僕のファンでいてくれる人に、丁寧にサインを書く。
 もう何十人も僕のファンだと言ってくれる人がいて、正直泣いてしまいそうだった。
 華怜と出会う前の自分は本当にダメなやつで、誰からも必要とされないやつで、毎日、日陰にいるような人間だった。
 そんな僕が、今はいろんな人に必要とされている。ある人は勇気付けられたと言ってくれて、ある人は前向きに生きられるようになったと教えてくれた。
 きっとこういう風にして、人の想いは伝わっていくのだと思う。
奈雪さんがそうしてくれたように、今度は僕が。
 そういう自分のことを、ようやく少しだけ誇れるようになった。
 あの時抱いていた、何かを与えられる人間になりたいという小さな夢。もし過去の自分に会えるのだとしたら、伝えてあげたいと思った。
これからもいろんなことがあって、いろんな辛いことがあるけれど、今も昔も変わらずにずっと幸せだよ、と。君は与えられてばかりの人間じゃない。もっと、自分に自信を持っていいのだと。
 僕は辺りを見渡す。華怜が来てくれているか探したが、それらしき姿はない。
 次のファンの方から文庫本をもらって、僕はその表紙へ小鳥遊公生とサインした。とても喜んでくれて、握手を求められる。
 僕は微笑み、その子の手を握った。眼鏡を掛けた、内気そうな高校生の女の子だった。
 その瞳には、大粒の涙が浮かんでいる。
「実は、デビューした当時からずっと先生のファンなんです」
「そんな時から読んでくれているんですか。それはほんとに、ありがとうございます」
 少しだけ照れてしまう。
「あの。実は私も、昔の先生みたいにいろんなことに悩んでるんです。受験のこととか、将来のこととか、そのほかにも色々……」
彼女の声は、だんだんとしぼんでいく。僕は、必死に言葉を紡ごうとしてくれている彼女のことを、真剣に待ってあげた。
「……だけど先生のおかげで、少し前向きな気持ちになることができました。一作目を読んだ時から、勇気をもらわれてばかりで……ずっと一言、お礼を言いたかったんです」
それから彼女は精一杯頭を下げて、涙声になりながらも「ありがとう……ございますっ!」と感謝の気持ちを伝えてくれた。
僕は急に目頭が熱くなってしまって、それを誤魔化すように小さく笑う。
「君が前向きな気持ちになってくれて、僕も嬉しいよ。僕も頑張るから、君も精一杯頑張ってほしい」
「……はいっ!」
最後に元気な返事をくれて、女の子は向こうへと走っていった。それをしばらく見守っていると、急に彼女は立ち止まる。どうやら、知り合いの男の子に声を掛けられたようだ。女の子は目を丸めているが、いつのまにかその表情には笑顔が浮かんでいる。
それから女の子は僕の小説を開きながら、男の子と会話を始める。
きっと彼女はもう大丈夫だなと、僕は安心した。
次のファンの方にも、僕はサインを書いていく。
「今回の小説って、先生が昔体験したことなんですよね? これって全部、本当に実話なんですか?」
「びっくりするかもしれないけど、全部実話ですよ」
「なんだか、ロマンチックですよね。私、華怜さんがここへ来てくれるって信じてます」
「ほんとうに、ありがとうございます」
 また次の人も、興奮した面持ちで「これって、実話なんですか?!」と聞いてきた。
 僕は苦笑しながら「全部、実話ですよ」と答える。
 ある人は涙を流しながら「これから先も、頑張って華怜ちゃんのために小説書き続けてください……!」と言ってくれた。
 またある女の子は、僕の小説を読んで小説家になるという夢ができたと教えてくれる。僕はその女の子に「いつか、書店の同じ平台に並べられるのを待ってるよ」と言ってあげた。
 あの頃の華怜が今の僕を見たら、褒めてくれるだろうか。喜んでくれるだろうか。
 僕は本屋の周りを見渡して、華怜がいないかを必死に探す。見逃したりしないように、注意深く探し続けた。
 先ほどから華怜を探し続けているのに、全然現れてくれない。やっぱりここへは来てくれないのだろうか。それとも、もうこの世界のどこにもいないのか……
 それは出来るだけ考えたくなかった。
 僕は必死に華怜のことを探し続ける。
 サインを書いていく。今の僕には、それだけしかできない。
 少しだけ、諦めかけていた。
 泣きたくなって、顔を俯かせる。こんなんじゃダメだと言い聞かせているのに、抑えることができそうになかった。
 やはり、来てくれないのだろうか……
「お父さん」
 その時ふいにそう呼ばれて、顔を上げる。そこには旅行カバンを下げたままの華怜が立っていた。
「……華怜、修学旅行は?」
 頬をかきながら、恥ずかしそうに華怜は言った。
「修学旅行は、先生に言ってキャンセルにしてもらったの」
「キャンセルって……」
「だってお父さん、私がいないと寂しいっていうから。一週間もいなくなったら、どうかしちゃうでしょ?」
「お父さんは別に、寂しくなんて……」
 寂しい。
 心の底からそう思ったから、僕の言葉は尻切れとんぼになって宙を漂った。
 そんな僕に華怜はくすりと笑う。
「お父さん、やっぱり寂しいんでしょ」
 なにも言い返せなくて、思わず顔を俯かせてしまう。
「お父さんは、私がいなきゃ本当にダメだなぁ」
 なにも言い返せない。
 僕は華怜がいないと、本当にダメだ。
「……私も、お父さんがいないと本当にダメなの」
「……えっ?」
 思わず顔を上げて、華怜を見た。
「お父さんがいなきゃ、私はダメなの。だから本当は、修学旅行なんて行かないでって言ってほしかった。素直じゃなくて笑っちゃうよね」
 笑ったりしない。
 本当は僕だってそう言いたかった。だけど、言えなかった。僕の方こそ素直じゃなくて、笑えてくる。
「素っ気ない態度取っちゃって、ごめんね」
「僕の方こそ、素直になれなくてごめん……」
「お父さんの前から勝手にいなくなって、ごめんね」
 その言葉を聞いて、僕はまっすぐに華怜の目を見た。いつの間にかそこには涙が溜まっていて、僕の目にも涙が溜まっている。
「……華怜?」
「ずっとお父さんが夢を叶えるのを、私は夢みてた」
「華怜、なのか……?」
「お父さんは、本当に強い人だよ。私の自慢のお父さん。だから私はあなたのことを、あんなに好きになったの」
 僕は用意していた文庫本をカバンの中から取り出し、華怜へ差し出した。それを受け取ってくれて、大粒の涙をたくさん流す。
 ここまで、本当に長かった。途方もなく長い時間の中で、ようやくまた君に巡り会えた。
「ずいぶんと遅れちゃったけど、君のために書いたんだ。だから、読んでほしいっ……」
 華怜は涙を流し続け、それでも笑った。僕はこの笑顔を見るために、ずっと小説を書いていたんだということを思い出す。
 そしてこれからも、華怜の笑顔を見るために僕は小説を書いていくのだろうなと思った……
「この物語は、大切な君への贈り物だよ」

