布を丁寧に脱がし、その中にある絵画を見せてくれた。
そして現れた桜の木に、僕はしばしの間言葉を失う。油画、というのだろう。太い大きな木にいくつも枝が伸びていて、ピンク色の桜が満開に色づいている。まるで、そこに本当に桜の木が存在しているように、僕は錯覚した。もう五月だから、桜なんて咲いていないというのに。
同い年の女性が、こんなにも素晴らしい絵を描くことが出来るのかと、間近で見た僕は感動を覚える。知らず知らずのうちに「すごい……」と、素直な感想が口から漏れていた。
多岐川さんは恥ずかしそうに頬を指先でかいて、再びキャンバスに布をかける。
「そんなにですよ。これでも、合評会では教授陣に厳しい言葉をもらいますから。それに、私は……」
「梓さん!」
何かを言いかけた多岐川さんの言葉は、昇降口の方から聞こえて来た別の女性の声により阻害される。僕はその声にびくりとして、慌てて多岐川さんから一歩離れる。
あぁ、そうか……そうだった……。
そう考えている間にも、多岐川さんの名前を呼んだ女性はこちらへ近付いてくる。僕は逃げるように、彼女へ別れの言葉を口にした。
「それじゃあ、友達も来たみたいだし。僕も講義があるから、これで」
「あっ……」
なにか言いかけたみたいだったが、それを聞いていたら多岐川さんの友人と鉢合わせてしまう。だから僕は、半ば無視をするように踵を返して車に乗り込んだ。
最後にチラと、昇降口の方を見る。しかし、そこにはもう彼女の姿はなかった。
時刻は八時五十八分。作品の提出締め切りに間に合ってほしいなと、もう会うことのないであろう彼女のことを思う。
車を走らせて、開始時間に間に合わない一コマ目の講義へと向かう。信号に捕まって、無慈悲にもアナログの時計が九時を示す。
大学生になって、初めての遅刻。だけど後悔はなかった。多岐川さんを送り届けるという目的は、達成することが出来たから。
未だ車内に残る彼女の残り香。それが鼻を通り抜けていくたびに、胸が大きく鼓動する。その鼓動を感じながら、僕は大学への山道を登り続けた。
多岐川さんを美大へ送り届けた翌日。お金を節約している僕は、大学の学食で比較的値段の安い蕎麦をすすっていた。昼時のため周りに学生の姿は多いが、僕と同じように一人でスマホを触りながら昼食を取っている人もいるため、一人でいることを気になりはしない。
とはいえ僕は、食べながらスマホを触るという行儀の悪いことをせずに、ただ昨日の出来事を思い返していた。多岐川梓さんのことだ。
慌てていたようで化粧はしていなかったが、それでも彼女は綺麗な人だった。別に、一目見て恋に落ちたというわけではない。多岐川さんの素晴らしい絵を運ぶことが出来できたのを、僕は純粋に嬉しく思っただけだ。再び会ってお礼をしてほしいなんて図々しいことは、決して思わない。
ただ、もしまた会うことがあるならば、もっと多岐川さんの描く絵を見てみたいと思った。
昨日の興奮が冷めやむことはなく、あれから講義に集中出来ていない。こんなモヤモヤした気持ちを抱いたのは高校生の頃以来で、自分で制御するすべを身につけていなかった。
そういうことを考えながら、一人で黙々と昼食を取っていると、ふと背後に気配を感じた。
「あの、先輩少しいいですか?」
懐かしい声。この大学に、僕のことを先輩と呼ぶ女の子なんて一人もいない。だからすぐに彼女の存在が誰なのか理解できて、急に背中に冷や汗が伝った。
「え、先輩って?」
今度は別の女性の声。その声は、多岐川梓さんだった。多岐川さんは今の今まで、僕と彼女の接点を知らなかったようだ。
僕は、恐る恐る後ろを振り返る。そこには、昨日美大まで車で送った多岐川さんと、僕の高校時代の後輩である水無月奏が立っていた。
多岐川さんは昨日とは違い化粧を施しているから、より一層僕の目に綺麗に映る。隣にいる水無月も、多岐川さんと比べてだいぶ身長は低いが、負けず劣らずの容姿を持っている。目鼻立ちがはっきりとしていて、けれど可愛さも持ち合わせている彼女は、昔からいろんな人に好かれていた。
多岐川さんは一度「ごめんなさい。お食事中にお邪魔してしまって……」と、申し訳なさそうに謝る。僕は「気にしないでください」と、無理矢理な愛想笑いを浮かべた。
そんな話をしている間、水無月はずっと僕のことを凝視している。僕はその視線に気付いていたから、意図的に彼女とは目を合わせようとしなかった。
「先輩、お久しぶりです。隣、座っていいですか?」
「あ、うん……」
そう返事をするしかないため、僕は目を合わせずに頷く。失礼だと思ったけれど仕方がない。水無月は隣に座ると言ったのに、僕と一席分間を空けて座った。
多岐川さんは一瞬首を傾げたけれど、すぐに僕と水無月の間に腰を下ろす。
先に口を開いたのは、やっぱり多岐川さんだった。
「あの、突然ここに来たことをもう一度謝りたいんですけど、その前に一つだけ教えてください。奏ちゃんと滝本さんって、もしかしなくても知り合いなんですか?」
「はい、高校の頃の生徒会の先輩です。滝本先輩が会計で、私が書記をやってました」
聞かれた僕じゃなく、水無月が質問に答える。多岐川さんは、パッと笑顔になった。
「え、すごい巡り合わせですね! 助けていただいた方が、奏ちゃんの先輩だったなんて!」
