二人分のお茶を入れようと思って用意していたら、嬉野さんに止められた。曰く「病み上がりなんだから休んでて」ということらしい。
 名瀬雪菜に出会ってあれだけ興奮していたのに、こういうところは本当に気が回る人なんだなと思った。昨日部屋で料理をしたから、どこに何があるのか全て把握しているらしい。テキパキとお茶の用意をしてくれて、その最中にポツリと嬉野さんは言った。
「それにしても、キッチン周りすごく片付いてるね。昨日も思ったけど、欲しい調理器具が欲しい場所に置いてあるし、冷蔵庫の中もちゃんと整理されてるし」
「最近は自炊してたんだよ。たぶんそれで色々と整理してあるんだ」
 どうして自炊をしようと思ったのか、理由は思い出せない。
「ふーん、そうなんだ。男の子が自炊って、なんかいいね」
「たいしたものは作れないけどね」
 用意のおかげで頭が冷えたのか、嬉野さんはいつも通りの彼女に戻っていた。お茶をお盆の上へ乗せて運ぶ時、恥じらいを見せながら「なんか、ごめんね部屋の前で取り乱しちゃって。やっぱりこういうところ、直したほうがいいのかな」と言った。
「別にそのままでもいいと思うよ。夢中になれることはいいことだと思うから」
 本心を伝えると、嬉野さんは小さく微笑んだ。周りの目を気にして良いところを隠しちゃうのは、すごくもったいないと僕は思う。
 とはいっても、僕自身も控えめに振る舞ってしまう人だから説得力なんてない。
 ふと、嬉野さんは小さく呟いた。少し、頬が赤く染まっていた。
「昨日言ったこと、まだ覚えてる?」
「昨日?」
 色々あった気がして、細かなことが思い出せない。たぶん酒を飲んで記憶が飛んでいるせいもあるのだろう。
「ほら、公生くんを介抱したあと、色々とお部屋で話したでしょ? 私も、恥ずかしかったからあんまり細かくは覚えてないんだけど……」
 指先をお腹の前あたりでモジモジとさせていて、僕はようやく思い出した。そういえば、僕のことが好きだと告白されたんだ。
 どういう経緯でその告白を受けたのかは思い出せないけれど、断ったことだけは確かに覚えている。どうして断ったのか、例のごとく思い出せない。
 嬉野さんは照れを隠すように、三人分のお茶が乗ったお盆を手に持った。
「今、彼女いないんでしょ?」
 どうしてか言葉が喉の奥に引っかかって、声にならなかった。だから代わりに頷いてみせる。僕に、彼女なんていない。
 それを見た嬉野さんは安心したような表情を浮かべて、だけど端には寂しさも見てとれた。
「私、諦めてないよ。正直仕事中も、ずっとそのことばかり考えてたんだから」
「そうなんだ……」
「でも、少し引っかかることもあるの。私たちを繋いでくれた誰かがいた気がして、そのこともずっと頭の中に引っかかってて……」
「嬉野さんも?」
「もしかして、公生くんも?」
 お互いに頷きあった。この記憶は本物なのだろうか。正体不明の感情を僕らは共有しているのだということがわかって、少し安心した。
 だけど安心しただけで、それが何なのか思い出せない。
「ま、まあ、もう一度考えておいて。鬱陶しいって思うなら、もう関わらないようにするから……でも、受けてくれなくても、友達のままではいたいかも……あんな一方的な会話をずっと笑顔で聞いてくれてたの、すっごく嬉しかったから。もちろんそれだけじゃないんだけどね。それと、今度は公生くんの話も聞いてみたいかも……」
 たぶん……というかそれは真実になるのだろうけど、告白を受けるにしろ受けないにしろ、彼女との関係を切ったりはしないと思う。
 僕は、僕に好意を持ってくれた人を嫌いになんてなれない。
 その事実だけで僕は嬉しくて、本当は緊張とか色々なもので鼓動が早まっているけれど、いくらかは冷静になることができた。自然と笑みを浮かべる。
「ありがと、すっごく嬉しいよ。嬉野さんとのこと、前向きに考えてみる」
