「……春馬が優しすぎるって言うのもあると思う。でも、やっぱり、唯一の女だからね。誰も、何も言えない。それだけ、貴重なんだよ。御園の女は」


「…………春馬さんが可哀想な気がする」


「うん。和子が何を考えているかなんて、もう、誰にもわからないよ。分かるのは……本人だけだし」


諦めているといえば、聞こえがいい。


一言で言うのなら、俺達は逃げているだけ。


弟を犠牲にして……非情だと思われるだろうか?


でも、それが事実だから。


「莉華さんを、守るんだもんね。陽向さんは」


「……」


「良いと思うよ。全力で愛して、守ってあげてよ。そうしたらきっと、彼女達は幸せでいられるんだと思う」


久貴は愛しそうに自身の薬指にある指輪を撫でて、


「見て、俺の嫁さん、変なの」


と、見せてくれる。


刻まれた、英文。


「If you are okay!(貴方なら、大丈夫!)……面白いな、お前の嫁さんは」


「でしょ?……でもね、これでも、毎日、救われてるよ。人を救えないかもしれない時、疲れた時、立てなくなった時、彼女が守ってくれているみたいで」


安心するんだ、と、彼はそれに口付ける。


久貴のあれだけ大切にしていた恋人。


俺たちと出会った年、すぐに入籍したらしいが、そんな恋人は身体が弱く、病を患っていて。


四年前、久貴が今、とても大事にしている息子と引き換えにして、彼女はこの世を去った。


まだ、23歳という若さで。






久貴が初めて、助けられなかった人。


―それが、最愛の人。


その後も縁談を持ちかけられたり、モテるのは変わらないらしいけど、彼自身、それを拒絶している。


『俺、妻一筋なんで』


その一言は、業界ではかなり有名だ。


メディアの軽率な質問で、世界中に放映されてしまったもので。


それが、また、彼の人気を高めたと言っても過言ではない。


「沙織ね、ずっと、言ってたんです。俺が医者になるの、すごく楽しみって。……結局、正式な医者としての姿は見せてやれなかったけど……願いますよ、また、あいつに会えることを」


「……」


「死んでからも、会いたいと思える女に会えたって、かなり幸せ者でしょう?俺」


―その時に笑った久貴は、とても幸せそうで。


「……そうだね、確かにそうだ」


同意していたら、莉華を思い出す。


あの出会った日が、運命の日だったのだと。


彼女が想いを伝えてくれなかったら、


すぐに諦めるんじゃなくて、まだ、想い続けていたいと願ってくれなかったら、俺はきっと、彼女自身に興味を持つことは無かったから。


一瞬一瞬がきっと奇跡で、その一瞬があるから、人は人を愛して、どうしようも無くなって。


不安でできている恋愛を、誰もがしたいと思ってしまうのは、寂しいからかもしれないね。


探しているからかも、しれないね。


運命の人ってやつを。





それを考えると、俺達はきっと、春馬にかなり酷なことをしているのだと思う。


家のことが解決した今、傷つけないように、和子をどうにかすることは出来ないだろうか?


「……陽向さん」


「ん?」


「幸せだね」


「……」


片や、最愛の妻を失った、シングルファザー。


片や、最愛の妻を追い込んだ、加害者夫。


本当に、ちゃんと考えてみたら、幸せなんて言える状況ではないと思う。


それでも、そう思えてしまうのはきっと、彼女たちの言葉が、存在が、温もりが、笑顔が、彼女たちとすごした一瞬一瞬が、俺たちを生かしてくれているから。


「……幸せ、だね」


誰かが幸せになれば、この世界では誰かが悲しむ。


自分が幸せになる代わりに、この世界の誰かが必ず悲しむんだってこと、分かってる。


分かっているけど、仕方ないよね。


俺たちだって、幸せになりたい。


そう思っても、いいだろう?