もしかして仕組んだんじゃないかと一瞬考えたけれど、そんなことがあるわけない。昨日の多岐川さんは、締め切りに間に合わせるために本当に必死に走っていた。
「本当に、すごい偶然ですね。実を言うと、また先輩に会いたかったんです」
そう言って水無月はニコリと笑う。本当にそう思っているのだろうかと、僕は彼女のことを疑ってしまった。
「あの、昨日は本当にありがとうございます。見ず知らずの私を大学まで送ってくださって」
「いや、気にしなくていいよ。それより、時間通りに提出できたの?」
「はい。おかげさまで! 教授陣からの評判は辛めでしたが……」
多岐川さんは苦い表情を浮かべながら、ぎこちなく笑う。あんなに素晴らしい絵がまずまずの評価だなんて、芸術の世界は僕が想像しているよりもずっと厳しいのかもしれない。
それからチラと水無月の方を見ると、何故か彼女は僕を見て首を傾げていた。目が合ってしまい、慌ててそらしてしまう。
「ま、間に合ったならよかったよ」
「滝本さんのおかげです。それでですね、何かお礼がしたくて今日はここに来たんですけど……」
あぁ、そういうことかと、僕はようやく彼女がここへやって来た理由を知る。恩を着せるためにやったことじゃないから、何も気にしなくていいのに。
「お礼なんて、別にいいよ。少し遠回りをしたけど、ここに来る通り道に美大があったから。ほんと、気にしなくていいよ」
「そう、ですか?」
うかがうように多岐川さんが僕を見て来る。気にしなくていいよと、頷いた。けれど思わぬ方向から、予想もしていなかった横槍がやってきた。
「私、ここに来るとき、事前に大学の授業時間調べたんですけど」
呆れたように目を細めながら、水無月はこちらを見ていた。僕の口から「あ、」と間抜けな声が漏れる。言わなくてもいい余計なことを、曲がった事が嫌いな後輩は言ってしまった。
「昨日の講義、すごい遅刻したんじゃないですか? 梓さんのこと、美大まで送ったからですよね?」
「えっ!?」
多岐川さんが驚いたように目を丸める。それからすぐに、申し訳なさそうな表情を浮かべてしまった。こういう顔を見たくなかったから、わざわざ嘘をついたというのに。
「あの、すみません……私のせいで……」
「いや、ほんと僕が勝手にやったことだし。お礼とか、いいから」
「そういうわけにはいきません! 締め切りが遅れてたら、最悪単位が落ちてたんですから!」
突然ムキになった彼女に、僕は肩をびくりと震わせる。この人も、水無月と同じように曲がった事が嫌いな人なんだろう。だとしたら、このままだと話は平行線を辿ってしまう。
なんとかしてこの場は帰ってもらおうと思い立ち、腕時計で時間を確認する。幸いなことに、そろそろ三コマ目が始まる時間だった。
「ごめん、もうそろそろ講義始まるから……この話はまた今度ってことで……」
「奏ちゃん、美大に戻るためのバス時間っていつだったっけ」
多岐川さんは唐突にそんなことを、水無月へ訊ねた。彼女たちはわざわざバスに乗ってこんな山の上まで来たのかと、僕は若干呆れてしまう。
水無月はスマホを開き、おそらくバスの時刻表を調べているのだろう。続く言葉を、なんとなく僕は予想出来ていた。
「もう過ぎてます。三コマ目は出れません」
こんな山の中じゃ、そう都合よく何本もバスは出ていない。
「じゃあ三コマ目が終わるまで、私待ちます。終わってから、また話し合いましょう」
「いやいやいや、帰りなよ。三コマ目やってる時に下に降りるバスあるから。それに乗らなかったら四コマ目も出られなくなるよ」
「それなら四コマ目も出ません。とにかく、今日は滝本さんが折れてくれるまで山を降りませんから」
僕は本当に呆れてしまい、言葉も出なくなる。そんな様子を見て、水無月は小さくクスクスと笑っていた。いいのだろうか。このままじゃ、彼女も三コマ目に出られなくなるのに。というより、もうバスに乗れないから三コマ目は欠席するしかないけれど。
僕のせいではないが、なんとなく二人に申し訳ない気持ちになった。一つため息をついて、僕は降参の意を示す。
「……わかったよ。何かお礼は考えるから、せめて四コマ目は出てね。僕は三コマ目以降講義ないから、終わったらすぐに美大に送ってくよ」
「わかりました!」
ようやく多岐川さんが納得してくれて、僕は安堵する。
「講義終わるまで、図書館で暇つぶしててよ。終わったらすぐに迎えに行くから」
「いえ、大丈夫です。私たちも滝本さんと講義を受けますので!」
「あっ、いいですねそれ。他大学の講義、一度受けてみたかったんですよ」
了承もしていないのに二人は乗り気になっていて、僕はまた心の中で頭を抱える。二人は自由すぎて、先程から振り回されっぱなしだった。
もう彼女たちをどうにか出来るとは思えないから、冷めてしまった蕎麦を黙ってすすり始める。彼女たちはたわいもない談笑をしながら、食べ終わるまで待ってくれていた。
振り回されっぱなしだが、嬉しそうにしている二人を見ていると、彼女たちを憎むことは出来なかった。
三人で講義を受けた後、すぐに校舎を出て車に乗り込み美大へと向かった。二人は後部座席に乗ってもらい、安全運転を心がけながら山道を下っていく。