 それを聞いた彼女はパッと表情を晴れさせる。僕の言葉で彼女を笑顔に出来ていることが、たまらなく嬉しかった。
 それからお茶を持って居間へ戻ると、先輩は僕の本棚の中を物色していた。面白いものなんて何もないと思うけど……その光景は、引っ越してきたばかりの頃を思い出した。
「随分と本が増えたんだね。前の倍にはなってるんじゃない?」
「はい。休日はずっと本を読んでるので」
「私の最新刊も買ってくれてるじゃないか」
「……当然ですよ」
 隣にいた嬉野さんが、僕の服の袖を小さく引っ張ってくる。どうしたのかと思ってそちらを見ると、少し不安げな表情を浮かべていた。
 そっと、耳打ちしてくる。
「前にも、先生を部屋に入れたの……?」
「前っていうか、一年前に引っ越しの手伝いをしてくれたんだよ」
「お手伝いか……」
 ちょっと安心した表情へと変わり、僕から離れた。その行動の意味がよくわからなくて首を傾げていると、ぷいっとそっぽを向かれる。
「……どうしたの?」
「なんでもないっ」
 本当によくわからない。
 その一部始終を見ていた先輩は微妙な笑顔を浮かべていた。
「君たち、仲が良いんだね」それから嬉野さんを見て「君は、サイン会に来てくれてた子だよね。たしか茉莉華ちゃんだったかな」と言った。覚えてくれていたことが嬉しかったのか、嬉野さんは笑顔を浮かべる。
「覚えててくれたんですねっ」
「私の作品についてすごく熱く語ってくれたからね。忘れられるわけないよ」
 先輩にもあの熱弁をしていたのか。そりゃあ忘れられるわけない。嬉野さんは顔を赤くさせた。
「ご、ごめんなさい。私、夢中になるといつもあんな風になるんです……」
「書いた本人としては、すごく嬉しかったよ。ありがとね」
 嬉しかったと先輩は言ったのに、どこか違う感情を内に秘めている気がした。なんというか、寂しさがまじっている気がする。
「先生は、もう次回作の構想とか考えてるんですか?」
 その何気無い嬉野さんの質問を受けた先輩の表情は、途端に暗くなる。嬉しさの感情が寂しさに塗りつぶされたのだと、僕にはわかった。
 だから心配になって「どうしたんですか、先輩……?」と訊いてしまう。
 先輩は、答えた。
「悪いけど、もう私は先生と呼ばれる人間じゃないんだ……」
「え……?」
 嬉野さんはその言葉の意味を飲み込めずに、表情が固まる。それを気にせずに、先輩は続けた。
「新作は出さないってことだよ。作家は引退したんだ。もう出版社や担当の人にも、辞めるって伝えてきたから」
 その唐突の告白に対して黙っていられるほど、僕は穏やかじゃなかった。
「ちょっと待ってください。辞めるってどういうことですか? 新作は、前よりも売れたんですよね」
「その新作も、本当は出さないつもりだったんだよ。知っているだろ? 名瀬雪菜は不調が続いていたって」
 知っている。去年はそのせいで一冊も本を出さなかったし、引退したんじゃないかと巷で騒がれていた。
 でもそれは、ただの一意見だ。僕はずっと名瀬雪菜の小説は好きだったし、そう思ってくれている人も中にはいたはずだ。
 そんなの、辞めてしまう理由にはならない。
「先輩の小説、僕はデビュー作からずっと追いかけてました。その全部が面白かったし、辞めてしまうなんておかしいです。だいたい辞めるつもりだったなら、どうして新作なんて出したんですか。どうしてサイン会なんて開いたんですか」
「そ、そうですよ。私も、先生の小説好きですよ? 絶対に、いろんな人がそう思ってくれてるはずです。だって、サイン会にあんなに人が集まったんですから」
 どれほどサイン会に人が集まったのか、僕は知らない。なぜかその時の僕はサイン会に行かなかったのだ。どうして行かなかったのか今でも理解不能で、その時の自分を殴りたくなる。
 先輩は、儚げな表情のまま答えた。
