別々に薬を買って外へ出ると、もう完全に日は沈んでいた。
 嬉野さんは僕らの方へ振り返り、笑みを浮かべる。
「サイン会にも行けて、素敵なお友達が二人も出来て、今日はとても嬉しい日でした」
 きっと本心からそう思っているのだと、珍しく僕はそのままの意味で受け取ることができた。それはおそらく、彼女が誠実な人間であるという証拠なのだろう。
「私も、茉莉華さんとお友達になれてよかったです」
「そう? 嬉しいなっ」
 もう二人はくだけていて、まるで姉妹のように笑いあっていた。もしかすると相性がいいのかもしれない。
 それから嬉野さんはこちらを見て「もうそろそろ家に帰って晩御飯の支度をしないといけないので、今日はこれで」と丁寧に別れの挨拶をした。
 僕も、いつまでもたじろいでいてはいけないと思い直し、笑みを貼り付ける。
「いえ、今日は本当にありがとうございます」
「また、そのうち三人でお話しましょうね」
 華怜にも柔らかい微笑みを向けて、嬉野さんは横断歩道を渡り向こうへと歩いていった。その姿が見えなくなるまで見送った後、華怜はぽつりと呟く。
 怒られる、ふいにそう思った。
「茉莉華さん、良い人でしたね」
 違った。
 それはいつも通りの声色だった。
「ごめん、華怜」
「どうして謝るんですか?」
「女の人と話しちゃった。連絡先も交換しちゃったし」
「気にしてません」
「ごめん」
「だから、気にしてません」
 怒っていない、のだろうか。やっぱり記憶を取り戻したから、仲の良い人を作りたいだけなのかもしれない。
 もしそうなのだとしたら、本当にこれからも嬉野さんと関わることが増えるのかも。そう考えると、僕もちょっとだけ嬉しい。それは名瀬雪菜の話を語り合えるからであって、それ以外の他意は一切ない。
「帰りましょうか」
「そうだね」
 華怜の言葉で僕は意識が戻され、アパートへの道のりを歩いていく。その間、華怜はずっと無言で、行きと同じく寝てしまったのかと思った。
 だけどふいに、華怜が僕の首元あたりに鼻を近付けてきたから、寝ていなかったのだと気付く。
 どうしたのかなと考えていると、すーっと息を吸い込んできた。その後に口元から深呼吸のように息を吐き出し、僕の首元に暖かい息がかかる。
ぶるっと、全身の毛が逆立った。こしょがしい。
「ど、どうしたの?」
「良い匂いだなって思ったんです」
「今日はまだ風呂入ってないよ?」
「シャンプーじゃなくて、公生さんの匂いです。安心するんです」
 そう言うと、また勢いよく匂いを嗅いできて、ふっと吐き出した。僕はまた身震いして、変な声が出そうになるのを耐える。
「安心した?」
「安心しました」
「それならよかった」
 お互いにくすりと笑い合う。
「今日は帰ったら、小説を書きましょう」
「いいね、書こうか」
「書いた小説は読み聞かせてください」
「それはちょっと恥ずかしいね」
「公生さんの膝の上に頭を乗せながら、聞きますね」
 昨日の膝枕はちょっと恥ずかしかったけれど、二人だけの空間なら別に構わない。
「眠るときは、楽しいお話をたくさんしてくださいね」
「もちろん。華怜が眠るまで、そばにいるから」
「ありがとうございます」
 また、僕の匂いを嗅いできた。それはまるで、僕の匂いを忘れたりしないように刻みつけているみたいで、どうしようもなく心がざわついた。
 どこにも行ったりしないよね?
 そう訊こうと思ったけれど、声にはならなかった。ずっと一緒にいると約束したのだから、どこにも行ったりするはずがない。
 余計なことを考えるのは僕の悪い癖だ。そんなこと、起きるはずがない。
 それからアパートへと帰って華怜に薬を飲ませ、約束通りに小説の短編を書いた。内容は、よくある恋愛小説だ。
 ありきたりすぎて説明する必要もない話だけれど、それでも華怜は真剣に膝の上で耳を傾けてくれた。小説を読みながら頭も撫でてあげると、くすぐったそうに身をよじる。
「小説家、なってくださいね?」
 華怜は唐突に、そんなことを呟いた。
「華怜のために、小説家になるって決めたから」
「絶対に諦めないでくださいね」
「絶対に諦めるもんか」
「出版したら、朝から並んで買いに行きます」
「一番にサインしてあげるよ。ううん、華怜のだけにサインしてあげる」
「嬉しいです」
 スッと華怜は鼻をすすった。
「そろそろ、寝ましょうか」
「そうだね」
 少し残念だけど、もう夜も更けている。
 布団を敷いて明かりを消して横になると、華怜もすぐ隣に横になった。いつもよりその距離はずっと近い。
「抱きしめてください」と言ってきたから、僕は何もためらわずに抱きしめてあげた。
 華怜は向こうを向いていたから、後ろから抱きしめる形になる。
「これでいい?」
「安心します」
「それはよかった」
「楽しい話、してください」
 僕はすぐに、楽しい話を思い浮かべた。
「二人で駆け落ちした後、経済的に豊かになったら、何人子どもがほしいかな」