辺りに娯楽施設が見え始めるところまで降りてきたとき、多岐川さんは期待を膨らませた声を後ろから投げてきた。
「お礼の内容、決まりましたか?」
僕は苦笑して「いや、まだだよ」と答える。この期に及んで逃げ出せるとは思っていないから、先程から真面目に考えていた。しかし特にやってもらいたいこともないため、中々彼女が望むような答えは思いつかない。
「何か、美味しいものをご馳走してもらうのはどうでしょう?」
「あ、それいいね奏ちゃん」
「いや、女性の方に奢らせるのはさすがに……」
お店で多岐川さんが財布を出している姿を想像して、ないなと思った。店員や他の客にヒモかと思われそうだ。
お金を節約しているとはいえ、それだけはやらせたくない。そこまで考えて、僕は今、お金関係で切迫していることを思い出した。
「バイト先のコンビニが最近潰れてさ」
「飲食店になったところですか?」
「そうそう。それで、今働く場所探してるんだよ。なんか、いいとこない?」
そう質問してルームミラーへ視線を向けると、多岐川さんはこれでもかというぐらい目をキラキラとさせて、突然後ろから僕の肩を掴んできた。びっくりした後に目の前の信号が点滅していることに気付き、慌てて急ブレーキを踏んだ。
「ご、ごめん危ない運転で……でも危ないから、普通に座ってて……」
「バイト先、紹介してあげます!」
興奮気味に、彼女はその提案をしてくる。半分駄目元で言ったから、僕は内心驚いていた。
「えっ、ほんと?」
「ほんとです! 今ちょうど私のバイト先で募集してるので! それに、時給もそれなりにいいですよ! ちなみに、スーパーのレジ業務です!」
スーパーのレジ業務なら、コンビニでレジを経験していたから、即戦力になれそうだ。紹介してくれた多岐川さんに、迷惑をかけることもないだろう。迷う必要は、何もなかった。
「じゃあ、お願いしていい? すぐに履歴書用意するし、面接とかっていつ頃出来るかな」
「少し待っててください。今、店長に電話します」
そう言うと、彼女はカバンの中からスマホを取り出して、自分のアルバイト先へ電話をかけ始めた。トントン拍子に話が進み若干の不安を覚えるが、金銭面で切迫していたから多岐川さんの好意に甘えるしかない。
程なくして通話は終わり、いつでも履歴書を持ってきていいことと、持ってきたその日に軽い面接を行うことを教えてもらった。
あの場限りの出会いかと思っていたのに、もしかすると多岐川さんとは長い付き合いになるのかもしれない。信号が青に変わったのを見て運転を再開しながら、僕はお礼を言った。
「ほんと、ありがと。助かるよ」
「いえいえ。滝本さんのおかげで、私も助かりましたから」
ルームミラー越しに彼女の笑みを見て、僕はすぐに運転に集中した。しばらく車を走らせると、昨日も向かった美大の校舎が見えてくる。校門の前に車を停めると、多岐川さんがこちらへ腕を伸ばしてきた。その手には、スマホが握られている。
「連絡先、教えてください」
「あ、うん」
僕は言われた通り、電話番号とメールアドレスを交換した。久しぶりに、僕のスマホに女性の連絡先が追加された気がする。
「先輩、よかったですね」
今まで黙っていた水無月がそう言って微笑む。それがバイト先が見つかったことに対してなのか、それとも多岐川さんと連絡先を交換したことについてなのかは分からない。しかしそれが後者なら、水無月は勘違いをしている。僕は別に、出会ったばかりの多岐川さんに、特別な思いは抱いていないのだから。
それから二人は車を降りて、僕に頭を下げた。
「今日は本当にありがとうございます。それと、申し訳ございませんでした。突然大学へ押しかけちゃって」
「ううん、気にしないで。おかげ様でバイト先も見つかりそうだし」
「そう? それなら、お邪魔してよかったんですかね」
「私も、関係ないのについてきちゃってすみません」
「水無月は、久しぶりに会えて嬉しかったよ」
「ありがとうございます、先輩」
水無月がお礼を言った後、二人はもう一度頭を下げて昇降口の方へと走って行った。その背中を見つめながら、僕はいつのまにか、昔の出来事を思い返していた。
二人と再会したその日の夜、一人暮らしをしているアパートで勉強をしていると、僕のスマホに一件の着信が来た。画面に表示される発信者の名前を見て、僕の心臓は大きく跳ねる。
落ち着くために深呼吸をしてから、応答のボタンを指でタップした。耳に当てると、彼女の声が僕の頭の中へ響いてくる。
『夜分遅くにすみません。水無月です』
高校の頃の後輩、水無月だった。お互いに生徒会に所属していたから、当然のごとく連絡先は知っていた。とはいえあの出来事があってから、彼女と連絡を取り合ったことは一度もなかったけれど。卒業した後も、それは変わらなかった。
「……うん、どうしたの?」
要件を聞くと、しばらくの沈黙があった。その空気に耐えられなくなった僕は口を開きかけるけれど、彼女が再び話し始めるのが一瞬だけ早い。
『今日、また会えて嬉しかったです』
相手の姿が見えない声だけのやり取りでは、水無月が本心からそう思っているのか、僕には判断が出来なかった。
『あれから、先輩が卒業してから、何度か連絡を取ろうとしたんです。でも最後の最後で、先輩の電話番号を押すことが出来ませんでした』
