普段はからっとしている里葎子さんが、いつになく怒っている。
「これだからダメなのよ、この辺の人は! 災害に対して見通しが甘すぎる!」
愛妻弁当を掻きこむ課長越しに窓の外を見ると、青みの落ちてきたイチョウの木が、強い風にゆっさゆっさと揺れていた。
「まだ、雨降ってませんし」
「降ってからじゃ遅いのよ! 美夏ちゃん、懐中電灯は持ってる?」
「ペンライトならあります」
「会社の借りて帰りなさい。簡易コンロは? 保温ポットは?」
「簡易コンロはありません。ポットは魔法瓶機能がついてます」
「熱々のお湯沸かして保温しておくの! あとはご飯を炊いておくこと。お風呂に水をためておくこと。パンとか、調理なしで食べられるものとお水を2日分くらい用意しておきなさい。それから、ガソリンと携帯の充電はいっぱいにしておくのも忘れずに」
もうすでに指示されたことの半分は忘れてしまっていたけれど、そんなことを言える雰囲気ではない。
「……頑張ります」
「どうせ『台風なんてこない』って思ってるんでしょ?」
「……えーっと……はい」
「これだから、この辺の人は!」
里葎子さんだってここが地元でここで生まれ育ったのに、なぜこんなに防災意識が高いのだろう?
台風シーズンに入り、大型のものをいくつかやり過ごしたから、もう終わったと思っていたのに、また大型台風が迫っている。
九州と四国を荒らし、中部から日本海に抜けてこの東北に向かっているようだ。
けれど、私の人生において、台風というのはあまりご縁のないものだった。
ほとんどが太平洋に抜けてしまうし、たどり着く頃には温帯低気圧に変わっている。
台風の被害に遭ったという体験談は、私の中学生時代にまで遡る。
従って、私に台風に関する記憶はほとんどない。
「俺なんて傘も忘れてきたよ」
通りかかった伊東さんが偉そうに胸を張るので、すかさず里葎子さんにアピールする。
「さすがに私、傘は持ってますよ!」
「伊東さんは大切な傘が暴風雨で壊れるのが嫌だったんですね。そうに違いない」
真実をねじ曲げる里葎子さんを、私も伊東さんも笑って見ていた。
台風なんて来ない。
めったに。