後頭部に鈍い痛みを感じる。私はまどろみの中で、誰かの声を聞いた。それはとても懐かしい響きで、しかし誰のものなのかが分からない。
――大丈夫ですか
確かにそう聞こえた。私は途切れ途切れの意識の中で、かろうじて呻き声だけを漏らす。
優しい腕に抱き起こされた。
私はゆっくりと目を開く。
面識のない男性が私のことを見ていた。面識がないはずなのに、どこか懐かしく感じる。見ているだけで安心して、自然と心の中が暖かくなってくる。こんな気持ちになったのは、初めてかもしれない。
「あの、大丈夫?」
「頭……」
私は後頭部に手を伸ばし、そして触れた。ズキンと痛みが走り、全身が大きく張り詰める。
確認のために彼が触れてくれた。やっぱり痛くて小さな悲鳴を上げてしまう。
それから私は、彼に名前を聞かれた。私は思考を巡らせて、自分の名前を思い出そうとする。
しかし、すぐに浮かんできて当然のそれはなかなか引きずり出すことが出来ずに、結局思い出せたのはただ一つだった。
「カレン……」
私は地面へその文字をなぞる。
華怜。
その名前を書いて、確信を得た。
私の名前は華怜だと。
色々なものを忘れてしまっているけど、それだけは鮮明に思い出すことが出来た。
次いで名字を思い出そうとする。しかしそれは思い出すことが出来ない。
『た』の文字が思い浮かんだ気がしたけれど、それはすぐに消えていった。
結局私は、華怜であるということしかわからなかった。
彼が私を病院へ連れて行こうとする。だけど本能がそれを拒んでいた。彼の前から離れてしまったらダメだと。私にはまだやることがあるんだと。
その必死の思いをどうにかして伝えたら、彼は理解してくれた。とても優しい人だ。
名前を、小鳥遊公生さんというらしい。
その名前は懐かしい響きで、どこかで会ってるのかもと思った。だけど公生さんは私のことを知らないようで、謎は深まるばかりだ。
なしくずしてきに同棲生活を認めてもらった日の夜、飛行機事故が起きたのだということを知った。それは五月の十五日に起こってしまった飛行機事故で、乗員乗客が全て死んでしまったらしい。
私は全身に寒気が走って、まるで自分の身に降りかかった出来事のように感じてしまった。
仕切り直すために、公生さんが作ってくれた味噌汁を口に含む。それはとても懐かしい味がして、冷めているはずなのに、心の中がとても温かいもので満たされた。
「涙……」
「……えっ?」
私は遅れてそれに気がつく。両目から、溢れんばかりの涙が滴り落ちていた。それが私の頬を次々に濡らしていく。
袖で涙を拭おうとすると、持っていた味噌汁を机の上へこぼしてしまった。その行為がとても罪深いことのように思えて、さらに涙が溢れてくる。
公生さんがお味噌汁を温めなおしてくれた。それを飲んでいるときも、涙が止まらなかった。そんな私に公生さんは優しく接してくれて、「大丈夫だから」と安心する言葉をかけてくれる。
そのとき私は思った。
あぁ、この人のことが好きなんだと。
どうしてかはわからない。出会った時からしょうがないほどに惹かれていて、自分の想いを押し留めることが出来なかった。
結局、私たちはそれから付き合うことになる。なんとなく、公生さんも私のことを好いてくれているんだと分かっていたから、アプローチは自然に出来た。
公生さんとの毎日はとてもとても楽しくて、私はやがて、記憶なんてなくてもいいじゃないかと思い始める。
もし記憶が戻って、何か大きな罪を犯していたとしたら、公生さんに合わせる顔がなくなってしまう。それがどうしようもなく不安で、だけど公生さんはそんな私でも好きになると言ってくれた。
将来、公生さんが大学を卒業したらすぐに結婚をして、家事をしながら小説のお手伝いをして、ずっと一緒に、幸せに暮らすという未来を夢見るようになった。