「……ごめん」
何の脈絡もなく、僕は彼女に謝る。あれからずっと、彼女に伝えたかった言葉。卒業するまで、一度も伝えることが出来なかった言葉。
またしばらくの沈黙があった。その時間は永遠のようにも感じられて、僕の胸は張り裂けてしまいそうなほど大きく鼓動している。
『……遥香、今は元気にやってますよ。私たちの地元の、国立大学に通ってます』
懐かしい女の子の名前。僕が、傷つけてしまった人の名前だった。
「そっか……それなら、よかったよ」
『先輩は、元気でしたか?』
「うん。まあ、それなりに」
大学でも何人かの友人に恵まれて、今のところ単位は一つも落としていない。バイト先が潰れてどうしようか迷っていたけれど、それも今日解決した。
「多岐川さんとは、仲良いの?」
『同じ油画の専攻で、新歓で一人でいる時に話しかけてくれたんです』
「優しい人なんだね」
『はい、とても』
多岐川さんのことを褒めたのに、水無月の声には喜びの気持ちがこもっていた。昔から、そうだった。彼女は友達の成功を自分のことのように喜んで、相手の悲しみを自分のことのように悲しむ人だった。
『私、最初は助けられてばかりですね』
「どうして?」
『高校の頃も、生徒会に入った時に一人でいましたから。先輩が、話しかけてくれたんですよ。覚えてますか?』
そういえばと、懐かしい記憶を思い出す。なるべく思い返さないようにしていたから、すっかり忘れてしまっていた。
「うん、覚えてる。懐かしいな」
『懐かしいです』
二人で、あの頃に想いを馳せる。県外の大学へ進学するにあたって、高校までの人間関係はほぼリセットされてしまったから、こんな風に昔の出来事を話すのは久しぶりのことだった。
「あの、さ」
『なんですか?』
なんの気ない質問をするつもりだったけれど、急に緊張を覚えて声が詰まってしまう。僕が先輩で、水無月が後輩だった頃も、何か聞こうとしたときはこんな風に緊張をして、彼女に首をかしげられていた。きっと今の彼女も、電話の向こうで首をかしげているのだろう。
「水無月はさ、元気だった?」
『はい』
「美大目指してたなんて、全然知らなかった。地元の大学に進学するのかと思ってたから」
水無月は、僕とは違う美術科だった。でも志望校を聞けば、地元の偏差値の高い普通の大学で、美大へ行きたいと聞いたことは一度もなかった。だから昨日美大で会ったときは、本当に驚いた。
『美術科ですから。美大を目指すのは当然ですよ』
「美大の受験、頑張ったんだね」
『はい、とても頑張りました』
「夢とか、あるの?」
『高校生の頃から、美術の先生になりたいと考えてるんです』
水無月が学生の前で美術を教えている姿を想像して、たしかに似合っているなと思った。それに彼女は僕の高校最後の年の後半に、生徒会長として全生徒をまとめ上げていたから。
それからも、僕らはとりとめのない話を続ける。手探りで、聞いちゃいけない話題を避けながら。それでも僕は、彼女と話を出来るのが嬉しかった。
きっと多岐川さんがいれば、もっと普通に話をすることができたのだろう。二人きりになれば、僕がこうなることは分かっていた。それでも水無月は僕に電話をかけてきてくれた。今はその事実だけでよかった。
「明日、大丈夫?」
『何がですか?』
「講義。随分話し込んじゃったから」
いつのまにか日付をまたいでしまっていた。部屋にかけられている時計を見て、僕はようやく現在の時刻を知る。
『……そうですね。もうそろそろ寝なきゃですよね。先輩も、履歴書書かなきゃいけませんし。こんな遅くまで、すみません』
「僕のことは気にしないで。それに履歴書は、もう書いたから」
『そうですか?』
再び沈黙が降りて僕は気まずくなり、それじゃあと言って電話を切ろうとする。しかしまた僕が話すより先に、水無月は小さく呟いた。
『先輩は、今でも……』
しかしその言葉は最後まで声にならず、結局中途半端に途切れてしまった。僕が「どうしたの?」と訊き返すと、慌てたように『な、なんでもないです』と言う。
何か伝えたいことがあったんだろうけれど、僕は深く聞かないことにした。適度な距離感というものがあるし、これ以上長電話してしまえば、明日の水無月にも支障が出てしまう。
「そう? それじゃあ、切るね」
『はい。夜分遅くに、すみませんでした』
最後にそう言って、水無月は通話を切った。僕は止まった時間が動き出したかのような感覚にとらわれて、慌てて深く息を吸い込む。それからベッドに勢いよく倒れこんだ。
久しぶりに、水無月と二人だけで話した。もうそんなこと、一生起きないかと思っていた。でも、また話すことができた。
そして僕は、深く理解する。まだ、水無月のことが好きなのだと。この胸の高ぶりは、今も昔も抑えることなんて出来なかった。
水無月奏は僕の高校時代の後輩だった。二年の時に入った生徒会で初めて彼女と出会い、一人でいるところを僕が話しかけた。普段から女の子と積極的に話すような奴じゃないけれど、その時は彼女のことが純粋に心配だったのだろう。それから僕らは、校内ですれ違えば会話をする程の間柄になった。
