どうやら華怜の作っていた料理はキッシュというものらしい。
 オーブンから取り出した時にはもうふっくらしていて、それはどこかお好み焼きに似ていた。
 大皿に移して、ホールケーキを切る要領で僕が切り分けていく。華怜は味噌汁とご飯をよそってくれて、二人ぶんの食事がテーブルの上へ並べられた。
「いただきます」とお互いに手を合わせ、まず華怜の作ってくれたキッシュに箸を伸ばす。チラと華怜を盗み見ると、固まったまま僕の反応を伺っていた。
 それに苦笑してキッシュを口の中へ入れると、様々な味が勢いよく広がった。まず、ウインナー。そしてほうれん草。
 生地はもちろんふわふわしていて、食感はお好み焼きのよう。チーズがいい感じに味を主張していて、とても美味しかった。
 それを言葉にして伝えなくとも表情で伝わったようで、華怜は口を大きく開けて嬉しさを表現していた。
「これ、びっくりするほど美味しいね。華怜も冷めないうちに食べなよ」
「はいっ!」
 華怜も口の中へキッシュを放り込み、きっと僕と同じような表情を浮かべる。
 なんか、いい雰囲気だなと思った。
「チーズがいいアクセントになってるね」
「私、チーズ好きなんです。だからちょっと多めに入れてみました」
「あぁ、そうなんだ。実は僕も好きなんだよ」
「似てますね、私たち」
 やや顔を右に傾けて、彼女は微笑む。
「りんごも好きなんですけど、梨の方が好きですね」
「僕も、りんごより梨のほうが好きだよ」
「カレーより、シチューですよね」
「クリームシチューより、ビーフシチュー」
 くすりと、華怜はもう一度微笑む。
「焼肉にかけるタレは甘口派ですか? 辛口派ですか?」
「焼肉にタレはかけないよ。昔からレモンをかけて食べてるんだ」
「やっぱり、なんだかそう言うと思いました」
「引っかけようとした?」
「そうですね、もしかしたら合わせてくれてるのかもって思ってしまったんです。でも、」
 そこで一度言葉を区切って、柔らかい笑みを作りながら「安心しました」と言った。
 僕はこの時、いろいろなものをすっ飛ばして、過程を無視して、華怜の両親が見つかる前に思いを告白しようと決意した。
 気を合わせるんじゃなくて、気が合う。こんな人と出会ったのは、多分生まれて初めてのことだ。
「目玉焼きは、半熟だよね」
 返ってくる言葉を予想して、勝手に華怜は微笑んでくれると思った。
 だけどその予想に反して、彼女は「信じられない」といったように瞳を見開いている。どこか怒っているようにも見えた。
「目玉焼きは、固焼きですよね?」
「えっ?」
 また試しているのかと思って、それが分かってしまった僕はクスリと笑う。その手に引っかかりはしない。
「いやいや半熟だよ。トロッとした黄身と白身を合わせて食べたら美味しいじゃん。華怜もそう思うでしょ?」
 華怜の笑顔が急にわかりやすく引きつる。
「いやいや」
「いやいや」
 しばらく静寂の中お互いを見つめ合い、しびれを切らしたのか、華怜は机を両手で叩いた。
「目玉焼きは固焼きですっ!」
「目玉焼きは半熟だから! 固焼きなんてありえない!」
「信じられません! 固焼きの目玉焼きに塩胡椒を振りかけて食べるのが美味しいんじゃないですか! そっちの方がありえません!」
「固焼きの目玉焼きなんて、ゆで卵でも食べてればいいだろ!」
 バカみたいな会話の応酬をしばらく繰り広げた僕らは、味噌汁が冷め始めた頃、華怜が疲れて息切れしたのを見てようやく冷静になった。僕も若干息を切らしている。
 先に謝ったのは彼女の方だった。
「ごめんなさい、失礼なことを言っちゃって……」
「僕も、ごめん……ちょっと色々言いすぎた」
「感じ方は人それぞれですもんね。固めの目玉焼きも、たまに食べるなら美味しいと思います」
 ちょっとその言い方は引っかかったけれど、僕は抑えた。華怜にきっと悪気はない。
 それより、僕が年上だからか少し距離があった気がして不安だったのだ。華怜が自分の主張を押し通してくるのは、どんな物事であれ良い変化だと思う。
 それに、
「半熟の方が好きだけど、僕も塩胡椒をかけて食べるよ。トロトロの身に馴染ませて食べるとすごく美味しいから、今度試してみなよ」
 こういう些細なところは似ていて、やっぱり僕は嬉しかった。
「あっ! じゃあ、明日の朝は目玉焼きにしますね!」なんてことを笑顔で言うものだから、持っていた箸を落としてしまう。
 手持ち無沙汰になってしまったことと、静かになってしまったことが災いして、僕は「テ、テレビ付けようか。なんか面白い番組やってるかもしれないし」と言ってしまった。
 もちろん面白い番組なんてやってるわけない。それでも発言してしまった手前、今更取り消すのは不自然だ。
 それに華怜も乗り気な表情をしているし……と考えて、そういえば彼女は知らないのかと思い立った。記憶喪失なんだから、当然だった。
 僕はテレビを付ける。
 今もなお、ニュースは飛行機事故のことを取り上げていた。飛行機が墜落して、たくさんの死傷者が出て……もう嫌になるほど聞いたから、今更説明する必要もないだろう。
「飛行機、落ちたんですか……?」
「らしいね……」
 あんなに元気だったのに、華怜の表情は蒼白に変わる。こんなの、夜ご飯の時に見るべき内容ではない。
 かといって、今はどのチャンネルも飛行機事故の話題で持ちきりだから電源を落とした。
 同時に静寂も落ちる。
 先にそれを破ったのは華怜だった。
「……何があったか、聞かせてもらえませんか?」
 そう訊いてきた華怜の表情は、やはり穏やかなものではない。未だ少し青ざめていて、どことなく体調が悪そうだ。
 いずれどこかで知ることだから、話しておいても構わないだろう。
 日本の航空機が墜落した。整備ミスが引き金になって起きた出来事で、たくさんの死傷者を出して、その中には高校二年の修学旅行生も含まれていたらしい。
 僕は意図的にニュースを見ていないから詳しいことまでは分からないけれど、おそらく今語った内容に齟齬はないだろう。
 華怜は右手をおでこに当てて、苦しそうに目をつぶった。
「大丈夫?」そう訊くと、「大丈夫です……ちょっと、めまいがしただけで……」と返した。
 やはり、食事の時にこんな話をしてはいけない。
「私が記憶を失う前に、そんなことがあったんですね……」
「もうやめようか、こんな話。良い話じゃないよ」
「そうですね……」
 そう言った後、華怜は冷めた味噌汁を飲み始めた。温め直そうか訊こうと思ったけれど、出しかけた言葉は引っ込み、僕は代わりの言葉を投げかける。
「涙……」
「……えっ?」
 涙が流れていた。綺麗な瞳から、雨が滴り落ちるように頬を濡らしながら。
 華怜はそれに遅れて気がつき、袖で涙を拭おうとして……持っていた味噌汁を机の上にぶちまけてしまった。
「ご、ごめんなさい」
「いいから」
 涙を流している華怜にハンカチを渡す。それで目元を拭っているうちに、こぼれてしまった味噌汁を布巾で拭いた。彼女はまだ涙が止まらないようで、同時に申し訳なさそうに口元を引きむすんでいる。
 幸い、大皿のキッシュには一滴もかからなかった。
「ほんとにごめんなさい……!」
「気にしなくていいよ。ちょうど冷めちゃってたから、温め直そう」
 こぼれてしまったお椀に余っていた味噌汁を追加した後、二人ぶんをレンジに入れて数秒加熱する。それを持って居間に戻ると、もう涙は収まっていた。
 おそらく飛行機事故の話を聞いて、悲しくなったのだろう。災害と同じで、大勢の人が亡くなったのだから仕方がない。
 それからも華怜は謝り続けたが、本当に気にしていないから怒ったりはしなかった。
 だけど味噌汁を飲んでいる時、飛行機事故のことが頭をよぎったのかそれとも別のことなのかは分からないけれど、思い出したように涙を流し続けている。
 間違った触れ方をしたら壊れてしまいそうだと錯覚して、僕は気を使いつつもそっとしておくことにした。
 夜ご飯を食べ終わり、先に華怜がお風呂へ入って、僕はその間部屋の外へ出る。
 もう夏だというのに、夜はまだ肌寒い。
 やがて僕も風呂へ入り、寝る支度を整えた後、薄いタオルケットを羽織って座布団の上へ横になる。
「公生さんが使ってください……」と言ったが、布団の所有権は華怜へ明け渡した。女の子を床の上に寝かせるわけにもいかない。
 そして電気を消してしばらくしても、僕は眠ることができなかった。もちろん、すぐそばに華怜がいるからだ。
 邪魔だとかそういう理由ではなく、気になって仕方がない。意識しなくても彼女の匂いは漂ってきて、僕の思考を乱れさせる。きっと様々な場所に、彼女の匂いが染みついてしまっているのだろう。
 それでも必死に目をつむっていると、身体に暖かいものが被せられる。それは毛布だった。
 背中にピタリと小さい身体が密着してくる。それが震えていると分かった僕は、それほど取り乱したり動揺したりはしなかった。
「大丈夫だから」
 そう言って、華怜を安心させる。
 大丈夫だ。華怜が不安になることなんて、何一つない。
 小さく「ありがとうございます……」とささやき声が聞こえた。しばらくするとかすかな寝息が聞こえてきて、僕も安心して目を閉じる。
 あの時、どうして華怜が泣いていたのか。
 その真意を知るのは、もっとずっと先のことになる。
 そんな予感が、僕の心の中にすでにあった。