「これから、どうするの?」


「……気長に、待ち続けるよ。前は待たせたからね。今度は、俺が『おかえり』って言うんだ」


それが、何年後になろうとも。


必ず、生きて待ってるよ。


君が先に、死んじゃうかもしれないね。


でも、それでも、必ず、言い続けるよ。


『愛してる』って。


―とりあえず、君に、"おかえり”って言える日まで。







『……それで、良いんだね。陽向兄さんは』


電話先で、少しくらい声。


「良いんだよ。それより、千華、元気にしてる?」


『うん……兄さん達の気遣いで、意外と住み心地はいいよ。朝から、高層マンション最上階から降りて学校行くのはかなり手間だけど、まぁ、御前の監視もないしね』


「ごめんね、そんな生活をさせて」


『どうして、兄さんが謝るの。―和子さんもおかしいんでしょ。私、御園の力、継承しようか?』


自由になりたい。


縛られたくない。


そのために、高校生になったら、世界に行くと言った千華。


考古学者では無いけど、そういう感じの、世界の遺跡などを見て回るような、所謂、冒険家みたいな。


そんな一生を送りたいらしい。


必要であれば、結婚はする。


でも、家のための結婚はしない。


俺と莉華、陽希と魅雨みたいな、お互いが全てみたいに思える相手と出会えたら、その時にするそうだ。


ロマンティックで、自由でいい。


「一応、高校はうけるの?」


『まあねー。父さんと母さんに言われちゃったし……高校生の間は、交換留学って形かなー』


はぁ、と、ため息をついているけど、まぁ、仕方がない話だ。


「きっと、心配してるんだよ。特に、父さん。千華は母さんによく似ているし、母さん、家出してから十何年も帰らなかった強者だし、父さんからすれば、千華は願うに願った、待望の女の子だし。出された条件も、そんなに難しくないんでしょ?だったら、ちゃんとクリアして行く方がいいだろうね。―あ、定期的に、俺にも連絡ちょうだいね」


『言いたいことを、相変わらず、一気に……分かってるよ?分かってるけどさぁ……』


ブツブツと文句を言う、千華。


まぁ、流石に千華が小学生になるまでは家にいたふたりだけど、千華が小学生になった途端、あっちに居を構え出したからね。






参観日とか、進路説明会とか、三者面談とか。


わざわざ、海の向こうからのお越しだし。


俺か陽希が代わりに行くと言っても、『親の役目』と譲らない、変な両親。


中学にもなれば、流石に千華の方から、お兄ちゃん達のどちらかに来て欲しいと頼まれるようになったが。


『また、何か説明会があるって〜来てくれる?』


「行くよ。いつ?」


『えっとね、来月の頭』


「分かった。予定空けておくね」


定期的に、電話する関係。


今日は水曜日だから、俺の日だったけど……昨日は陽希の日だし、月曜日は父さんの日だ。


日曜日は総司(ソウジ)【和子の同母弟】だし、まぁ、それぞれ、役目とする曜日が違うらしい。


―よく知らないが。


(……千華は、問題ない。問題は、春馬)


憔悴している。


最近は、彼らが住んでいる場所にすら、俺達は近付けないようにされてしまった。


陽希を重ねているんだろうと思っていたから、俺は陽希に和子相手に交渉させてみたが……どうやら、ダメらしい。


アイツの中では、春馬は春馬なのか?


それとも……分からない。


あの女が何を考えているのか、分からない。


分からないから、消してしまおうじゃ済まない。


あの女は、この家にとって大切な宝だから。


せめて、京子【和子と春馬の長女】が大きくなるまでは……。






―けど、後で思う。


この時の俺は、かなり楽観視していたと。


どうにかして、いつか、大丈夫、助けられる。


それが、あの結果を生み出したんだと。


後で、後悔することになる。


時は、無情にも、呆気なく過ぎていった。


それでも、気が遠くなる年月でも、莉華を待つと決めていた俺の心は安らかで、莉華と他愛もない会話をして、触れ合って、想いを伝えて、仕事をして、家の中の問題に頭を抱え、人と話し合い……ずっと、同じことの繰り返し。


でも、それを繰り返しているうちに、気がつけば、俺は四十一。


春馬は二十四になり、十七歳で飛び出した千華が、二十一歳になって、本格的に海外へ飛び出したその年。


一人の男の子が、この家に誕生した。


春馬と和子の次男―……相馬である。


『俺の名前はさ、春の馬でしょ?俺、この名前が好きなんだ。だから、相馬は……俺の好きな相思相愛って言葉から、それに、相ってさ、アイって読み方もするから。だ俺の名前と合わせて、相馬にしたんだ』


