「で、でもあのキスマークっ!」
「あぁ、あれはただ変な虫に刺されたやつを掻いた痕」
「はぁっ!?」
「酔い潰れて倒れたかと思ったら、一人で寝るの寂しいって、あんたが騒ぐから仕方なく添い寝しただけ。別に何かあったとかじゃない」
サラッと言われた爆弾発言に言い返す言葉も見当たらない。
そして、全く悪かったと思っていない朝比奈さんの態度に一気に怒りが湧き起こる。
私がこの事でどれだけ悩んでたと思ってるのよ!
「なんでそんな嘘つく必要があるんですか!」
「別に? あまりにもあんたが慌てふためくから、からかっただけ」
「――っ」
「ほら、もういいだろ。寒いから帰るぞ」
絶句する私を横目に、さっさと帰路につこうとする朝比奈さん。
そして、スタスタと何事もなかったかのように私の隣を擦りぬけて、暗闇に私を残していった。
「ま、待ってくださいよ!」
「ボーっとしてる、そっちが悪い」
「こんな山の中に、女の子一人置き去りにするんですか!」
「女の子って年でもないだろ」
「ちょっ、ちょっとそれは失言ですよ!」
「おら、文句言ってると本当に置いてくぞ」
ギャーギャー騒ぐ私に見向きもせずに、朝比奈さんは足早に暗闇の道を歩いていく。
一切こちらを振り返らない所を見ると、本当についてこなかったら置いていくつもりらしい。
相変わらず冷たい男だな、と思ってその背中を睨みつけながら慌てて懐中電灯の灯りを追う。
それでも、その広い背中を見て、ふぅっと一度大きく息を吐いた。
そして。
「朝比奈さん!」
立ち止まって大きな声で、そう叫ぶ。
すると、先を歩いていた朝比奈さんがクルリと振り向いた。
その姿を見て、ニッコリと微笑む。
「ありがとうございます!」
ここに連れて来てくれた事、この桜を見せてくれた事、不器用ながらも慰めてくれた事、本当に感謝してる。
優しくもなく、気の利いた慰めもないけど、それでも真っ直ぐに私に言葉を投げかけてくれた。
不器用で、不格好で、それでも何より私を思って言ってくれた言葉。
「私、頑張りますね!」
無くしたものばかり数える日々は、もう止めよう。
過去を変える事は出来ないけど、未来は変えられるのだから。
そんな単純な事も忘れていた自分が馬鹿みたいに思えた。
大きく息を吸って、空を見上げる。
どこまでも広がる広大な空を見ていると、自分の悩みがちっぽけなものに感じる。
そして、それと同時に母の言葉を思い出す。
『ここには何もないように見えるけど、本当に必要なもの全部揃ってるのよ』という言葉を。
確かに、ここには何もない。
コンビニも本屋も映画館も、お洒落なカフェも地下鉄も流行りの服も。
だけど、生きていく上で一番大切なものはそんなものじゃない。
それは人生を少しばかり『楽しく』するだけのもので、本当に必要なものではない。
本当に大切なものは他にある。
まだそれが何なのかはハッキリとは分からないけど、そうだと思える。
それは、ここにあるのだと思える。
今は。
「明日、焼き肉にしましょうか」
そう言って、勢いよく朝比奈さんの元に駆け寄る。
すると、そんな私を見て朝比奈さんは少しだけ不愛想な顔を緩めた。
「俺カルビ多めで」
「え~豚バラでしょ~」
ケラケラと笑いながら、懐中電灯の明かりの元、歩いていく。
頼りない灯りだけど、真っ暗闇の中ではそれが道標になる。
その灯りが正しいと思えば、私はもう迷う事なく前に進める。
進んだその先に、明るい未来があると信じて――。
「朝比奈さん、ご飯できましたよ~」
二階に向かってそう叫べば、寝ぐせをつけたままの朝比奈さんが眠そうに降りてきた。