一人でいるところを見て、初めは内気な人なんだなと思っていた。だけど関わりを深めるに連れて、彼女の印象はグッと変わっていった。水無月はよく笑い、よく泣く女の子だった。友達が喜んでいると自分のことのように喜び、悲しんでいると、自分のことのように悲しむ。そんな女の子だった。
僕がそんな彼女に惹かれて行くのは、至極当然のことだった。一緒に体育祭の運営や学園祭の運営をして、水無月との仲は更に深まっていった。これが好きだという気持ちに気付いたのは、二年生を半年ほど過ぎた時期だった。
牧野遥香知り合ったのは、水無月に恋心を自覚するようになった頃。牧野は本当に内気な女の子で、水無月がそばにいなければ、僕とまともに話をすることができなかった。けれど水無月は彼女を連れて生徒会室へ来て、他の生徒会メンバーと一緒に、トランプやUNOなどのゲームを楽しんでいた。仲のいい友達ができればと気を使ったのだろう。
水無月の思惑通り、僕は牧野ともそれなりに親しくなった。水無月といる時は、だいたい牧野も隣にいる。僕らは三人でいることが多くなった。
そして季節が秋に移り変わった頃、牧野と水無月の会話から、水無月の誕生日が十一月五日だということを偶然知った。告白をする勇気はまだなかったけれど、プレゼントぐらいはあげてもいいんじゃないかと思い、何も言わずにこっそりと用意した。
やがて冬がやって来た時に、体を冷やさないようにするためにと、赤色のマフラーを包装紙に包んだ。初めてのラッピングでなかなか上手く行かなかったけれど、十回ほど四苦八苦した頃にようやく納得のいくものができて、僕は満足した。
そしてやってきた水無月の誕生日に、マフラーをサプライズでプレゼントした。その日は平日で、生徒会室で二人になったタイミングを見計らって渡した。彼女はこれ以上ないほど喜んでくれて、最後には泣いてくれた。重すぎて引かれるかと思ったけれど、彼女はやっぱりとても純粋な人だった。
それからわずか数日後のことだ。
僕は生徒会室で、牧野遥香に告白された。
翌日、書き上げた履歴書を持って、多岐川さんの働いているスーパーマーケットへ赴いた。彼女は店の自動ドアの前で待ってくれていて、僕を見つけると屈託のない笑みを浮かべて近寄ってくる。
「滝本さん、こんにちは!」
「こんにちは」
多岐川さんはこれからバイトなのだろうか。下はジーンズに上は半袖のTシャツという、比較的ラフな格好をしていた。
あまりまじまじと服装を見つめるのもよくないと思い、視線を上げて彼女のことを見る。多岐川さんは、まるで大切なものをどこかへ隠した子どものように、ニコニコと笑みを浮かべていた。
「実は、今日滝本さんの指導係を任されたんです」
「えっ、今日?」
訊き返すと、彼女は首をかしげた後に頷いた。
「もしかして、都合が悪かったですか?」
「いや、そんなことはないんだけど……まだ履歴書も提出してないからさ」
「全然気にしなくていいと思いますよ。うちすごく緩いので!」
「そうなんだ……」
彼女はそう言うが、僕は気を緩めたりしない。今までにもバイトの面接で落とされたことがあるし、そう都合よく行かないこともあることを知っている。
しかしそんな心配は、本当に杞憂に終わった。多岐川さんに事務所へ案内され、そこで少し若めの店長に挨拶をしてバイトをしたい旨を伝え履歴書を渡すと、ただ一言「君、採用ね」と告げられた。店長の言っていることが、しばらくのみこめなかった。
我に返ったのは、多岐川さんが僕に話しかけて来た時だった。
「よかったですね、滝本さん」
「え、いや、すみません。本当に採用なんですか……?」
冗談で言っているのかと思い店長に聞き返すと、彼は僕を見て笑みを浮かべる。
「多岐川くんの紹介だからね。彼女、とても信頼出来るんだよ」
「あの、僕と彼女が知り会ったのは、つい昨日のことなのですが……」
「それじゃあ、尚のこと君は信頼されてるんじゃないかな」
店長に言われ多岐川さんのことを見ると、彼女も僕に対して柔らかい笑みを浮かべる。その表情に偽りの影は見えなかった。
一応店長は履歴書を確認しているが、特に気になったことはないのか、すぐに紙面から目を離した。
「給料とかの具体的な話は後でするから、とりあえず着替えてきなさい。お金がないということは、今すぐにでも働いた方がいいよね?」
「あ、はい。わかりました」
それから僕は事務所の隣にある男子更衣室へ案内され、アルバイト用の制服を多岐川さんから渡された。緑色のジャンパータイプのもので、僕はそれを羽織り貴重品を鍵のかかるロッカーへ放り込む。
多岐川さんを待たせたりしないように、すぐ更衣室から出ると、数分ほどした頃に隣の更衣室から彼女は出てきた。長い髪はポニーテールにまとめられていて、その姿もよく似合っているなと、僕はふと思う。そんなことを考えていると、彼女はにこりと微笑んだ。
「似合ってますか?」
「似合ってるよ」
「今、適当に言いました?」
「いや、本当に似合ってるから。髪まとめてるのも、ちゃんと似合ってるよ」
素直に褒めてあげると、彼女は恥ずかしかったのか少しだけ頬を染めた。僕はそんな多岐川さんに、口元を緩める。
「もしかして、褒められ慣れてない?」
「そう、なんですかね? そもそも男性の方に、あまり免疫がないんです。中学高校と女子校だったもので……」
