「お腹の子が生まれてくる前に、もう少し広い部屋へ引っ越そうか」

 茉莉華の隣で優しく手を握りながら僕は言った。大きくなったお腹を優しく撫でると、幸福そうな表情を浮かべてにこりと微笑む。

「ちょっと名残惜しいけど、三人で暮らすには少し狭いもんね」
「僕も、名残惜しい」

 思えばこの部屋でいろんなことがあった。落ち込んでいた僕を励ましてくれたこともあったし、始めて肌を重ねた場所もここだった。

 いつの間にか実家よりも心安らぐ場所になっていたことに気付いて、僕はとても心の内側が暖かくなる。好きな人と毎日一緒に居られることが、こんなにも幸福なことなのだと、僕は今まで知らなかった。

 茉莉華が産休を取ってからは、仕事から部屋に戻ればいつも暖かい空間で出迎えてくれる。そういうことに至高の喜びを感じていた。

 結婚をしない若者が増えてきていると言われてるけど、僕は心の底から結婚できてよかったと思っている。もちろん喧嘩をすることもあるけど、それは本当に些細なことだ。次の日にはけろっと忘れていて、僕らはいつも通り笑いあっている。

 窓の外へ視線を向けると、例年より少し早い初雪が降っていた。もうそろそろ雪は全てを覆い尽くし、やがて雪解けと共に桜が芽吹き始めて、お腹の子どもが産まれてくる。

 どんな名前をつけようか。

 茉莉華は机の上にあるメモ用紙に、スラスラと候補を書いた。

「春ちゃんっていうのはどうかな? 春に産まれてくるから、小鳥遊『春』ちゃん」
「それなら小鳥遊『桜』っていうのも良いんじゃないかな」
「さくらにするなら、『桜良』の方が私は好きかな」

 くすりと笑い合う。茉莉華らしいなと思った。

「今はキラキラネームが流行ってるけど、茉莉華はそういうの付けたいと思わないの?」
「それは嫌。大人になった時に、名前で苦労しそうだもん。公生くんはそういう名前付けたいの?」
「僕も、出来るだけ普通の名前がいいかも。普通っていっても、ちゃんと名前に意味があるってことね」
「んー、難しいね」

 お互いに首をひねる。

 僕はふと思いつき、その名前を紙に書く。

「じゃあ、『卯月』っていうのはどうかな?」
「どうして卯月?」
「ほら、四月の陰暦は卯月だから」
「んー、卯月ちゃんかぁ」

 少し微妙そうな反応をしている。それならまだ、桜良の方が茉莉華は好みなんだろう。

 今度は花言葉で攻めてみることにした。スマホで桜の花言葉を調べてみると、『精神の美』『優美な女性』だった。
 僕は個人的に、優しい女の子に育って欲しいとは思うけど、美しいというより可愛らしく育って欲しいと思っている。

 以前茉莉華もお腹を撫でながら、『可愛い女の子に育って欲しいよね』と漏らしていた。
 それならと思い、今度はその線で攻めてみようとしたら、ふと思いついたように茉莉華は再びペンを握った。

 その思いついた名前を、彼女は紙に書いていく。そして、読み上げた。

「可憐」

 僕は急に心の中が狂おしいほど締め付けられて、とても懐かしいという感情に陥った。こんな気持ちになったのは本当に久しぶりのことで、おそらく学生時代の時以来だった。だから僕は、こんな不思議な感情があることをすっかり忘れていた。

 それは茉莉華も同じく感じていたようで、柔らかく微笑みながら「なんだか、スッと心に落ちてきたの。これしかないなって思った。可愛らしく、愛らしく育ってほしいな」と名付けの理由を明かす。

