【眠れる森の王子】
「朝ごはんできたよー」
「……」
「早く起きないと遅刻しちゃうよー」
「……」
「昨日も一昨日もばたばた準備してたんだから、早く起きてー」
「……」
「余裕を持って家出ないと、危ないんだからねー?」
「……」
「安全運転のために、もう起きないと」
「……」
何度呼びかけても返事がないのは、毎朝のこと。
エプロンを外し、まくったシャツの袖を下ろしながら、半分枕に埋まった彼の顔を覗き込んでみる。
今日も今日とて、眉がぴくぴく動いている。
まったく。相変わらず狸寝入りが下手だ。そして今日も今日とて、飽きずによくやる。狸寝入りで目覚めのキスを所望するとは。眠れる森の美女もびっくりだ。
「起きないと、キスしちゃうよ」
彼の寝顔にそう言って肩元に手をつき、ベッドに膝を乗せると、彼は「うーん、むにゃむにゃ」と下手な寝言とともに、キスしやすいように寝返りを打った。から。
「起きて、わたしの王子さま」
とびきり甘い声で言って、丸見えの額に、渾身のデコピンをお見舞いした。
「いってぇ!」
彼は寝起きの掠れた叫び声と共に飛び起きる。
「おはよう、王子さま。早くごはん食べないと遅刻するよ」
くすくす笑いながら立ち上がると、彼は口を尖らせ、渋々という様子でようやく起き上がった。もう一ヶ月連続、こんな感じだ。
もう。狸寝入りなんてしないですぐに起きてくれれば早く支度が済んで、空いた時間でいちゃつくこともできるのに。目覚めのキスどころか、十回だって二十回だって、もしかしたらその先のあれやこれやだってすることができるのに。
だから狸寝入りはやめて、素直に起きてほしいのだけれど。
ぎりぎりまで寝て慌ただしく支度をして急いで出勤するなんて、危ないことこの上ないし。焦った運転ほど危険なことはない。違反をしたり事故を起こしたりしたら大変。
それを分かってほしいから、今日もまたキスはお預けで、明日からもまたこの、目覚めのキスを巡る攻防戦は続くのだろう。
(了)
【1㎝の嘘】
四月一日。
せっかくの日曜だし、いつもより少し長く寝て、それからゆっくり朝食をとって、掃除と洗濯をしようと思っていた日の、早朝のことだった。
気持ち良く寝ていたというのに、激しく揺さぶられ、嫌々目を開ける。
視界に入ったのは、夜明け前の薄暗い部屋、深刻な表情でベッド脇に正座する、彼の姿。
わたしの目が開いたのを確認すると、彼は表情同様申告な声色で、こう言った。
「実は俺、昨日付けで会社辞めた。今日からはギタリスト目指してバンド活動を始めようと思ってる」
「……」
「今日からはサラリーマンの彼女じゃなく、バンドマンの彼女として自覚を持ってほしいんだ」
「……」
「いつか必ず日本一、いや世界一のバンドになって、おまえをウィーンに連れて行ってみせるから、応援頼むな」
「……」
嘘だ。百パーセント嘘だ。
ギタリスト? 世界一のバンド? ギターどころか楽器だってほとんど触ったことがないくせに。学生の頃美術選択だったくせに。音楽だってあんまり聴かないし、レッチリやリンキンが何なのかも知らなかったくせに。
それになぜウィーン? ウィーンってどちらかと言えばクラシックのイメージだけれど。バンドならロンドンとかニューヨークとかデトロイトとか……あれこれたくさんあるだろうに。わざとなのか? それともわたしが知らないだけで、今ウィーンはロックの都になっているとか?
そもそもバンドをまだ組んでいないじゃないか。会社を辞めてからバンドメンバーを探すのか? はぁ?
