「ただいま。」

背中に声をかけられて、乃亜の問題集をコピーしていたみちかは振り向く。
リネンのジャケットに珍しくノーネクタイの悟がリビングに顔を出していた。

「お帰りなさい。」

時計は23時半だった。
思わずその顔をじっと見つめ、朝もノーネクタイだったかしらと考える。
すぐに自室へと向かうそのあとを追い、「あのね。」と、みちかは話しかけた。

「来週の土曜日、ルツ女の説明会があるでしょう。10時開始だけど…、大丈夫?」

悟はジャケットを脱ぎ、時計を外しながら相槌をうった。
そのジャケットを受け取りハンガーにかける。
いつもの悟の香りに、他の香りが混ざったりしていないだろうかと思わず勘ぐってしまう。
悟が出て行き部屋に取り残されると、無造作にテーブルに置かれたスマートフォンが気になって仕方がなかった。

私は一体何をしているのだろう。
哀しくなって、リビングへと戻る。
そしてまた乃亜の問題集のコピーを取った。

明日から問題集の枚数を増やそう、面接の受け答えの練習もしよう、もうあと数日で幼稚園が始まってしまうのだ。
秋の行事も多いし、毎日はどんどん過ぎて行ってしまうだろう。
きっとあっという間に受験の日は来てしまう。
頭の中を忙しく働かせてみても、気持ちを淀ませている感情は全く消えてはくれない。
それどころか全神経が、悟の立てる生活音に敏感に反応していた。

いつも通り、短時間でシャワーを済ませ、バスルームを出てきた悟のドライヤーで髪を乾かす音が微かに聞こえてくる。
先日参加したひかりチャイルドの願書対策セミナーの資料を広げてみても、なかなか頭に入ってこない。
そのうちリビングに悟が入ってきた。
冷蔵庫を開け炭酸水の瓶を取り出し、みちかの側へやってきた。

「あれ使ったんだね。」

「え?」

ただドライヤーで乾かしただけのセットしてない悟の髪は無造作にクシャッとなっていて本当に若く見える。
そんなあどけない悟を見ていると、なんだか妙に哀しくなった。
この人は私以外の女の人に、ベッドでどんな風に接しているんだろう。

「ボディースクラブ。お風呂がチョコレートの香りだったから。」

そんな自分の考えに、うんざりしながらみちかは作り笑いをして見せる。

「うん。乃亜が早く寝てしまって時間があったから。まるで別人の肌みたいにすべすべになった。」

「あれ、人気なんだよ。ボディーアイテムの中では一番売れてるらしい。」

炭酸水を飲み干して、悟はリビングを出て行った。
テーブルの上に残された空になった瓶と自分のグラスを片付けながらモヤっとした感情に襲われる。
今、始まった事ではないのに、ずっと見ないふりをしてきたのに、無視できないほど自分の中で膨らんできている欲求。
ひばりにメールをしようかとみちかはスマートフォンを手に取る。
電話帳画面をスクロールしているうちに、自然と指が止まった。

『百瀬先生』

あの日、さりげなく教えてくれたプライベートの携帯番号。
百瀬に会うたび、ただドキドキできたのは今思うと平和だったからだ。
悟に募っていた不満も、百瀬の笑顔を見ていれば全部忘れていられた。
なのにあの日、偶然悟の姿を見てしまったせいで、感情を涼しく覆っていた殻は割れてしまった。
中から酷くドロっとした生温かさが流れ出し、それがもう止まらないのだ。

気がつくと、みちかは悟の部屋の前に居た。

乃亜はぐっすり眠っているし、時々は悟のベッドで眠ったっていいんだ。
私達は夫婦なんだから。
みちかはドアノブを握りしめた。
だけどどうしても開ける事が出来ない。
私にはもう興味の無い悟に、拒絶されたらどうしよう。
これ以上、落ち込む様な事があったら、自分にはもう乗り越えられる自信がない。

みちかはドアノブから手を離した。