「あっ、おはようございます。樹さん」

副社長室に戻ると、菜子がデスクの上を掃除していた。もうこの姿を見るのも見納めだ。

この日、俺は彼女を手放さなくてはいけなかった。
不動産の売却が済んで、3億が用意できてしまったからだ。

けれど、口から出たのは『1億5千万』という数字。
罪悪感を感じつつ、あと3日だけ彼女のそばにいる猶予をもらった。

そんな身勝手なことを考えてしまった俺に、彼女は綺麗な瞳を向けながら、お礼がしたいと言ってきた。

『何かありませんか? 私にできること』

彼女への想いが一気に溢れた。

“それならずっと俺のそばにいて欲しい”

もちろんそんな言葉は口にできないけれど。
でも、もう二度と会えないのならば………。

『結婚する前におまえの肉じゃがが食いたい。最後に食わしてよ』

それがせめてもの願いだった。

『べ、別にいいですけど』

顔をまっ赤にして俯く彼女。
その表情はまるで俺を好きだと言っているように見えて、あまりの愛おしさに思わず彼女を抱き締めていた。

『頼むな。おまえの味、一生覚えておくから』

言葉にした途端、何だか無性に切なくなって、胸がズキズキと傷んだのだった。


そんなことがあった日の夜、帰ったはずの菜子が血相を変えて副社長室に戻ってきた。

『彩乃さんは危険な人です! 彼女と結婚なんかしたらダメです!』

聞けば、早乙女彩乃に呼び出され、男達に乱暴されそうになったというのだ。

幸いツーイーストの社長に助けられて、未遂で済んだとのことだけど、俺はあまりのショックで気を失いそうになった。

まだ少し震えている菜子を見て、思わず自分の胸へと抱き寄せそうになったけど、思い直してその手を止めた。

菜子を守る為だった。
怒りでどうにかなりそうだったけど、そこだけは冷静だった。

『彩乃さんとの結婚は考え直して下さい。会社が大変なのは分かります。でも、何か別の方法だってきっとあるはずです。樹さん、私に言ってくれたじゃないですか。愛のない結婚なんかしてどうするんだって! 樹さんだって同じですよ』

目に涙を溜めながら必死に訴えてくる菜子。
そんな菜子に、俺は心を鬼にして酷い言葉を返した。

早乙女彩乃を許してやってくれと。
俺が守りたいのは早乙女彩乃なのだと。

菜子はショックを受けた様子で固まっていた。

『悪いけど、菜子を今日付けて解雇する。白崎とも接触しないでくれ。その代わり、おまえには3億支払う。寄付で集めた1億5千万に、手切れ金の1億5千万。これで納得してくれないか?』

手切れ金なんて言いたくなかった。
こんなことなら3億集まったことにしておけばよかったと自分を恨めしく思った。

『樹さんがそんなことを言うとは思いませんでした』

抑揚のない声で菜子がボソリと呟いた。

『仕方ないだろ? 大事な女を守る為なんだから』

そう。
全てはおまえを守る為なんだ。
許してくれ。

俺は東吾を呼びつけて、放心状態の彼女を彼の手に託したのだった。