だけどやっぱりそれは叶わないことだった。
私は記憶を取り戻す。
私は、小鳥遊公生さんと小鳥遊茉莉華さんから産まれてくる、小鳥遊華怜という子どもだった。そしてわたしはすぐに一つのミスを犯す。
タイミング悪く風邪を引いてしまい、公生さんがサイン会に行けなくなってしまった。これは些細なことのように思えて、とても重要な出来事だった。
子どもの頃に、お母さんからお父さんとの馴れ初めを聞いたことがある。お父さんとお母さんは、名瀬雪菜のサイン会で出会ったと。
一人でサイン会へ行ったお母さんが、一人でサイン会に来ていたお父さんに声をかけて、やがて意気投合したらしい。
その重要なイベントを逃してしまえば、お父さんとお母さんは出会えなくなる。私は必死にサイン会へ行ってくださいと懇願したけど、お父さんは向かってはくれなかった。
私のことを心配してくれて、ずっとそばにいてくれた。そんなこと思っちゃいけないのに、私はどうしようもなく嬉しくて、涙が溢れてきた。
そして黒い自分が顔を出す。
「ずっとここにいて、いいですか?」
それは、この歳まで育ててくれたお母さんを裏切る言葉だった。でも仕方ないじゃないか。もう、お父さんとお母さんの出会いの瞬間は過ぎ去ってしまった。
仕方ないと分かっていても、私は私を責めずにはいられなかった。私がもっとちゃんとしていれば、正しい歴史を刻むことができたのに。
それがもう叶わないことだというのなら、少しだけ欲を張っても許してくれるだろう。
私は最低な女の子だけど、それでもお父さんと……いや、公生さんと一緒にいたい。きっと公生さんもそう思ってくれている。
それなのに、運命という言葉が私の前に大きく立ち塞がった。
この先どんな出来事があっても、どれだけすれ違っても、おそらく公生さんと茉莉華さんは出会ってしまうんだろう。
それが分かってしまったから、私は潔く身を引くことにした。ちょっとだけ欲張ってしまったけど、公生さんは茉莉華さんの運命の人だから返してあげなきゃいけない。
私は精一杯、公生さんに嫌われる努力をした。それでも、ダメだった。私が公生さんを決して嫌いになれないのと同じように、公生さんも私のことを嫌いになれないのだ。そのことを知った時、やっぱり親子なんだなと身に沁みた。
私はこんな素晴らしい人から、いろんな素晴らしいものを受け継いだんだ。それを最後に知ることができた私は、それだけで産まれてきて良かったと心の底から思うことができた。
だからもう、十分だ。
このささやかな一週間のためだけに、私は産まれてきたのかもしれない。
私は公生さんの前から消えることを選んだ。
置き手紙一つを残して、私は部屋を去る。心残りのありすぎる手紙だった。
だから私は、ちゃんとしたものを残そうと思い至った。本当にわずかな心残りがあったからだ。
公生さんに、本当の私を知ってもらいたかったのと、公生さんの夢のことが気になっていたから。
タイムリミットが間近に迫っているのだろう。
私は、周りの人の認識から外れ始めているのだということに気付いた。
人にぶつかっても、相手は私のことを認識してくれない。本当は悲しいことだけど、むしろ好都合だなと思った。どうせこの後の私は、あの二〇四〇年の機内へと戻されるのだから。
死んでしまうなら、ちょっとぐらい悪いことをしてもバチは当たらないだろう。
いや、嘘だ。
気丈に振る舞ってはいるけど、本当は良心の呵責に耐えられていなかった。だけど仕方ないんだと言い聞かせて、百貨店から文房具とレターセットを拝借する。
何度もごめんなさいと謝って、私は外へ出た。ファミレスで何も注文せずに、公生さんと茉莉華さん宛ての手紙を書く。