※※※※

 再び目を覚ました華怜がいた場所は、飛行機の機内ではなくいつも見慣れた公園だった。
 桜の木の下で、大きな幹に寄り添いながら座っていた。
 どうしてここにいるのだろうと最初は驚き、やがてすぐに経緯を思い出す。
『寂しい』と公生が言ったから、『仕方ないなぁ』と思い修学旅行をキャンセルしたのだ。
 後悔はなかった。
 最初から、旅行へ行くよりも公生のそばにいたかったのだから。それに、せっかくのサイン会の日に旅行へ行くなんてありえないと華怜は常々思っていた。
 どうせなら驚かせてやろうと思い、修学旅行へ行くふりをしたのだ。
 華怜は腰を上げて、大きな旅行カバンを手に持つ。
 そして、夢を叶えた一番大切な人の場所へ、最初の一歩を踏み出した。

※※※※

「ただいま、茉莉華」
「あら、おかえり。……って、華怜?!」
「えへへ」
「修学旅行はどうしたのよ!」
「サボってきちゃった」
「サボったらしいね」
「サボったってっ……!」
 玄関口で、僕と華怜は茉莉華に抱きしめられた。
「よかったっ……! ほんとによかった……!」
「茉莉華、どうしたの?」
 茉莉華の頭を撫でる。華怜は大好きなお母さんの背中を撫でてあげた。
「修学旅行の飛行機が、墜落したって……それでっ……」
「お母さん」
「……華怜?」
「お母さん、ありがと。小説ちゃんと読んだよ。素敵な名前を、本当にありがとう」
「華怜……」
「あの時食べさせてくれたチーズケーキ、とっても美味しかったよ。ほんとに、ありがとっ!」
 その言葉で茉莉華も確信を得たのか、驚いた表情で華怜を見た。華怜は、微笑んでいる。
 そして最後には、茉莉華へと抱きついた。
「これからも、ずっとずっとずーっと一緒にいようねっ! お母さんっ!」
 その日、乗員乗客四百三名を乗せた航空機が、山の斜面へ墜落した。
 現時点での死傷者の数は不明。
 それは二〇四〇年、五月二〇日 日曜日の出来事だった。
 僕たちは今日という日の出来事を、あの輝かしい一週間の出来事を、一生心に刻み続けて生きていくだろう。

記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕。(終)