「あぁ、そうなんだ」
「大学も、男性の方が少ないんです」
それなら初対面の時に、少し馴れ馴れしいことをしたかもしれない。見ず知らずの人がキャンバスを運ぶのを手伝うと言って、昇降口前までついて行くなんて。多岐川さんが優しい人じゃなければ、最悪引かれるか通報されていたかもしれない。
「あの、何かおかしなところがあれば言ってくださいね」
「今のところ、おかしなことろはないかな。うん、普通だと思う」
そう伝えると、彼女は安心したのかホッと胸をなでおろした。
多岐川さんから、店内のどこにどんな商品が置いてあるかを簡単に教えてもらった後、レジへ案内される。五台あるうちの四台で、他のアルバイトの方が商品を通して接客をしていた。僕はその一番後ろのレジで、彼女から指導を受けている。
「ここにバーコードを近付けて商品を通すんです。取り消したい時はここを押して、もう一回バーコードを読み取ってください」
「こうですか?」
言われた通りにすると、直前に通した商品が無事に取り消された。コンビニのレジでも経験したから、今までやっていたことの復習みたいなものだ。
しかし多岐川さんは僕の方を見て、首を斜めに傾げる。頭上にはてなマークが浮かんでいるようだった。
「えっ、何か間違えてましたか?」
「あ、いえ、完璧なんですけど……なんで敬語使ってるんですか?」
「あぁ、多岐川さんはバイトの先輩にあたるので」
アルバイト中に、多岐川さんへ敬語を使わないのはさすがにマズイ。他のアルバイトの方に、敬語も使えない人だと思われるかもしれないから。こういう些細なことをきっちりやっておかないと、良い印象は与えられないだろう。
「別に、敬語なんて使わなくていいですよ?」
彼女は少し恥ずかしそうにして、チラリと僕を見る。
「アルバイト中だけですから、気にしないでください」
出会った時は敬語を使っていたが、今は外しているため違和感があるのだろう。けれどアルバイト中だけという言葉に納得してくれたのか、彼女は素直に頷いてくれた。むしろ、多岐川さんの方こそ敬語を外してもいいのにと思ったけれど、そこはやっぱり男と接するに慣れていないからなのかもしれない。
その後、練習用に持ってきた商品を通してくださいと言われたため、僕は言われた通りに手際よくバーコードを読み取っていく。同じ種類のチョコレートが三つあったため、個数のボタンを押してから乗算のボタンを押して通すと、彼女は「えっ?!」という驚きの声をあげた。僕はその声にびっくりして、思わず肩をびくりと震わす。
「あの、間違えてましたか……?」
「えっ、えっ、今のどうやったんですか?!」
一度商品を取り消してから同じことをやると、彼女は「え、すごい。そんなこと出来るんだ……」と、無意識に敬語を外して呟いた。
「もしかして、機械操作苦手なんですか?」
疑問に思い聞いてみると、彼女は恥ずかしそうに頬を染める。
「恥ずかしながら……レジの操作も覚えるのに時間がかかったので……滝本さんの方がレジ操作詳しかったんですね……」
肩を落とす多岐川さんを見て、僕は苦笑する。先ほどスーパーの前で会話をした時、僕の指導係りになったことを、彼女はすごく喜んでいた。調子に乗って、教えられていないことをやらない方がよかったかもしれない。
「僕、コンビニで働いていた経験しかないので。スーパーの仕事は、絶対に多岐川さんの方がよく知っていると思います。なので、あまり気にしないでください」
そんなフォローを入れると、落ち込んでいた多岐川さんの元気は少しだけ戻ったようだった。実際僕は一通りのレジ操作は分かっても、それ以外のことはまるで分からない。多岐川さんがいなければ、僕なんて使い物にならないだろう。
「そ、そうですよね! 私に任せてください!」
そう自分に言い聞かせるように言った後、彼女はまた一通りの仕事内容を教えてくれた。スーパーでの接客の仕方、何時にゴミを捨てて、いつレジ上げを行うのか。使える商品券の説明などを、細かく丁寧にわかりやすく説明してくれる。
気付けば閉店時刻の九時になっていて、最後のお客さんが買い物袋を持って店を出て行く。それを見送った僕は、急に強い脱力感を覚えた。久しぶりにバイトをして、とても疲れたのだろう。
「ありがとうございます、多岐川さん。多分、だいたい覚えました」
「それならよかったです。それと、もう敬語使わなくていいですよ」
「いえ、まだスーパーを出てませんので」
冗談交じりに言うと、彼女が頬を膨らませて可愛いなと思った。そんな風に話していると、レジ上げの終わった大学生ぐらいの男が、こちらへとやってくる。
「お疲れ。今日から入った新人?」
「はい、滝本悠って言います。これからお世話になります」
「そんなかしこまらなくてもいいよ。俺、岡村。よろしく」
「よろしくお願いします」
岡村さんは、体育会系の人間なのだろう。僕とは違って、ガッチリとした体つきをしていた。
「多岐川ちゃんも、お疲れ」
「あっ、はい。お疲れ様です」
「滝本って、多岐川ちゃんの友達?」
「あ、えっと、はい。お友達です」
なんとなく、僕と話している時より多岐川さんの歯切れが悪かった。右手と左手を握手するように握りしめていて、視線は岡村さんの方へ定まっていない。