その姿を横目にテキパキとご飯と味噌汁をよそって、テーブルに並べていく。
「おはようございます」
「……はよ」
夜更かしでもしていたのか、大きな欠伸と共に小さくそう言った朝比奈さんは、席に着くや否や丁寧に手を合わせてご飯を食べ始めた。
朝から茶碗いっぱいにモリモリ食べるから、作っていて気持ちがいい。
――…あの桜の件以来、朝比奈さんとの距離は縮まったように思う。
といっても、ガラリと変わって会話が増えたわけではないけど、私も朝比奈さんも空気感が変わったように思う。
余所余所しさが消えて、いい距離感を保ちつつ互いを少しだけ認めあえた気がする。
「朝比奈さん、今日は何するんですか?」
淹れたお茶を渡しながらそう問いかけると、眠そうな目でチラリと私に視線を向けた朝比奈さん。
その黒目がちな瞳が、朝の光を取り込んで輝いている。
「別に」
「っていうか、いつも何してるんですか? そもそも、仕事は?」
「他人の心配より自分の心配しろよな」
「え?」
「あんたこそ仕事探してんだろ」
そう言って、朝比奈さんは向こうのテーブルの上に置いてあった求人誌に視線を向けた。
その視線を見て、言い返す言葉に詰まる。
こっちに帰ってきて、一ヵ月が過ぎた。
相変わらず私の毎日は、畑仕事と掃除と洗濯とご飯用意。
そんな専業主婦のような日々に、そろそろ危機感を覚えてきた所だ。
だけど、両親の世界一周旅行が終われば、私のここでの仕事は終わる。
もちろん、ずっとここでこの仕事をする事も出来るけど、そんなつもりサラサラない。
確かに、以前よりここの事を好きになってきたし、素敵だなと思う部分が出てきたのは事実。
だけど、この若さでここで一生を送るのは、どうしても嫌だった。
「また東京に戻ろうかなって思ってるんです」
「なんでそんな東京に拘るわけ」
「だって、どうせ行くなら東京かなって」
「典型的な田舎者の考えだな」
「ちょ、失礼ですよ!」
「仕事なんて、どこにでもあるだろ」
「東京の方が沢山仕事があるんです!」
「その何倍も人が集まってくるんだから、逆に仕事が無いだろ」
まぁ、朝比奈さんとは相変わらずこんな感じ。
不愛想で、意地悪で、口を開けば素っ気無い言葉ばかり。
それでも、真っ直ぐに届く言葉には力があって、誤魔化しがないから何かと気づかされる事もあったりする。
といっても、半分はイライラして終わっているけど。
はぁと溜息を吐きながら、黙々と食事を続ける朝比奈さんを横目にキッチンへと戻る。
そろそろ、次の就職先の目星だけでも見つけとかないと苦労するのは自分だ。
と言っても、この平凡でスローライフな日々に染まってしまった今、なかなか重い腰が上がらないのが現状。
それに、こっちにいる限り面接などは受ける事ができないから、どうしようもない。
焦る気持ちだけが早歩きを初めて、現状は何も変わっていない。
将来に一抹の不安を感じながら、ペラリと求人誌を開いた。
その時――…。
Trrrrrr―――。
ポケットに入れておいた携帯が突然鳴って飛び上がる。
慌てて取り出して画面を見れば『母』の文字が浮かんでいた。
「もしもし?」
『あ、志穂? おはよう!』
「うん、おはよ。どしたの?」
『ねぇ、今お母さんどこにいると思う~?』
「え?」
『あ、それよりお土産送っておいたから食べてね。いろんな温泉地回ってきたの』
「うん、で、お母さん」
『沖縄まで行ったのに、お父さんったら泳げないの一点張りで、もう~うふふふふふふふふ』
「――」
『もうちょっとで、いよいよ世界一周よ~。お母さん、少しだけ英語も勉強したのよ! アイキャンフライ!』
最強にマイペースな母の様子に、呆れてものも言えない。
