その全てを読み終わった僕は、華怜との約束を何も守れていなかったのだということを思い出した。小説家を目指すと誓ったこと。ずっとそばにいると誓ったこと。
 その全てを忘れてしまっていた僕は、十年分のいろんな思いが一挙に押し寄せてきて、押しとどめることができなかった。茉莉華は隣で泣きながら、僕の方へと寄りかかってくる。
 華怜は僕と茉莉華の足を掴んで、必死に励ましてくれていた。
 ダメだ、このままじゃダメだ。
 それを埋めてしまう前に、確かめなきゃいけないことがある。きっとそこには、高校生の華怜が僕の前に現れた理由が書かれているのだから。
 全てを吐き出す前に華怜の肩を掴み、優しく聞いた。声の震えは止めることができなかった。
「ごめん、華怜……タイムカプセルに入れた手紙、読ませてもらっていいかな……?」
「え……てがみ、みるの……?」
「うん、見せてほしいっ……」
 一瞬の逡巡の後、頬を染めた華怜は笑顔で頷いた。
「おとーさんになら、みられてもいいよっ!」
 僕はそれに「ありがとう……」と言って、埋めるはずだった瓶を開けた。今朝華怜が書いていた手紙を開き、それを読む。
『おとーさんのおよめさんになれますように。おとーさんとおかーさんと、ずっとわらっていられますように。おとーさんが、しょーせつかになれますように』
 その自分宛の手紙を読んだ僕は、十年前の出来事を一つ一つ思い返していた。
 僕のために、小説家になる手伝いをしてくれた華怜。僕を支えてくれていた華怜。ずっとそばにいたいと言ってくれた華怜。
『男の子が大学を卒業したら、女の子と結婚するんです』
『いきなりぶっとんだね』
『ずっと部屋の中でひとりぼっちだったんですから、すぐに男の人を好きになるはずですよ』
『それから男の人は小説家になります』
『どうして小説家?』
『だって、外に仕事に行ったら女の子が寂しくなりますから。家で小説を書きながら、二人で一緒に仲良く暮らしていくんです』
『そんな風になったら、いいですよね』
 たとえ記憶をなくしたとしても、華怜は同じ様に僕を想ってくれていた。僕の夢を叶えようとしてくれていた。だからこそ、忘れてしまっていた僕が何も果たせていなかったということに気付いて、僕はどうかしてしまいそうだった。
 こんなはずじゃなかった。
 僕はただ、華怜の笑顔を見たかっただけなんだ。
 歪に絡み合う思考の中で、それでも華怜は僕の頭を撫でてくれた。何も約束を果たすことができなかったのに、優しく僕のことを撫でてくれた。
 だから僕は、溢れてくる涙を止めることができなかった。。
 泣いて泣いて、十年分の絶叫を吐き出した僕は、いつの間にか、子どもの華怜に抱きしめられていた。
 それでも僕は泣くことをやめられずに、僕はただずっと、泣き続ける。
 華怜はそんな僕を「おとーさん、だいじょーぶだから。かれんがずっとそばにいるからね」と慰め続けてくれた。
 それがまた僕の心を刺激して、溢れてくる涙を止められない。
 いつもいつも、華怜は僕に似ていると思っていた。そんなの、当たり前だった。華怜は他ならない僕の娘で、僕の背を見てずっと育ってきたんだから。
 僕はどうしようもないほどに嬉しかった。こんなにも華怜が僕のことを思ってくれていて。だけどそれと同じぐらい、僕自身が情けなかった。僕は華怜との約束を全て破ってしまったのだから。
 もう一度、頑張ることができるのだろうか。
 華怜は、信じてるよと言ってくれた。そして目の前にいる華怜と茉莉華のために、小説家になってあげてと言ってくれた。
 僕は、華怜のいない世界で再び頑張ることができるのだろうか。一度は諦めてしまったから、これから再び頑張れる自身がなかった。
 そんな僕に、やはり華怜は微笑んでくれる。今度は小さな手で、僕の頬を優しく挟み込んでくれた。
「お父さんなら、これからもきっと大丈夫だよ。だから、頑張って。私はずっとずっと、応援してるから」
 なぜだろう。それは六歳の華怜に言われたはずなのに、高校生の華怜が後押しをしてくれた気がした。僕の涙はいつの間にか止まっていて、心が温かいものに満たされていく。
 目の前の華怜は、僕の頬に手は添えていなかった。
 僕は知らず知らずのうちに頷いていて、また一筋涙が溢れる。華怜はやっぱり、微笑んでくれた。
「ごめん……ごめんな、華怜。お父さん、全然約束守れなくてっ……」
「ゆるしてあげるよ。でも、」
 僕から少し離れた後、華怜は右手の小指を差し出してきた。僕はその意味がすぐにわかって、小指を差し出す。
「おとーさんのごほん、ちゃんとかれんによませてね」
「うんっ、約束するっ……」
「やくそくやぶったら、はりせんぼんだよ?」
「もう約束は破らないから、安心して」
 絡めた指を数回振った後、どちらからともなくそれを離した。いろんな約束を反故にしちゃったけれど、これだけは何があっても守りたいと思う。守らなきゃ、高校生の華怜が僕のことを心配してしまう。
 それから華怜は頬を染めて「やっぱり、はりせんぼんはいたいから、やくそくやぶったらよるごはんぬきね」と訂正した。僕はようやくそれにくすりと笑って、見守ってくれていたみんなも連鎖するように笑いあう。華怜は恥ずかしさで頬を染めた。
 僕は今、とても幸せだった。
 君は今、どこにいるのだろう。色々と君について理解したことがあるけれど、それだけが唯一分からなかったことだ。
 もう、元の場所へと帰ったのだろうか。それともまだこの世界のどこかにいるのか。もしこの世界にいるのなら、見つけてあげなきゃいけないと思った。だって出会った時のように、道端で倒れているかもしれないじゃないか。
 じゃあ、それはどうやってみつける?
 その方法は案外とすぐに思いついた。何年かかるか分からないけれど、きっと果たせると思う。だって僕は小説家になると決めたのだから。
 もし、もうこの世界にいなかったとしても、それは決して無駄になんてならない。
 君が、この世界にいたのだという証を残せるのだから。
 僕はまた、前を歩き出す決心をした。

記憶喪失の君と、君だけを忘れてしまった僕(終)

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