「いろんな人に好かれていても、たった一人見てほしかった人に見てもらえなきゃ、ダメなんだよ。君も、そういう経験が少しはあるんじゃないか?」
 突然話を振られて、言葉に詰まった。僕の小説を見てほしかった人なんて、そんな人はいない。僕はずっと一人で書いてきたのだから。嬉野さんにも、このことは話していない。
 でも、どうしてだろう。先輩の言葉がどこか共感できる気がして、胸の奥がざわついた。どうしてざわついているのか、僕にはわからない。
「先輩の見てほしかった人って、誰なんですか……?」
 その問いかけに、先輩はまっすぐとは答えなかった。
「以前、君に言っただろう? 小説は作者の心みたいなものだ。面白くないって言われれば傷つくし、面白いって言われれば嬉しくなる。一番打ちひしがれている時に、励ましてくれた人がいたんだ。私はそれが嬉しくて、嬉しくて、ただただ嬉しかった。その人のために小説を書きたいと思って、寝る間も惜しんで頑張り続けた。だけど、分かってしまったんだよ」
 今までで一番か細い声で、先輩は呟いた。僕は、どうしてかは分からないけど、なぜか先輩と出会った日のことを思い出していた……
「その人は、私のことを一番に見てくれてはいないんだって。とても勝手な話だけど、一度それが分かってしまったら、もう筆は握れなくなった。だからもう、小説は書かない。それに、ちょうどいい頃合いだったんだよ。もう四回生だから、就活を始めなきゃいけないし」
 その確かな決意に、僕も嬉野さんもそれ以上口を挟むことはできなかった。先輩は、まだ淹れたお茶を半分も飲んでいないのに立ち上がって「それじゃあ、私はやることがあるから」と言って部屋を出ていった。
 僕は心が揺れていた、というより焦っていた。嬉野さんは人知れず涙を流している。
 それは自惚れなのかもしれない。だけど鈍感な僕は、一つの正解かもしれない答えを導き出していた。
 嬉野さんが言うには、名瀬雪菜はサイン会の時に誰かを探していたらしい。その誰かが、おそらく先輩を励ましてくれた人なのだろう。その人のために小説を書いて、だけどその人はサイン会に現れなかった。
 不調の時に励ましてくれた人。先輩はずっと、部屋にこもりきりな人だった。名瀬雪菜はずっと素性を明かさなかったし、直接的に七瀬奈雪が名瀬雪菜であることを知っていた人なんて、おそらく一人もいない。
 何も知らない僕は、先輩に名瀬雪菜のことを熱弁していた。そして先輩は言ったのだ。
『きっと本人がそれを知ったら、とっても喜ぶんじゃないかな』
 僕は、そうは思いたくなかった。僕という人間が先輩の行動を変えて、先輩の辿るはずだった道を壊してしまったなんて。
 あのサイン会はほんの些細な事のように見えて、実はいろいろな出来事の分岐点だったのかもしれない。
 何気なく過ぎ去っていく一瞬一瞬の時間の中にも、とてもかけがえのない瞬間が存在するのだと僕は思う。それは小さな引き金になって、後々の人生に多大な影響を及ぼす。
 たとえば僕が名瀬雪菜の本を読んだ瞬間。
 あの一瞬、あの時間に名瀬雪菜の書いた本を読まなければ、きっと小説家になるなんて夢は生まれなかった。
 だけど僕はその夢を失ってしまった。もしかすると、あの瞬間に何か特別な経験をしていたら、その夢は継続されていたのかもしれない。
 サイン会へ行かなかった。
 そういうちょっとした出来事も、後々に自分の人生を大きく変えることになるのかもしれない。
 玉突きのように、蝶の羽ばたきのように。
 僕はそれを知って、怖くなった。他の人の人生に多大な影響を及ぼしたかもしれなくて、怖くなった。
 だから僕は逃げたのだ。なるべく、ただの勘違いだと自分に言い聞かせた。僕という人間が先輩の人生を変えるなんて、そんなことありえない。
 先輩にはきっと大切な人がいて、その人がサイン会に来なかったのだと。そう思い込むことにした。
 そうしないと、僕は僕が冷静でいられなくなると思ったから……