朝、いつもアラームの音と共に目覚める。
随分と寒くなって来た事に気がついて私は慌ててクローゼットから温かい毛糸のカーディガンを出して羽織る。
洗面所に行って顔をぬるま湯でパシャパシャと洗うと トーストを焼きつつ、冷蔵庫にあったフルーツを適当に盛り付けた。
トーストに丁寧にバターを塗りつけて
1口かじるとテレビをつけて録画しておいたドラマを観ることにした。
少し考えて洗濯機を回し、まだ今日の講義には余裕があるのをいいことにインスタントのコーヒーをお気に入りのカップに注ぐ。
私が天気予報のお姉さんのワンピースに気をとられていようが、時間は待ってくれない。
ぬるくなってしまったコーヒーを急いで飲み干すと黒タイツに、ワインレッドのロングスカート 袖が丸く膨らんだ白のブラウスを着て、鏡の前に立ち、随分長くなった黒髪を少し高めに結ってから下地を丁寧に塗っていく。
時計とにらめっこしながら洗濯物を手早く干し、薄手のブラウンコートを羽織ると、
白のレースのシュシュを横目に家を後にした。
時計をみるとまだ充分電車に間に合う時間だ。私は胸を撫で下ろし、駅まで歩いて向かっていく、金木犀の木の横を通り抜けようとした時 私は気づいた。
いや、そのずっと前から薄々と気づいていたのかもしれない。
無論、この通りはいつもと変わらない。
王子様が空から降ってくるわけでも、凶器を持った不審者が私に向かって来るわけもなく、今をきらめく有名人や昔の幼なじみが私の前に現れたわけでもない。
気づいたのは今日そう私、藤町 雪が完全に浮かれているということに対してだった。
今日は珍しく一番最初のアラームで起きれたし、ちゃっかりお気に入りのスカートを履いている。
ただ単にお洒落をしたい日はあるけれど、白のシュシュはなんだか気合いを入れている私を象徴している気がしてつけられなかった。
可愛く見せたいけれど、気合が入った格好をするのは少し恥ずかしい相手…
ずっと気づいていないふりをしていたが、
それには1人だけ思い当たりがある。
私には今日、講義以外にもバイトという大切な用事があった。
今日はバイト先であるカフェに樹さんがやってくる日だった。
樹さんと出会ったのは春過ぎのことだ。
その春、私は大学に通うために上京して来た。両親は都心の大学に通いたいという私を最後まで心配しつつ、応援してくれた。
大学に行く合間を縫ってバイトをすることにした私は家から一駅のお洒落でケーキが美味しいカフェで働くことになった。
私の入ったバイト先のカフェには時々、窓側のカウンター席に座って本を読んだり、パソコンへ向かったり、マスターや他の従業員と仲良さげに話しているいわゆる常連さんがいた。
それが樹さんだった。
大学生だという樹さんは背が高く、元々なのか髪は少し茶髪に近い。
色味の少ないシンプルで落ち着いた服を着ていて大抵黒のリュックを背負っていて、
大人で落ち着いた雰囲気のある人で、身長のせいなのか一見、怖いそうだと思う人もいるようだった
けれど失礼を承知で言わせてもらうと、
樹さんに対する私の第一印象は
“可愛い” というものだった。
樹さんと初めて出会ったのは私がバイトを始めて2、3日経った日のことだった。
マスターや他の従業員さんも優しく丁寧に仕事を教えてくれるし、一人暮らしの私の生活を心配してくれているようで、
ここでバイトしていると実家に帰ったような安心した気持ちになれる。
一人暮らしなんてどうってことないと考えていたものの、18年間過ごしてきた家を急に離れるということはどうも落ち着かず気持ちがぷらぷらしていたようで、バイトを始めてから初めて自分がホームシックにかかっていた事に気がついた。
私の仕事は主に接客と精算の手続き、掃除だ。厚みのある窓を拭いていると外の世界は普段私が歩いている道だとは思えなかったり、窓の曇りが落ちて光が綺麗に入ってくるのが好きで、窓拭きの腕は日に日に上がっていくものの、
接客や精算はまだ苦手でどうにも慣れない。
私はご注文を受けると厨房へ行き、
なれない手つきで本日のケーキであるメレンゲがたっぷりと入れられ、丸みのある
可愛らしい苺とふわふわの生クリーム、雪のような粉砂糖がのせられたスフレパンケーキとブレンド豆で挽いたカフェラテをお盆にのせて自然な笑顔が作れるように口角を少しあげてみる。
「お待たせいたしました」
くれぐれも珈琲をこぼすなどといった初歩的なミスをしないよう、私はそうっと歩いてカウンター席にお皿を運んだ。
少し緊張気味の私の目に映った、ケーキを待つ大型の男性は、ケーキを前にすると周りにお花が飛んでいるようだった。
それが樹さんだった。
その見た目といかにも幸せそうにケーキを口に運ぶ横顔の差異に少し驚きつつ、
私は不意にも可愛いと思ってしまった。
「確か、雪ちゃんは今日が樹くんと初対面だったよね?あの身長が高くて、パンケーキ頼んでた男の子」
無事にバイトが終わり更衣室へ行くと
マスターであり、オーナーの郁穂さんに、そう話しかけられた。
「あぁ…お知り合いなんですか?」
「そうなんだ、友人の弟さんで
自分は機械が苦手だから、メニューの写真を撮ってくれる人探してて紹介して貰ったんだよね。」
メニューの美味しそうな写真はあの人が撮っていたのか。
