上座から落とされた柊さんの言葉に場が凍り付いた。
なにを…言ってるんだ…。
そう思ってから、ふと気づいた。
私のことを知っている秋庭の人たちが、見たことないくらい真面目な表情で私に視線を向けている。
あの人たちが言っていた『風呂に落とす』の意味をやっと理解した。
冷静に考えてから、今更ながら背筋が凍り付く。殴られることや罵声を浴びせられるよりも大変な事態になりそうだったのだ。
柊さんがいなかったら今ごろ私は…。想像しただけで吐き気が込み上げてくる。
隣に立つ弘翔に目をやれば…人を殺せそうなくらいの雰囲気を纏っている。
こんなに怒っている弘翔を見るのは二回目。
悠太と病室で会った時以来、こんなに殺気と狂気を孕んだ弘翔は見たことがない。
真っ直ぐに前を見つめる瞳の奥が不自然に揺れている。
視線の先にいる柊さんは扇子を片手で弄びながら含み笑いだ。
「僕は知らんよ。自分のとこの可愛い野郎共はともかく、東の馬鹿共の名前なんか憶えてるわけないやろ」
「………兄貴」
「館山、前田、松本、桑原」
完全に我関せずで至極興味なさそうに蓮さんが口にした名前に、昌さんと聖弥さんの顔色が変わる。
そして…隣に居たはずの弘翔がいつの間にか同盟の組の人たちが座っている席まで移動していて…
「、ッッ」
そこに座る50代くらいの組長の胸倉を無言で掴み上げた。
声を上げる間もなくバキッと嫌な音がして、男が真横に吹っ飛んだのが視界に映る。
無表情の弘翔は咽る男をそのまま見下ろすと、その顔を寸分も迷うことなく蹴り上げた。
誰かが息を呑んだ。
骨が軋む音が広間に響く。
こんな弘翔…見たことがない。
いつも私に気を遣って極道の男としての顔を見せないようにしてくれていて、誰かに対してこんな風に殺気を向ける弘翔を私は知らない。
悠太の時は一般人だからと言って一発で拳を収めたけど、極道が極道に向ける殺気は見るも無残なものだ。
殺気…いや、本気で殺そうとしているのかも知れない…
理性的で、悠太に対しても私をナンパしてきた男たちに対しても言葉でもって片を付けた弘翔が…無言で無表情。
最初の男にもう一発拳を見舞った弘翔は、同じように三人の男にも拳を向けた。
誰も口を開くことはせず、広間には言葉にならない呻き声と骨が折れる不快な音だけが広がる。
「秋庭の若ッッ、うちの娘が非礼を…ッ、」
「……ッッ、申し訳、ッ!!」
土下座し床に額を付けながら謝罪の言葉を口にするも、おそらく弘翔の耳には入っていない。下から蹴り上げて言い終わる前に黙らせた。
三人は息も絶え絶え何とか土下座を崩さず謝罪を口にしているが…一人は完全に意識がない。
──そんな無法地帯のような悲惨な光景がどれくらい続いただろうか。
血の鉄臭い匂いが広間中に広がる。
これ以上は…こんな弘翔、見ていたくない…。
「高巳君、純さん」
私の想いが伝わったのか、この場に似合わないくらいいつも通りのトーンで蓮さんが口を開いた。
蓮さんに対して小さく頷いた二人は上座に向って一礼すると、そのまま弘翔を止めに入った。
「若、この辺で」
「意識飛ばされちゃ意味なくなりますよ」
男と弘翔の間に割って入った純さんが男に向けて振り落とされた弘翔の拳を受け止める。
「…………」
「……若」
「............」
「......弘さん」
大きく息を吐いた弘翔は『…すまん』と小さく呟いてから、乱れた着物を直した。
一連のことがあまりにも衝撃的で、こんな弘翔は見たことが無くて、でも…その手と着物に広がる返り血だけが妙にリアルだった。