しかもゆうべ、何度もカレンダーとスマホを見て「今日で三月も終わりかぁ」と呟いていた。ということは今日が四月一日、エイプリルフールだとしっかり理解しているじゃないか。詰めが甘い。そしてこんな早朝から仕掛けてくるとは迷惑過ぎる。
もういい。早く仕返しして、あと三時間は寝よう。
「嘘吐くと、身長1㎝縮むんだってよ」
言うと、背の低さを気にしている彼は、途端に泣きそうな顔になって「ごめんなさぁい!」と。まるでお手本のような土下座をしたのだった。
これでおあいこ。「うそうそ、ごめんね」と笑って、布団の中に招き入れた。
(了)
【嘘吐きたちの末路】
「ごめん、ちょっと会議が長引いてて。何時までかかるか分からないから、今日はそっちに行けないわ。ごめんな、今仕事立て込んでて。今週はそっち行くの難しいかもしれない」
「そっか、分かった。仕事なら仕方ないよ。仕事しながら毎週末行き来するもの大変だし、今回はやめとこ。わたしも今日は積読本読んでゆっくり寝るね」
電話でそんなやりとりをしたあと、すぐ新幹線に飛び乗った。
彼の転勤で遠距離恋愛になって数ヶ月。毎週末、どちらかが新幹線に乗って会いに行き、一緒に二日間を過ごす、というのを続けていた。
でもお互い仕事があるし、こんなことずっと続けられるわけがない。いつかは会えない週末がやってきる、と。分かってはいるのだけれど。
せっかくここまで続けたのだから、今週末も会いたいという、いわば意地だった。
が。
彼の部屋に着き、夕飯の用意を終えたけれど、いつまで経っても部屋の主は帰って来ない。
良いことも悪いこともあれこれ考え、連絡したほうがいいか、そわそわし始めたとき。
テーブルの上のスマホが震えた。彼からの着信だった。
恐る恐る電話に出ると、聞こえてきたのはやけにご機嫌な彼の声。
「今大丈夫? もう寝た?」
「や、起きてたけど……」
そして歩きながら通話しているのか、靴音がして、それに合わせて少し声が弾んでいた。
「そっかそっか。ならここで問題です」
「はい?」
「俺は今、どこにいるでしょうか」
「はぁ?」
唐突なクイズだった。付き合い始めて二年。こんなに唐突なクイズは初めてだ。
「分かんないけど……会社かな?」
「いーや」
「じゃあ……駅とか?」
「いやいや」
「よく行くラーメン屋?」
「違う違う」
「アパート近くのコンビニ?」
「コンビニの前は通ったけどな」
「うーん……」
「降参するか? しちゃうか?」
「うーん……そうだねぇ……」
というか、ノーヒントでこんなに唐突なクイズ、正解するのは無理だ。会社からアパートまでの間にいないのなら、こっちの地理に詳しくないわたしには答えられない。
粘ることなく降参すると、彼は「フフフ」と不敵に笑う。
そしてどこかのドアを開け、……
「サプラーイズ!」
とにかく元気にそう言ったあと、すぐに「あれ?」と抜けた声を出す。そして少しの間の後再びドアが開く音と「サプラーイズ! ……あれ?」の声。
「ちょっと待て、おまえ今どこにいる?」
その言葉を聞いて、全て分かった。分かってしまった。
彼が今、わたしの部屋にいることを。
会議が長引いているから今週は来られないと言っていたのに。だからわたしがサプライズを仕掛けようと、新幹線に飛び乗ったというのに。まさか彼も、同じサプライズを仕掛けようとしていたとは……。
ああ、嘘吐きたちの末路がこれか。
(了)
【「大丈夫だよ」】
彼はいつも「大丈夫?」と問う。
心配かけたくなくて、わたしはいつも「大丈夫だよ」と答えていた。彼にも自分にも嘘を吐き続けた。
彼はもう「大丈夫?」と問わない。もうわたしを気にかけてはくれない。
「おまえは強いから、俺がいなくても平気だよな」
彼の言葉にわたしは「そうだね」と。また嘘を吐いた。
(了)
【嘯く唇】
彼の夢のために別れる、なんて。時代遅れなのかもしれない。
それでもわたしは、こうするしかなかった。
「さよなら」と悲しげに言う彼に笑顔を向け「さよなら」と返した。
ああ、どうか。嘘吐きなわたしのことなんて忘れて、夢を叶えて。平気な顔して嘯いたことを、後悔させないで。
(了)
【彼は嘘つきだ】
思えば嘘つきな彼だった。
「転職するからもう会えなくなる」と嘘をついて、焦ったわたしに告白させたり。「今日会えなくなった」とメールを寄越したのに、実は待ち伏せして驚かせたり。
「おまえは寂しがり屋だから、俺より先に逝けよ」これも。
「俺がよぼよぼのじいさんになっても、しわしわのばあさんのおまえを大事にするよ」これも嘘。
でも、「おまえが好きだよ」という言葉だけは、嘘じゃなかったと信じたい。
目を伏せたら、黒服が濡れた。
(了)
【僕は嘘つきだ】
僕は嘘つきだ。
その嘘をきみは「たちの悪いサプライズ」と言って笑って許してくれた。
でも、今度ばかりは許さないでほしい。
「おまえは寂しがり屋だから、俺より先に逝けよ」「俺がよぼよぼのじいさんになっても、しわしわのばあさんのおまえを大事にするよ」
このふたつは、僕の人生で最大にして最悪の嘘になってしまった。
僕を許すきみが悪い。僕を甘やかしたから、僕はきみに数々の嘘をついてしまった。
いや、一番悪いのは、守れもしないことを言った僕か……。
もう「おまえが好きだよ」は嘘偽りのない言葉だったと、伝える術はない。
きみがどんなことを想い、どんな風に生き、どんなに美しいしわを刻んだおばあさんになるのかも、僕は知ることができないのだ。
伏せた目は、重くてもう開かない。
(了)