小さな息子を抱いて、笑っていた春馬。


総一郎たちも嬉しそうで、幸せになるのかと思った。


思い詰めた顔ではなくなり、どこか疲れていても、穏やかだと思えた、春馬の表情。


彼が平気なら、無理して壊す必要も無いと―……そう思ったのに。





「いやぁっ!」


―和子は、相馬を拒絶した。


自分の子供ではないと拒絶して、そして、否定した。


彼が生まれてきたことを。


その時の、春馬の顔。


そして、泣き叫んだ赤子の声。


「うるさいっ、うるさいっ、うるさいっ!!!」


「かっ、和子っ!落ち着いて……相馬だよ、和子が産んだ、間違いないよ。和子の子供で……」


「私からはるくんを奪うのは、子供やない!それに、はるくんにもうちにも似てない!!」


(……いい加減にしろ)


相馬は春馬と瓜二つだった。


似てないなんて、あるわけない。


やっぱり、てめぇは違うやつと重ねているんじゃねぇか。


手に入らない、他の男に。


「はるくん、その子を手離して!うちを抱きしめてや!」


「で、でも、、和子、この子は赤ちゃんで、泣いているから、ちゃんと親である責任を……」


「違う、違う!隠されたんや!うちとはるくんの子供やから!力が強いから!総一郎と違って、ちゃんとした時期に生まれてきて、多分、体も丈夫やったんや!だけん、御前の誰かが―……っ」


―この時ばかりは、本気で殺してやろうかと思った。


御前は、俺が処分していた。


存在はしていたけど、大きく表に出ることは出来なくなっていた。


そもそも、新しい当主はそんなことを望んでいなかったし、友人関係みたいなものだったから、付き合いやすくて……有り得ない。


目の前にいる赤子は、お前が産んだ子だろが!!!






「はるくん!早うしてや!うち、死ぬで!?」


最大の、春馬が嫌いな脅し。


仕事で、産んですぐから少し睡眠を取って、布団の上でも仕事をこなそうとした和子は偉いし、まだ、28なのに……すごいと思うよ。


そして、だからこそ、自身が産み落とした子供に対面する時間がなかったのは分かる。


―でもな?


「……っ、〜〜ね……」


春馬の手が震える。春馬は相馬に一言だけを囁くと、陽希に相馬を預け、無言で、和子を抱きしめた。


汗が流れ、震えは止まらず、でも、それに気づきもせずに、和子は幸せに酔いしれる。


(……ふざけるな)


伯父さんと伯母さんには悪いけど、どうしても、身のうちから沸きあがる怒りを、熱を、収める方法がわからなかった。


気を抜けば、日本刀を振りかざしてしまいそうだった。


耐えられなくて、真っ先に家から飛び出した俺は、莉華のところへ向かった。


子供を授かれず、壊れて行った妻。


あれから、もう、何年経つ?


十五年。―その年月はあまりにも長く、その生きる中での自由な時間を、俺は莉華から奪ったわけで。


吹っ切れたはずの思いが蘇り、泣いてしまった。


"俺のせいで、ごめんっ”


―そう、相馬を抱きしめて、苦しそうに泣いた、春馬を見て。





「莉華っ」


雨が降りそうな中だからか、今日は部屋にいた莉華。


俺の訪れにも表情ひとつ崩さず、気づいていないのか、天井を見つめている莉華。


「莉華……俺は、間違っていたのかな……?」


分からなくなる。


あの家の中じゃ、"普通”とは一体なんなのか。


"普通”でいる必要は無いと言われれば、その通りだ。


でも、あの家の中の"普通”は、莉華が生きていた世界での"超異常”。


嫌だ、君から離れるのは。


君と心を通わせることが困難なら、せめて、君と同じ世界にいたいと望んでいるだけ。


壊れてでも、家を守ることが偉いこと?


それが、名誉?


愛してもいない女のことを、無理やり愛すことが、果たして正しいことなのか?


―わからない。


そして、勿論、莉華も返事をくれない。


俺が泣いているからか?


こちらを見ようともしない。


悲しくて、苦しくて、君をそんなふうにしたのは自分なのに、俺の方を見て欲しくて。


「莉華っ、」


頬に触れて、自分の方に向けさせる。


変わりもしない表情に、胸が痛む。


そっとキスすると、昔は真っ赤になっていたのに、莉華は無反応のまま。