「いきなり、ですね」
「将来の夢を語るのは楽しいでしょ?」
 くすっと腕の中で笑ったから、僕もつられて微笑む。こういう話は、心の中に秘めているより口に出した方が叶う気がする。
「子どもは、別に作らなくていいですよ」
「どうして?」
「公生さんと一緒にいられる時間が減っちゃうからです」
 やっぱり華怜はヤキモチの塊みたいな人だ。将来僕らの間に子どもができて、その子どもと仲良く遊んでいると、顔を真っ赤にさせて肩をぽかぽかと叩いてくるかもしれない。
 そう考えると、面白くて楽しくて、なんだかいいなと思ってしまった。
「どうして笑うんですか?」
「いや、なんだか面白いなって」
「面白いですか?」
「嬉しい」
 華怜はおそらく唇を尖らせて、むすっとした表情を浮かべたのだと思う。
「小説がたくさん売れたら、どこかに旅行へ行こうか」
「いいですね。でも、電車か新幹線で行ける距離がいいです」
「どうして?」
「飛行機は、怖いですから……」
 小さな身体をさらに縮こませたから、僕はさらに強く抱きしめてあげる。確かに、飛行機は怖い。それは日本の国民すべてに植え付けられた消えない記憶だと思う。
「じゃあ、飛行機は使わないことにしよう」
「危ないですから、絶対に乗らないでくださいね」
「絶対に乗らないよ」
 心配性な華怜は念を押してくる。僕はしっかりと頷いた。
「じゃあ、京都に行くのがいいかもね。あそこはいろんな観光名所があるから」
「金閣寺とか、一度見てみたいです」
「いいね。僕も行きたい。ちなみに金閣寺が金色なのは、表面に金箔が張られてるからなんだよ。実はその金箔はここの県で作られてるんだって」
「物知りですね」
「高校の頃に授業で習ったんだ」
 たまに豆知識を披露すると、関心したように頷いて、真剣に聞き入ってくれた。
「ふと思ったんだけど、京都に住むのもいいかもね。毎日観光に行けるから」
「それもいいですね。私、着物も着てみたいですし」
「着物ならいつでも買ってあげるよ。今年の夏は着物を着て川辺に花火を見に行こうか」
「花火、大好きです」
「僕も大好きだよ」
「大きな花火もいいですけど、線香花火もいいですよね」
「パチパチ火花が散るのが、儚い感じがしていいよね」
 もうそろそろ花火の季節だから、一緒に遊べるのかと思うと今から楽しみで仕方がない。
「秋は紅葉を見に行こうか」
「また、緑地公園に遊びに行きましょう」
「冬はスキーをするのもいいかもね」
「スキー、出来るんですか?」
「実は、やったことない……」
 華怜が小さく笑ったから、僕は少し顔が熱くなった。元々運動はそこまで得意じゃないのだ。
「スキーがダメなら、ソリでもいいですよ」
「じゃあ一緒のソリに乗って滑ろっか」
「いいですね、それ」
 また二人で笑い合う。
 ふと、月明かりを頼りに時計を見ると、あと数秒で今日が終わる時間になっていた。華怜は風邪を引いているから、そろそろ寝ないと悪化するかもしれない。
 そうこうしているうちに、金曜日は終わりを告げた。

五月二十六日 (土)
「もう日付が変わったから、寝よっか」
 僕がそう言うと、腕の中の華怜はピクリと身体を震わせた。どうしたのかと思い様子を伺うも、その表情は見ることができない。
「もう、そんな時間なんですね……早すぎます……」
「だね……もっと話していたいけど」
「寝ましょっか」
 小さく呟いたあと、華怜はようやく僕の方へ振り向いてくれた。
 振り向いてくれて、ようやく僕は気付いた。
 さっきからずっと、華怜は涙を流していたんだ。
 大きな瞳から大粒の涙が溢れていて、頬を絶えることなく濡らし続けていた。
「華怜、どうしたの……?」
 その問いの答えを返す前に、華怜は僕の首へ腕を絡めてきて、唇を重ね合わせてきた。熱くて、暖かくて、やっぱりそれだけで僕の心は満たされる。
 何度か経験したその行為は、そのどれもが神秘的なものだった。
 やがて唇が離れると、僕は息をするのを再開させる。そうしようとして、また塞がれた。僕はただ華怜のその行為を受け入れる。
 満足したのか疲れたのか、華怜はようやくキスをやめた。僕の胸に顔を埋めて、身体を震わせる。僕はただ、抱きしめた。
「朝になれば、いつも通りの私に戻りますから……」
「うん」
「だから今だけは、許して下さい……!」
「大丈夫だよ」
 そう言うと、華怜は声を押し殺して泣き始めた。どうして泣いているのか、どうしてキスをしてきたのか。本当の意味は、その時の僕には分からなかった。それがわかるのは、この物語の終着点。ずっとずっと、先の事だ。
 僕は分からないなりに精一杯彼女のことを抱きしめ続けて、そばにいるよと囁き続ける。
 結局その後、華怜は糸がプツリと切れたように眠りについた。いつも通り安らかな寝息を立て始める。
 僕もそれに安心して、まぶたを閉じた。
 どうか明日も、笑顔でいられますようにと、ただそれだけを願いながら、僕も安らかに眠りについた。