『……陽希』
『ん?』
『…………ありがとう』
目を閉じると、自然と頬を濡らす何かがあった。
『馬鹿野郎……』
陽希はそう一言言うと、優しく、頬を拭いてくれていた。
『陽希、私、何か飲み物を買ってくるね』
『あ、じゃあ、俺も一緒に』
世界のことをひとつずつ学んで、成長過程にいる魅雨は妊娠中で、少し大きくなったお腹を抱えてた。
気を利かせてか、それとも、そんな魅雨を心配してか、ついて行った久貴くん。
『喜んでたのになぁ……っ』
『……』
『莉華、魅雨の子を抱くの、楽しみにしてるって……』
『……』
『それなのに、俺が壊した』
『……』
謝っても、謝っても、償いきれない。
『愛しているのに……この気持ちだけは、嘘なんかじゃないのに……こんなことになるのなら、俺は愛さなかった方が……』
―瞬間、身体が浮いた。
そして、壁に打ち付けられて。
痛みに、顔をゆがめる。
『馬鹿がっ』
陽希はそう吐き捨てると、俺の額をデコピンして。
『お前が、そんな弱気でどうするんだ。うじうじうじうじ……俺の弟らしくねぇ』
片手で頬を挟まれて、何も言えない。
『愛しているんだったら、最期まで、その気持ちに責任もてよ。巻き込むってわかって、結婚したんだろ?だったら、ちゃんと最期まで、言葉に自信と責任は持ち合わせとけ。それが出来ねぇんだったら、人なんて愛すな。馬鹿野郎』
鈍感で、女の気持ちには気づかなくて、和子の思いに未だ気づいてすらいないくせに、俺に説教垂れて。
でも……目が覚めた。
―陽希が思い切り、頬を殴り飛ばしてくれたお陰で。
『……これさ、普通の怪我人にしていたら、かなり、問題事だよね』
『お前、俺の弟で良かったな』
鬼の血が俺よりも強くて、これから先、誰よりも苦労するであろう兄の言葉はストンと、胸に落ちて。
『……やってやろうか』
俺は毅然と、顔を上げる。
それからというもの、閉じ込められたり、殺されそうになったり、食事には毒が入っていたり……春馬が壊されたりと色々あって、あの日、莉華の見張りを頼んでいた使用人頭は病気の父親を人質に取られ、逆らえなかったという話を聞いて……その後、彼女は自殺未遂を起こし、ギリギリのところで久貴くんたちに助けられていたことなんかの話も聞いて、会いにいくと、土下座して謝ってきた彼女は、深く憔悴していた。
そんな彼女にこれからも勤め続けるように命じ、父親は久貴くんが学んでいるという、倉津医師の個人院に入院させて、彼女は生涯を、俺達のために捧げると、大袈裟に誓っているのを見て、笑みが漏れた。
莉華を壊しておきながら、笑う資格がないのはわかっている。
それでも、彼女が戻ってきてくれた時、笑顔で迎えてあげたいから。
彼女の居場所を守ること。
―それが、自分の真っ直ぐな愛し方だと思えたから。
*
「莉華……ごめんね」
手を繋いで、謝る。
彼女は変わらず、首を傾げる。
「待ってるよ」
いつまでも。
5年でも、10年でも、100年でも。
その時、俺はもう、死んでしまっているかもしれないけど。
聞きたいこと、話したいことがあるんだ。沢山……沢山、あるんだよ。
何年経っても、この思いは変わるものか。
何億年経ったって、この空が変わらないように……きっと、変わらない。終われない。
このままでは……君との恋を、捨てられない。
「莉華、昨日は―……」
毎日、毎日、君と向かい合って、話す日々。
理解は出来ていないかもしれないけど、彼女はずっと笑って、頷いて。
それだけで、幸せで。
「陽向」
莉華の発症から、八年。
変わらず訪ね続ける俺のことを覚えてくれた莉華は、笑顔で話してくれる。
「莉華、大好きだよ」
「?」
愛してる。
きっと、通じない言葉だけど。
微笑みあっていると、
「陽向さん、ご飯、」
久貴に、声をかけられて。
「え、もうそんな時間?」
「莉華さんはちゃんと食べてるのに、陽向さんが抜いてどうするの。莉華さんが目覚めた時、心配させるつもり?」
「ん゛ん゛っ〜」
「誤魔化す時のくせ、本当に独特だよね。陽向さんって」
「君も辛辣になったというか……本当に、20代?」
「20代だよ。28」
白衣を身にまとった彼は、元より、向こうの大学で一通りの研修を終えていた成果だろう。
彼女と薬研究に六年間を費やしておきながら、ケロッとした顔で、医者になってしまった。
そして、誰でも平等に見て回る彼は、相当に人気が高い。
医学界も、次から次に驚くことを起こされて、ついて行かないらしい。