それだけで、男の人に緊張しているんだなということが理解できた。また、別の人がこちらへとやってくる。今度は女性の方で、落ち着いた雰囲気の子だった。
「お疲れ様です、梓さん」
「あ、お疲れ渚ちゃん!」
「その方が、一昨日助けてくださったんですか?」
「そう! そうなの!」
「へぇ、一昨日滝本なんかしたの?」
岡村さんが渚と呼ばれた女の子にそう訊ねると、彼女は多岐川さんのように戸惑ったりせず、スラスラと答えた。彼がアルバイトの中で嫌われているというわけではなく、単に多岐川さんが緊張していただけなのだろう。男性に苦手意識を持っているというのは、どうやら本当だったようだ。
「学校に遅刻しそうになったのを、助けてもらったそうです。昨日電話で教えてもらいました」
「へぇ、やるじゃん滝本」
「いえ、あれは偶然というか……」
「本当に、一昨日は助かりました!」
「おいお前ら!早く着替えて売り上げ書け!」
そんな雑談を交わしていると、とうとう店長に遠くから呼ばれてしまう。僕らは苦笑して、残りの閉店作業をおこなった。
全ての業務が終了して、スーパーの戸締りを確認した後、今日は解散ということになった。まだ研修中みたいなものだが、コンビニでバイトをした経験を生かせるため、多岐川さんに迷惑をかけるようなことはなさそうだ。
帰り際、多岐川さんに「一緒に帰りませんか?」と誘われて、特に断る理由もないため二つ返事で了承したが、そもそもお互いに別々の方向に家があることが判明したため、それは叶わなかった。彼女は残念そうに肩を落としながら、荒井さん――渚さんの名字だ――と帰っていった。岡村さんは一番最初に自転車に乗って帰った。
僕も帰ろうと思い歩き出そうとすると、スーパー前の自販機のところで、スマホをさわっている女の子を見つける。誰かと待ち合わせをしているのだろうかと気になって……それからすぐに彼女が水無月であるということに気付く。水無月は少し落ち込んでいるような表情を浮かべていたが、僕を見つけるとパッと笑顔になって近寄ってきた。
「先輩。お仕事お疲れ様です」
「あ、うん。ありがと。どうしたの、水無月?」
いつの間にか、胸を打つ鼓動が早くなっていた。僕はそれを必死に押さえつける。
「偶然スーパーの近くまで来たので、寄ってみたんです」
「そうなんだ。もう遅いし、送ってくよ」
「ありがとうございます」
水無月はニコリと微笑んで、それから僕と一緒に歩き出す。大通りを何も話さずに歩き、車通りの少ない裏道へと入っていく。僕は彼女の家を知らないから、半歩ほど後ろをついて歩いた。
「久しぶりですね、こんな風に一緒に帰るのは」
「うん……」
僕と、水無月と、牧野。三人で帰ることの多かった通学路。あんな眩しい日々は、もう戻ってこないのかと思っていた。
「美大、大変?」
「結構大変ですよ。毎日課題ばかりで、朝早くに学校行かなきゃいけないですし、高校生活の延長みたいなものです。先輩は、どんな感じですか?」
「課題はもちろんあるけど、高校生活よりは楽かな」
一コマ目が無い日もあるから、毎日早起きしなければいけなかったあの頃より、随分と時間に余裕が出来ている。しかしその分、夜更かしをして生活リズムを崩し気味だけど。
「初めての出勤は大変でしたか?」
「ううん。コンビニのバイトを経験してたから。それに、多岐川さんがわかりやすく教えてくれたし」
「梓さん、教えるの上手いですよね」
「美大で何か教えてもらったりしたの?」
「はい。梓さんは先輩ですので」
そんなとりとめのない話を、僕たちは続ける。静寂が訪れるのが怖くて、必死に次の話題を探している自分がいることに気付いた。
「……水無月は、バイトとかしてないの?」
「一応やってますよ。ファミレスの接客です」
ウエイトレス姿の水無月は、きっとすごく似合っているのだろう。機会があれば見てみたいけれど、見に行けば下心があると思われそうで、なんとなく気が引けてしまう。実際、下心があるのだから仕方がない。
そんなことを考えていると、水無月は「駅前のファミレスですので、お時間がある時に食べに来てください」と言ってくれた。僕が頷くと、彼女は本当に嬉しそうに微笑んでくれる。
その笑顔を見るだけで、僕の心はどうしようもないほど大きく揺れてしまう。あの頃の出来事を思い出してしまって、今すぐに水無月のそばから逃げ出してしまいたくなる。このわずかな時間だけで、僕はどうしようもなく彼女のことが好きなのだと、再認識してしまった。
「どうしました?」
そう言って、水無月は僕の顔をそっと覗き込んでくる。僕は努めて冷静さを保ち「なんでもないよ」と返す。そう、なんでもない。こんな気持ちは、二度と伝えるべきじゃない。
しかしそう考えていても、内から溢れ出るこの感情は、堪えていなければポツリと口元から漏れ出てしまいそうだった。
水無月はそれから、うかがうように僕のことを見て「先輩、遥香のこと覚えてますか?」と、訊ねてきた。忘れるわけがない。あの頃の出来事は、忘れようと試みても一度も忘れることなんて出来なかったのだから。
頷くと、彼女はまた話を続ける。
「昨日、久しぶりに電話がかかってきたんです」
「……そうなんだ」