 僕もそれがいいと確信したけど、これじゃあまだ安直すぎる気がした。もっとひねってみるのも面白い。

 そしてふと、思いついた。

 その思いついたことを、僕はすぐに口に出す。

「僕は、産まれてくる子どもに『小鳥遊』っていう名字をあげるから……」

 その次の言葉を、茉莉華は待っていましたという風に笑顔で答える。

「じゃあ私は、私の名前を一文字プレゼントするね」

 そうして出来上がった名前を、今度は僕が紙に書いた。

「華憐」

 しかし茉莉華はまた首を少しひねった。僕もちょっとだけ、なぜか違うなと感じる。

「憐っていう漢字、あんまり良い雰囲気の漢字じゃないよね。あわれむって、かわいそうに思うってことだから」
「そうだね。これじゃあちょっとだけかわいそうかも」

 僕はそれからもう一度代わりの文字がないかを探した。そして、すぐに見つける。

 怜という文字もあわれむという意味があるらしいけど、それは憐とは違って『大切に思う』というニュアンスが含まれるらしい。

 あぁ、もうこれしかないなと思った。その意味を伝えると、茉莉華はようやく笑顔に満足げな表情を加えた。

 その名前を、僕は紙に書く。
 なぜか、その瞬間に瞳から涙が溢れてきた。それは茉莉華も同じだったようで、泣きながら僕の方へと寄りかかってきた。

 涙の理由を僕たちはまだ知らない。だけど寂しさや悲しさじゃなくて、懐かしさや嬉しさから来ているものだとすぐに理解する。

 どうしようもないほど心の内側が満たされて、僕はもう一度その名前を読み上げる。産まれてくる子どもにぴったりな名前だと、本当にそう思った。

「小鳥遊華怜」

 それから雪解けと共に桜が咲いて、二〇二十三年の春に茉莉華のお腹の中から華怜が産まれた。二〇九百gのとても健康的な赤ちゃんで、どことなく雰囲気が茉莉華に似ている。

 母親に似たのかなと思ったけど、病室のベッドで華怜を抱き抱えながら茉莉華は「あなたにそっくりね。目元とか、公生くんにとてもよく似ているもの」と言った。

 自分の目元なんて普段は全然確認しないからそんな実感は沸かなかったけど、並んで鏡で確認してみると本当にそっくりだった。

 きっと華怜は、ちょっとずつ僕と茉莉華に似ているのだ。

 奈雪さんも、後から遅れて病院に駆けつけてくれた。少し大きくなった公介くんを背中に背負っている。

 茉莉華が抱きかかえる華怜を見て、柔らかい頬を撫でながら笑顔でぽつりと呟いた。

「本当だ、どことなく公生くんに似てる気がするよ。ほら、目元とか」

 それから、また言葉を重ねた。

「でも茉莉華さんにも、とっても似ている。華怜ちゃんは本当に可愛い女の子だ」

 すると華怜は「んああああああ!」と泣き始めて、奈雪さんは苦笑しつつも頬から手を離す。離した瞬間にすぐ泣き止んで笑顔になったから、少し面白かった。華怜はお母さんが大好きらしい。

「ほら、公生くんも抱いてみなよ」
「怖がらないかな?」
「怖がるわけないじゃない。私とあなたの子どもよ?」

 そう言われて恐る恐る華怜を抱いてみると、思っていたよりずっと重かった。元気に産まれてくれて、本当に嬉しい。僕の心は多幸感に包まれていた。

 嬉しくて嬉しくて、華怜の頬へ僕の頬をすり合わせる。すると華怜は少し笑ってくれた。

「あなたのことが、とっても大好きなのね」
「公生くんは華怜ちゃんに愛されてるね」

 二人にそう言われて、僕は顔が熱くなった。そんな僕をみて華怜はまた笑顔になる。

 それから奈雪さんの背負っていた公介くんが起きて、眠い目をこすっていた。

「ママ……?」
「ほら、公介。ママの友達の、大切な子どもだ。華怜ちゃんっていうのよ」
「かれん……?」

 公介くんは眠気まなこで華怜のことを見つめる。しかしすぐに目を逸らして、子どもながらに照れているんだとわかった。

 僕らはそんな公介くんに笑い合い、ひとしきり一つの生命の誕生を喜び合った。