権力社会が嫌いで、人に媚びない彼は一人での地位をどんどん確立していって。
「息子さん、元気?」
「ええ。メチャクチャ。四歳になるのに……可愛いよ。とても」
「いつか、莉華と遊んでくれるかな」
完全なる親バカだけど、でも、その点なら、俺もかなりの嫁バカだから。
「喜んで」
久貴も、父親になった。
あれから、10年も経つんだと思うと、何か感慨深い。
「そういえば……甘寵殿、廃止できたって?」
敬語を使われると、どこか苦手で。
家のものを相手している気分になるからなのか、とりあえず、彼にはタメ口でお願いしている。
すると、名前に敬称は付けてくるものの、言葉に容赦がなくなって。
「やっと、ね」
「御前の当主もまた、変えたって……」
「すっごく、面倒くさかったけど。……これで、少しはマシになるといい」
「……春馬さんは?」
「……相変わらず?」
「長女が生まれたそうで」
「逆らえないんだよ。―逆らったら、和子が死ぬと脅すから」
そう言われて、従う方もどうかと思うが……。
「止めないの?間違っているの、分かってるくせに」
「……止められなかった」
「え?」
試みたことは、幾度もある。
実は、昨日も……。
「でも、ダメだったよ。今度は、総一郎たちを殺すって言うんだ。誰が逆らえる?彼女は初代の舞で、人を殺すことが出来ることを知っていて」
子供に罪はない。
あんなにも純粋な子供たちを、まだ、あの家の闇に浸らせるのは早すぎる。
「……春馬が優しすぎるって言うのもあると思う。でも、やっぱり、唯一の女だからね。誰も、何も言えない。それだけ、貴重なんだよ。御園の女は」
「…………春馬さんが可哀想な気がする」
「うん。和子が何を考えているかなんて、もう、誰にもわからないよ。分かるのは……本人だけだし」
諦めているといえば、聞こえがいい。
一言で言うのなら、俺達は逃げているだけ。
弟を犠牲にして……非情だと思われるだろうか?
でも、それが事実だから。
「莉華さんを、守るんだもんね。陽向さんは」
「……」
「良いと思うよ。全力で愛して、守ってあげてよ。そうしたらきっと、彼女達は幸せでいられるんだと思う」
久貴は愛しそうに自身の薬指にある指輪を撫でて、
「見て、俺の嫁さん、変なの」
と、見せてくれる。
刻まれた、英文。
「If you are okay!(貴方なら、大丈夫!)……面白いな、お前の嫁さんは」
「でしょ?……でもね、これでも、毎日、救われてるよ。人を救えないかもしれない時、疲れた時、立てなくなった時、彼女が守ってくれているみたいで」
安心するんだ、と、彼はそれに口付ける。
久貴のあれだけ大切にしていた恋人。
俺たちと出会った年、すぐに入籍したらしいが、そんな恋人は身体が弱く、病を患っていて。
四年前、久貴が今、とても大事にしている息子と引き換えにして、彼女はこの世を去った。
まだ、23歳という若さで。
久貴が初めて、助けられなかった人。
―それが、最愛の人。
その後も縁談を持ちかけられたり、モテるのは変わらないらしいけど、彼自身、それを拒絶している。
『俺、妻一筋なんで』
その一言は、業界ではかなり有名だ。
メディアの軽率な質問で、世界中に放映されてしまったもので。
それが、また、彼の人気を高めたと言っても過言ではない。
「沙織ね、ずっと、言ってたんです。俺が医者になるの、すごく楽しみって。……結局、正式な医者としての姿は見せてやれなかったけど……願いますよ、また、あいつに会えることを」
「……」
「死んでからも、会いたいと思える女に会えたって、かなり幸せ者でしょう?俺」
―その時に笑った久貴は、とても幸せそうで。
「……そうだね、確かにそうだ」
同意していたら、莉華を思い出す。
あの出会った日が、運命の日だったのだと。
彼女が想いを伝えてくれなかったら、
すぐに諦めるんじゃなくて、まだ、想い続けていたいと願ってくれなかったら、俺はきっと、彼女自身に興味を持つことは無かったから。
一瞬一瞬がきっと奇跡で、その一瞬があるから、人は人を愛して、どうしようも無くなって。
不安でできている恋愛を、誰もがしたいと思ってしまうのは、寂しいからかもしれないね。
探しているからかも、しれないね。
運命の人ってやつを。
それを考えると、俺達はきっと、春馬にかなり酷なことをしているのだと思う。
家のことが解決した今、傷つけないように、和子をどうにかすることは出来ないだろうか?
