五月二十二日 (火)
 しかし夜が明けてスズメが鳴き始め朝になった頃には、昨日の出来事なんて忘れたかのように華怜はけろりとしていた。
 思い出したりしないよう気丈に振る舞っているだけなのかもしれないが、昨夜のようなあからさまなミスは今のところ一つもない。
 朝食は華怜が作ると言ったけど、また無理を言って二人で作ることになった。昨日と違うのは、純粋に華怜のことが心配だからだ。
 一人にさせてしまえば、また昨日のように泣いてしまうかもしれない。
 おせっかいが過ぎるのかもしれないけれど、好きになった女の子に対してなら誰しもはそんな風に考えるだろう。
「こんなもんですかね」
 目玉焼きを焼きながら、華怜がそんなことを言ったから意識が戻される。少し、考えすぎて気が抜けていた。
 フライパンの上には、綺麗な半熟の目玉焼きが出来ていた。
「華怜は固めが好きなんじゃないの?」
 そう訊ねると、不思議そうな目で僕のことを見返してきた。少し、僕のことを心配してくれているようにも見える。
「昨日、半熟の目玉焼きを食べてみるって言いましたよね?」
 あぁ、今日の僕はダメだ。そんな会話を交わしたはずなのに、華怜のことが心配で、だけど一緒にいることで少し浮ついて、記憶が飛び飛びになっている。
 僕が心配させてどうするんだ。
 断りを入れて、もう一度洗面所へ向かう。顔に水をかけて目を覚まさせた。幾分とマシになった僕は、また忘れていたことを思い出す。
 スマホを取り出して、市内のニュースと県内のニュースを調べた。女子高生誘拐、行方不明、そういったものは一つもヒットしない。
 次いで全国ニュースを調べた。
 まずは女子高生誘拐事件。
 調べてみると、驚くことに検索結果がヒットしてしまった。動悸が激しくなり、もう華怜と一緒にはいられなくなるのだと悟る。
 だけどそのニュースを見て、僕は安心した。
 名前は華怜じゃないし、そもそも犯人は昨晩逮捕されたらしい。
 それから安心してしまったということに遅れて気が付き、僕は僕自身に激しい憤りを感じた。両親が見つかるというのは、もちろん華怜にとって喜ばしいことなのに、どうして安心してしまっているんだ。
 華怜のことをどれだけ思っているからって、取り上げていい理由にはならない。一番は、彼女が両親の元へ戻ることなんだから。
……もし華怜が虐待されていたとしたら。
そういう想像をした僕は、とっても醜い人間だ。虐待されていたなら両親のところへ戻らなくてもいい、そんな結論には至るはずがない。
 それなら僕なんかのところより、施設へ預けられた方がよっぽど良い生活が送れる。いや、その前に華怜の両親を想像の中でも悪者にしてしまったことが、僕は許せなかった。
 きっと幸せな家庭だった。僕はそう思わなければいけないのに、自分本位で物事を考えてしまっている。
 もし華怜の記憶喪失の原因が物理的なものじゃなくて、心理的なものだったら。虐待をされていて、両親の元から逃げてきたのだとしたら。
もし……
「公生さん」
「うわぁ?!」
 いつの間にか華怜が僕の後ろへ立っていた。恥ずかしい声を上げてしまい、華怜も驚いて数歩後ずさる。それから先ほどと同じ表情を浮かべた。
「どうしたんですか?」
 また、心配をかけさせてしまった。今日の僕は本当にダメだ。気持ちを切り替えなきゃいけない。
「なんでもないよ。ちょっと、考え事してただけ」
「そうですか?」
「そうなんです」
 顔を両手でパンと叩く。いくらか気持ちが落ち着いた気がした。
 居間へ歩き出そうとすると、突然華怜に袖を掴まれる。どうしたのかと思い振り返ると、タオルを渡された。
「顔、拭いてください。びちょびちょですよ」
「あぁ、ごめん忘れてた。ありがと」
「ふふっ、どういたしまして」
 華怜が微笑み、僕もようやく笑みをこぼせた。顔を拭いて改めて居間へ戻ると、もう朝食の用意が出来ていて、「ありがとうね」とお礼を言う。
 半熟の目玉焼きを食べた華怜は「確かにこっちもいいかもしれませんね」と笑顔で言ったから、僕は嬉しくなった。
 だけどすぐに「でも、明日は固めにしましょうね。固めも美味しいんです」と主張してきたから、僕は苦笑する。
 でも、華怜が美味しいというなら本当に美味しいのだろう。
 朝食を食べ終わると、二人で皿を洗い、二人で片付けて、それから例のモノを渡す機会をうかがった。その機会は案外とすぐにやってくる。
「いつまでもパジャマってわけにはいかないので、着替えないとですね」華怜はそう言って、先に部屋の外へ出た。
 僕は手早くジーパンとTシャツに着替えて、昨日買った衣服をとても分かりやすいように机の上へ置く。
 手紙なんかも添えて置いたらいいかもしれないと思って便箋を取り出し、『プレゼントです。昨日はキッシュ、ありがとうございました』と書いた。
 顔に出ないように気をつけながら部屋を出て、華怜とすれ違う。
 ほんの数秒後、ドタバタと激しい足音が聞こえてきたと思ったら、ちょうどドアノブに手をかけていたところを後ろから勢いよく頭突きされた。
「公生さんっ!」
「うわっ、どうしたの?」
 分かっていたけどそう訊いて、僕は振り向く。華怜は、青いロングスカートと白のカットソーを大事そうに抱えて、瞳に涙をためていた。
「公生さん……」
「どうしたの?」
「本当に、本当に嬉しいですっ……!」
「僕も、昨日はありがとね」
「ありがとうございますっ……!」
 華怜の瞳から一筋涙が落ちて、指先で拭いてあげる。
 こんなに喜んでくれるとは僕も予想していなかったから、どうしようもなく胸の中が華怜の色で満たされた。
良い雰囲気だと、僕はまたそう思う。