僕が牧野とまともに話したのは、あの告白の返事をして以降数えるほどしかない。水無月と同じく連絡先は残っているけれど、かかってくることもなければかけることもしなかった。
続く彼女の言葉に、僕はひどく動揺してしまい、立ち止まってしまう。
「遥香、今でも先輩のことが好きみたいですよ」
あんなにもこじれてしまったというのに、僕らはあの時から何一つ変わってなんていなかった。牧野は僕のことを好きでいてくれて、僕は水無月のことがいまだに忘れられなくて。だから今も昔も、牧野の気持ちを受け止めることは出来ない。
立ち止まって、こちらへ振り返った水無月は、またうかがうようにこちらを見てくる。
「遥香と、一度話してみませんか?」
そうやって今も、彼女は僕と牧野の仲を取り持とうとする。僕はそれが、たまらなく辛い。
「……ごめん。好きな人がいるから、気持ちは受け取れないんだ」
その言葉を聞いた水無月は、一瞬悲しげな表情を浮かべてしまった。けれどすぐに笑顔を持ち直して、からかうように訊ねてくる。
「それは、梓さんのことですか?」
「違うよ」
あまりにもすぐに否定してしまったから、図星だと思われてしまったのだろう。水無月は軽く微笑んで、ニヤリと口角を上げた。
「梓さん、とても綺麗ですもんね。それに天然なところがありますし。真面目な先輩と二人で話してるの見てると、お似合いだなって思いました」
「だから、違うって」
少し語気が強くなってしまい、水無月の表情から笑みが消える。彼女の笑顔を奪ってしまったことにいたたまれなさを覚えたけれど、僕はこれ以上気持ちを押さえつけておくことができそうになかった。
ただひたすらに肥大した思いは、三年越しにまた僕の口から漏れ出てしまう。
「……水無月」
「えっ?」
「今も、水無月のことが好きなんだよ」
溢れ出る思いは、押しとどめておくことなんて出来なかった。僕はまた、あの時と同じように過ちを犯してしまう。何も伝えたりしなければ、先輩後輩という関係で、一緒にいられたかもしれないのに。
彼女は本当に驚いたといったように、大きく目を丸める。そんな答えは、全く予想していなかったという風に。それから驚いた表情を崩し、一瞬だけ目を伏せた。僕を見て、困ったように微笑む。
「先輩のことを振ったのに、今まで好きだったんですか?」
僕はハッキリと頷く。告白した時、水無月には『ごめんなさい。先輩をそういう目では見れません』と言われた。それでも僕は、諦めることなんてできなかった。
「好きなんだよ。今でも、昔と全然変わらないぐらい」
「……どうして、そんなに私のことが好きなんですか?」
改めて言葉にするのは恥ずかしいけれど、ここで言わなければもう一生伝えることは出来ないと思った。だから、一度両手を強く握りしめて、僕は水無月に伝えた。
「友達が喜んでるときは一緒に喜べて、泣いてるときは自分のことのように悲しめる。そういう友達思いなところが、すごくいいなって思った。だから、好きになった……初恋だった」
その初恋という言葉を伝えた瞬間、彼女の瞳が小さく揺れたような気がした。けれどそれは一瞬のことで、水無月はすぐに反対方向へ体ごとそっぽを向いてしまったから、確認することはできない。
「水無月……?」
「……ごめんなさい、なんでもないです」
こちらへ振り向いた彼女の瞳はもう、揺らめいたりしていなかった。先ほどと同じように、水無月は困ったように微笑む。
「先輩の気持ちは、とっても嬉しいです。でも、やっぱり受け止めることはできません」
そんな風にあっさりと決断を下されて、僕の心はキュッとしぼんでしまったかのような不快感を覚える。喉がカラカラに渇き、今すぐに泣き出してしまいたくなった。
「遥香のこと応援するって、高校生の頃に言っちゃったんです。私がもし先輩と付き合ったりしたら、遥香はきっと悲しみます。だから私は、先輩をそういう目で見ることはできません。親友を、裏切ることはできないんです」
水無月がきっぱりとそう言い切ったため、その意思が決して曲がらないことを、強く理解してしまった。彼女は、向こうのアパートを指差す。
「すみません。私の部屋あそこなので、これで失礼します」
そう言って彼女は僕から離れていく。呼び止めようとしたが、かける言葉は見つからない。しかし僕が呼び止めるよりも先に、水無月は止まってくれた。
「……だけど滝本先輩のことは、先輩としてとっても好きです。また会えて嬉しかったのも、本当です。これからも、私と話してくれると嬉しいです」
僕は深く考えたりせず、その言葉に頷いてしまった。これが僕と彼女の一線。決して越えることのできない壁だった。
僕が頷いたのを認めると、水無月は安心したように微笑んでから、最後に「さようなら」と呟いてアパートの階段を上っていく。一人取り残された僕は、ただ呆然とその場に立ち尽くす。
いったい、どうすればよかったのだろう。もっと強く思いを伝えれば、水無月は僕のことを考えてくれたのだろうか。今すぐ牧野に電話をして、僕のことを諦めてほしいと説得すれば、水無月は振り向いてくれるのだろうか。
しかしそれはいずれにしても、僕の好きな水無月を困らせたり、悲しませてしまう行為であることに気付いてしまった。彼女がそうと決めてしまった以上、僕はもう何も言うことができない。