「……陽向さん」
「ん?」
「幸せだね」
「……」
片や、最愛の妻を失った、シングルファザー。
片や、最愛の妻を追い込んだ、加害者夫。
本当に、ちゃんと考えてみたら、幸せなんて言える状況ではないと思う。
それでも、そう思えてしまうのはきっと、彼女たちの言葉が、存在が、温もりが、笑顔が、彼女たちとすごした一瞬一瞬が、俺たちを生かしてくれているから。
「……幸せ、だね」
誰かが幸せになれば、この世界では誰かが悲しむ。
自分が幸せになる代わりに、この世界の誰かが必ず悲しむんだってこと、分かってる。
分かっているけど、仕方ないよね。
俺たちだって、幸せになりたい。
そう思っても、いいだろう?
「これから、どうするの?」
「……気長に、待ち続けるよ。前は待たせたからね。今度は、俺が『おかえり』って言うんだ」
それが、何年後になろうとも。
必ず、生きて待ってるよ。
君が先に、死んじゃうかもしれないね。
でも、それでも、必ず、言い続けるよ。
『愛してる』って。
―とりあえず、君に、"おかえり”って言える日まで。
『……それで、良いんだね。陽向兄さんは』
電話先で、少しくらい声。
「良いんだよ。それより、千華、元気にしてる?」
『うん……兄さん達の気遣いで、意外と住み心地はいいよ。朝から、高層マンション最上階から降りて学校行くのはかなり手間だけど、まぁ、御前の監視もないしね』
「ごめんね、そんな生活をさせて」
『どうして、兄さんが謝るの。―和子さんもおかしいんでしょ。私、御園の力、継承しようか?』
自由になりたい。
縛られたくない。
そのために、高校生になったら、世界に行くと言った千華。
考古学者では無いけど、そういう感じの、世界の遺跡などを見て回るような、所謂、冒険家みたいな。
そんな一生を送りたいらしい。
必要であれば、結婚はする。
でも、家のための結婚はしない。
俺と莉華、陽希と魅雨みたいな、お互いが全てみたいに思える相手と出会えたら、その時にするそうだ。
ロマンティックで、自由でいい。
「一応、高校はうけるの?」
『まあねー。父さんと母さんに言われちゃったし……高校生の間は、交換留学って形かなー』
はぁ、と、ため息をついているけど、まぁ、仕方がない話だ。
「きっと、心配してるんだよ。特に、父さん。千華は母さんによく似ているし、母さん、家出してから十何年も帰らなかった強者だし、父さんからすれば、千華は願うに願った、待望の女の子だし。出された条件も、そんなに難しくないんでしょ?だったら、ちゃんとクリアして行く方がいいだろうね。―あ、定期的に、俺にも連絡ちょうだいね」
『言いたいことを、相変わらず、一気に……分かってるよ?分かってるけどさぁ……』
ブツブツと文句を言う、千華。
まぁ、流石に千華が小学生になるまでは家にいたふたりだけど、千華が小学生になった途端、あっちに居を構え出したからね。