「パンケーキ凄く美味しそうに食べていらっしゃってましたよね。」
私はカウンター席にケーキを運んだ時を思い出しながら言う。
「ははっ、甘党って感じがしないもんね
佐藤樹くんっていうんだけどね、写真撮ってくれた時にうちのケーキもいくつか試食して貰ったんだけど、結構気に入ってくれたらしくてさ、大抵毎週土曜日に来てくれてるんだ。」
「なるほど、それでやけに店に馴染んでいたんですね」と1人で納得する。
「佐藤さん…なら“お砂糖さん”ですね。」
何気なく思いついたことをそのまま呟くと
「いいねそれ、スイーツ好きの樹くんにぴったりだ。」
と屈託のない笑顔で郁穂さんが言ったので
その後のカフェで樹さんはわたしのせいで皆から『お砂糖さん』と呼ばれるようになってしまったのだった。
朝のモーニングの時間帯が終わると客足も少しずつ途絶え、手が空いてくる。
私はようやくカフェでのバイトにも慣れてきていた。
使われていないテーブルを全て拭き終えると、私は店のドアからむかって右手側にある壁一面の本棚を軽く整えることにした。
壁一面といってもぎっしりと本が並べられている訳ではなく、オーナーである郁穂さんが、自ら選んだ本を時期によって少しずつ入れ替えていて、1冊1冊の本がキレイに見える様にレイアウトされていてるので冊数はあまり多くない。
だが、季節の植物やその日のカフェのメニューにちなんだ本などが並べてい
たり、本だけではなく地球儀や旅行先様々な国で、買い集めたという栞が飾られていたりと本棚からは郁穂さんが本当に本が好きなことが伝わってくる。
本棚の整理はすぐ終わってしまって
ふと横をみるとお砂糖さん、いや樹さんが隣で本棚を眺めていた。
作業が終わったことに気づいたのか、樹さんは
「お疲れ様です。高いところ届かなかったら言っていいからね?」っと優しく笑って言ってくれる。
「ありがとうございます。なにか本を読まれるんですか?」
「今日の本棚は読んだことのない作家さんの本多くてさ、おすすめとかある?」
バイトをはじめて一ヶ月ほど経ったが本のおすすめを訊ねれたのは初めてだったので私は少し口ごもりながらも手前にあった本をとる。
「この本とかどうですか?アメリカの作家さんのなんですけど設定が斬新で読みやすいかなと、あとこっちは少し前映画にもなった小説なんですけど語りの口調が特徴的で、でも作品の一つ前の作品では口調が全然違っていて同じ人が書いたって最初気づかなかったんですよね。こっちの詩集は…」
そこまで言ったところで私はハッと口元を抑える。
ついつい喋りすぎてしまった。ここにない本のことまで言ってどうするんだ。
「ごめんなさい、私喋りすぎてしまって…」慌てて言うと、
樹さんはそういう私の行動に逆に驚いたようだった。
「気にしなくていいのに、藤咲さん本のこと詳しいんだね。もっと話聴きたいなって思っちゃったよ、じゃあとりあえずこれ読ませて貰おうかな。」
そう言って樹さんは私が一番最初に紹介した本をとると、少しはにかんでくれた。
そして思い出したように一言付け加えた。
「そうだ、お砂糖ってあだ名は藤咲さんが付けてくれたんですよね?先週来た時皆が面白がってそう呼ぶもんだから驚いちゃって…」
「えっ…」
そんなことは全く知らなかった私は驚いて顔が熱くなってしまう。
「あっそれはすいません…
そんなつもりは無かったんですけど…」
私が何気なく呟いた一言があだ名になってしまうなんて申し訳ないし、それが洒落になっているというのも恥ずかしい。
「謝らなくて大丈夫ですよ。」
樹さんは慌ててそう言う。
「俺あだ名付けられたこと無かったからちょっと嬉しくって…」
そう言って本当に嬉しそうに頭を掻いたのは癖なのだろうか、
単純なあだ名に喜ぶ樹さんは失礼だけやはり可愛らしく、
嬉しさが伝線したような気持ちになった。
「それで、イツキさんってどんな人なの?」
お昼の学食で私が今好物である海鮮丼を口にする前に、くるりと綺麗にカールされた髪を揺らしながら、数少ない春先に出来た友人である知花に尋ねられた。
「んー優しくて紳士な感じかなぁ…
背が高くてよく手が空いてる時とかに
話しかけてくれたりするよ、ってなんで?」
「いやー、雪から男の人の話を聴くの初めてだから一体どんな人なのか気になって…」
自分は学食までの廊下で何気なくバイト先の話をしただけのつもりだったが、意外にもそのことに友人は興味を持ったらしかった。
「へっ、普通にバイトの話をしただけのつもりだったんだけど。」少し驚きながら言う。
「と言うか、イツキさんも親切なんだろうけど小説の話を数秒広げただけなんだから謝らなくても良かったんじゃない?」
「そんなものなの?」
「そんなものだよ。ちょっと昔のこと引きずりすぎじゃないの?」
「そんなつもりはないんだけどなぁ。」
確かにそう思って、海鮮丼を口に運ぶ。うん、やっぱり美味しい。
「でも雪、もっとそのイツキさんとかと話してみれば、少しはお付き合いとかに対して気楽になれるんじゃないの?」
友人は私が恋人をつくるという行為に対して億劫な事を気に掛けてくれたようだった。
「ただのバイトと常連さんだからなぁ。
そんな沢山話す機会ないんだよね。」
「それもそうだね。」とそこで話題は一つ前の講義の内容に移り変わった。