相変わらずな様子に苦笑いを浮かべるが、とりあえず元気そうで安心した。
「それで、お母さん、どしたの? 何か用事があったんじゃないの?」
放っておいたら永遠に喋りそうだと思って、話の区切りがいい所で本題に入った。
すると、母も温泉地での珍道中話を途中でストップしてくれた。
そして、突然ぶっ飛んだ事を言い出したんだ。
『そうそう! 今日からね、そこに新しい下宿人の方が来るわよ』
突然言われた言葉に、目が点になる。
え? と思う間もなく、母は再びマシンガントークに火を付けた。
『本当は旅行に出る前には決まってたんだけどね、もう旅行に行くのが楽しみすぎて、すっかり忘れてたわ~。やだもぅ~』
「ちょ、ちょっと待って、今日から!?」
『志穂にも伝えなきゃって思ってたのに、お母さん、うっかり』
「待ってよ! そんな突然! だって何も準備してないよ!?」
『適当にやっちゃって! あ、いい人そうだったらから安心して大丈夫よ。そうだ、今日は何作るの? 引っ越し祝いに、お蕎麦かしら~~?』
マイペースさに拍車がかかりすぎて、もはや会話にならない。
でも、要するに今日から新しい下宿人が増えるって事!?
でも、部屋とか全然準備してないし、そんな事突然言われても困るんだけど!
『あ、お父さんが起きたわ。じゃぁ、また電話するわね~。またね~』
そんな私とは正反対に他人事のように母はそう言って、一方的に電話を切った。
回線が切れて、呆然と立ち尽くす。
頭の中に情報が一気に入ってきて、こんがらがっている。
「何? なんかあった?」
呆然と立ち尽くす私を見て、訝し気に首を傾げる朝比奈さんだったけど、返事すらできない。
頭の中で疑問符が渦のように回っている。
それでも、ここに新しい人が来る事に変わりはないのだから、急いで準備しなきゃ。
そう思って、慌てて二階の部屋に向かおうとした、その時――。
「あ~! こっちこっち! こっちです!」
突然静かだった世界に、そんな声が聞こえる。
その声に動かしていた体を止めて、後ろを振り返る。
すると、朝比奈さんにも聞こえたのか動きを止めた彼が伺うように玄関先を見つめていた。
すると。
「こんにちわ~!」
次の瞬間、どこか間延びした声が玄関の方から聞こえて嫌な予感が湧きあがる。
まさか、もう来ちゃったとか!?
嫌な汗が零れそうになる中、勢いよく駆けだして玄関を開ける。
それでも――。
「あ~危ない危ない!」
玄関扉を開けた瞬間、そんな大きな声が聞こえて反射的に飛び出しそうだった体を止める。
驚いて息を飲めば、目の前にはいくつも積み上げられた段ボールが鼻先スレスレの所にあって、それが頼りなくフラフラと左右に揺れていた。
え? と思って体を後ろに引いて下を向けば、誰かの足がおぼつかない様子で踏ん張っていた。
「ちょい、そこの人! 一番上の段ボール下ろして!」
「え?」
「早く早く! もうバランス崩れそうやねんっ!」
「は、はい!」
その切羽詰まった様子に、慌てて不安定に揺れる段ボールタワーの一番上を持ち上げる。
想像以上の重さに、腰が砕けそうになったけど寸での所で踏みとどまった。
そして、プルプルと震える腕で慎重に地面にそれを下ろした。
すると。
「いや~助かった助かった! もうちょっとで、俺の下着が玄関先に散らばる所やったわ」
アハハハハという何とも豪快な笑い声が聞こえて顔を上げると、さっきまで持っていた段ボールを床に置いた一人の男性が朝日を背に立っていた。
一瞬逆行でその顔が見えなかったけど、しゃがみ込む私の隣に同じように屈んだ瞬間、その顔がハッキリと見えた。