本当は飛行機事故が起きると伝えたかったけど、それは出来なかった。一度はその事実を書こうとしたけど、紙の上にインクが全然乗らなかった。
これもまた運命なんだと、私は悟る。それなら後悔がないようにと、遠回しにそれを書くことにした。
私は絶対に素直になれないから、公生さんの方から歩み寄ってきてほしいと。そうすればきっと、笑顔で別れることができる。
私は最後まで、お父さんにそっけない態度を取ってしまった。そんな結末じゃ、死んでも死にきれない。
書き終わった手紙を、道中で拾った瓶の中へ詰めた。そしてどこに埋めようかと迷って、あそこしかないなとすぐに思う。私たちの思い出の場所。
桜の木の下だ。
あそこなら、今から十年後に必ず掘り返してくれる。私はすぐに公園へと向かい、またどこかで拝借してきたスコップを使い穴を掘った。そして手紙を埋めて、また十年後に掘り返されますようにと祈って埋め直す。
全ての準備が整った頃には疲れ果てていて、身体の感覚も途切れ途切れという感じだった。地に足がついていないようで、もうすぐ消えるんだなとふと思う。
桜の咲いていた木に寄りかかり、私はこの一週間の出来事を一つ一つゆっくりと思い返した。
涙が溢れてきたり、笑えてきたり、安心できたり、いろんな感情が次々に浮かび上がってくる。でも最後に浮かび上がってきたのはやっぱり、『もっとそばにいたかった』という後悔の感情だった。
もっとお父さんとお母さんのそばにいて、一緒に暮らしていきたかった。まだまだやり残したことはたくさんある。
そのやり残したことの大部分を占めているのが、お父さんの小説を読んでいないということ。せめてそれを読んでから、消えてしまいたかった。でもやっぱり、残酷なほどに時間が足りなかった。
容赦無く、最後の時間が私を攫っていく。
涙が溢れてきて止まらなかった。
私は、このまま……
「華怜っ!!」
その私を呼ぶ声にハッとなり、俯けていていた顔を上げる。お父さんが、私のことを探していた。私は最後の力を振り絞って立ち上がろうとするけど、もう身体は動かせない。
届かなくてもいい。自己満足でもいいから、最後にちゃんと伝えたい。不安定な私の存在を、必死の思いで繋ぎ止めた。
お父さんは周りを見渡して、私のことを必死に探してくれていた。それがとっても嬉しくて、繋ぎ止めていられる原動力になる。
「おい華怜! どこかにいるんだろっ!」
ここにいるよ。
言葉を発そうとしても声にならない。もう私は、お父さんに認識されていないんだ。
それでも最後の瞬間までお父さんのことを焼き付けたくて、必死に耐え続けた。
お父さん、華怜はここにいるよ。お父さんのこと、ずっと見てるから。
「華怜! 華怜!!」
目が合った……気がした。でも気がしただけで、きっとお父さんには見えていない。だからこっちは走り寄ってきたのはただの偶然で、もしかすると私の想いが少しは届いたのかもしれない。
お父さんは、桜の木の前で止まった。
だけどその下にいる私には気がつかない。桜の木に手をついて、お父さんはぽつりと呟いた。
「ごめんな、華怜……僕、約束守れそうにないよ……」
そんな悲しい顔をしないで。お父さんはとっても優しい人なんだから、いつも笑っていなきゃ……
お父さんの涙が、私の頬へと落ちてくる。そばにいるのに、声が聞こえるのに、果てしなく遠い場所に私はいた。
元気付けてあげたい。抱きしめて、大丈夫だよと言ってあげたい。
お父さんが私の前で膝をつく。私は最後に残った力を振り絞って、お父さんの頬へと手を伸ばした。柔らかくて暖かい、お父さんの頬。たしかにそれは感じられた。
私は挟み込んで、最後の言葉を投げかける。
「お父さんなら、これからもきっと大丈夫だよ。だから、頑張って。私はずっとずっと、応援してるから」