「ケン兄?」

夜の9時過ぎ、音楽部屋のドアをノックしても返事がない。
そろりとドアを開けて見ると電子ピアノにつっぷしている人を見つけた。

耳にