その一行目を見た茉莉華は、僕の腕を掴み震わせながら、その長い手紙を一緒に見た。

『もし別の方がこの手紙を先に見つけてしまったら、そっと元の場所に戻してくれると嬉しいです。おそらく数年後に、二人がここへやって来て見つけれくれると思います』
『この手紙を読んでいる頃には、きっと私のことを忘れているかもしれません。もしかすると手違いがあって、これは読まれないかもしれません。だけど、たとえ忘れていたとしても、たとえ読まれなかったとしても、大切な二人のために、この手紙を残したいと思います。
 どうしてあの時、あの瞬間に私が公生さんの前に現れたのかをずっと考えていました。二〇十八年の五月二十一日。残された短い時間でそれを考え続けて、ようやく結論のようなものを見つけることができました。
 私はその理由を『たまたま』だと言いましたが、たぶん、そう、公生さんの言った通り、偶然なんかじゃなかったんだと思います。だってそれは私も、もちろん公生さんも望んでいたことだからです。
 それは必然・運命なんかじゃ言い表せないほど奇跡的なもので、だけど私はそのチャンスを大きな失敗で逃してしまいました。
 大切な思い出を、記憶喪失という形で失ってしまったんです。せっかく与えられたチャンスなのに、私は全然それを活かすことができませんでした。ただあなたとの毎日が楽しくて、毎日が嬉しいことの連続で、記憶なんてなくてもいいじゃないかと思ってしまいました。
 あなたは、何もかもが不確かな私を、全てを失った私を愛してくれたから。何も持っていない私を愛してくれたから。
 私が愛されていると自覚するたびに、自分自身の記憶に蓋をするようになりました。思い出した時、私は公生さんにふさわしい人間であるかが怖かったからです。もし、何かの罪を犯していたら、悪いことをしていたらと考えると、不安で不安で仕方ありませんでした。
 そんな時に、公生さんは言ってくれたんです。
 どんな私だったとしても、嫌いになんてならない。どんな私でも好きになってくれるって。
 何者なのかもわからなかった私は、ただただ嬉しくて、満たされて、もし叶うのなら、ずっとそばにいたいと本当に心の底から思いました。
 将来、公生さんが大学を卒業したらすぐに結婚をして、家で家事をしながら小説のお手伝いをして、ずっと一緒に、幸せに暮らすことを夢に見ていました。
 上手くいかないときは私が励まして、いつか公生さんのためにアルバイトをしようとも考えていました。
 でもそんなこと、願ったらダメなことだったんです。記憶を取り戻してすぐ、私はなんてことをしてしまったんだと思いました。いっそのこと死んじゃえばよかったのに……とも。
 だけど頭では考えていても、そんなことはできませんでした。すべての事実を受け入れても、知ってしまっても、そばにいたいと欲を張ってしまったんです。
 たとえ全てを裏切る行為だったとしても、公生さんのことが好きだったから……
 公生さんが茉莉華さんと出会ったとき、運命って言葉は本当にあるんだなって思いました。私のやっていたことは二人の邪魔ばかりで、入りこむ隙間なんてどこにもなかったんです。
 だから公生さんと茉莉華さんが出会ったあの日を最後に、この恋から身を引こうと自分の中で決心しました。二十五日で最後だと、自分に言い聞かせました。
 だけど日付をまたいだ時に、やっぱり諦めきれなくて、公生さんのことを困らせてしまいました。
 茉莉華さん、ごめんなさい。大切な公生さんを取ろうとしてごめんなさい。
 言い訳がましいかもしれませんが、公生さんを茉莉華さんに返すために、たくさん努力をしたんです。
 このままじゃダメだと思ったから、必死に嫌われる努力をしました。公生さんの言葉を無視して、勝手にスマホを触って勝手にメールを送って、嘘をついてみたり、お皿を落としたり……食べ物をこぼしてみたり、自分で着替えをしなかったり……
 だけど、ダメでした。私がどんな悪いことをしても、公生さんは私のことを嫌いになんてなってくれませんでした。
 公生さんが茉莉華さん以外の女性の話を楽しげにしている時、思わず本気で怒ってしまいました。それはたぶん、私自身の嫉妬も含まれていたんだと思います。
 だから私は思わず、公生さんのことをぶってしまいました。あんなこと、するはずじゃなかったのに。でもこれで私のことを嫌いになってくれると、嬉しくもありました。
 だけど公生さんは私のことを優しく抱きしめるだけで、嫌いになんてなってくれませんでした。だからその理由を知った時、私は心の底から涙を流しました。
 あんなにも私のことを愛してくれていて、とてもとても、言葉じゃ言い表せないぐらい嬉しかったんです。
 私も公生さんのことを嫌いになんてなれないから。だから私は、公生さんの前から去ることを決めました。私がいると、茉莉華さんにも迷惑をかけてしまうと思ったから……

 手紙一枚で部屋を出ていって、ごめんなさい。本当はちゃんと公生さんに事情を話してから、あの場所を去りたかったです。勝手なことをして、本当にごめんなさい。
 これが、一週間の間に私が感じていたことの全てです。
 手紙なんて残すのはダメだと思いましたが、私の本当の気持ちを知ってもらいたくて書き記しました。気に入らなかったら、忘れてしまっていたら、破って捨ててしまってください。

 ここから先は純粋に、三十歳になった公生さんと茉莉華さんのために書きたいと思います。
 そうはいっても、実は心残りはあまりありません。私が聞いたりしなくても、十年後の二人はとっても仲良しだと知っていますから。
 ほんと、妬けちゃうぐらい仲が良いよね二人とも。
 これを掘り起こしたってことは、みんながまだ一緒にいるっていう何よりの証拠だから。だから、特別書きたいことは残っていません。
 でも、一つだけ心残りがあるとしたら……
 公生さんは、小説家になれた? 
 私との約束、ちゃんと覚えてるよね。
 私のために小説を書いてくれるって。今の私はそれを読めないけれど、少し大きくなった私に、たくさんたくさん読ませてあげて。ほんとは私も読みたかったんだけど、もう叶わないことだから。
 私はあなたの夢の手伝いを出来たことを、いつまでも誇りに思うよ。
 
 きっと有名になって、いろんな人が公生さんのことを好きになってると思う。それを茉莉華さんがほんのちょっぴり妬いちゃって、六歳になった私が声を出しながら笑っちゃうの。
 六歳の私は一生懸命公生さんを励まして、三十歳の茉莉華さんは公生さんをサポートしてあげる。そんな未来がいいな。そんな未来だったら、私の頑張った甲斐があるよね。
 もし、小説家になれていなかったとしたら……さすがに恥ずかしいけど、桜の木の下に埋めるはずだった手紙を読んでみて。
 そこにたぶん、全てが書いてあるから。私は恥ずかしがるかもしれないけど、他でもない私が許してあげるから、遠慮なく見ていいよ。
 それを見てもしもう一度頑張れるなら、今度は目の前にいる私と茉莉華さんのために、小説家を目指してあげて。
 公生さんなら、きっとまた立ち直れるはずだから。私はいつだって信じてるよ。
 本当は伝えたいこととか教えたいこととか、もっとたくさんあるんだけど、さすがにそれはルール違反だと思うから書けません。だから、遠回しに……
 これから先、私が公生さんに変な態度を取っちゃったら、あの一週間の出来事を思い返してあげて。たぶん私は素直になんてなれないと思うから、公生さんの方から歩み寄ってくれると嬉しいな。
 心残りなんてないって言ったのに、いろいろと注文付けちゃってごめんね。怒ってると思ったけど、たぶん公生さんのことだから怒ってないんだろうね。公生さんは、とっても優しい人だから。
 茉莉華さん。公生さんともっともっと幸せになって、小学生中学生になった私を、たくさん妬かせてあげてね。
 締めの言葉がなかなか思い浮かばなかったけど、決めました。最後は華怜じゃなくて、二人の娘として書きたいと思います。
 私、ずっとずっと二人のことが大好きだよ。他の誰より、あなたたちのことが。
 さようならは言わないよ。きっとまた、会えるから。
 だから今は一つだけ、
 ありがとう
 私を産んでくれて、本当にありがとう。
 お父さんとお母さんのことをずっとずっと愛しています。
 結局、二つになっちゃったね(笑)
 最後だから、笑って許してあげてください。
 二人の大切な娘より。
 小鳥遊華怜。

※※※※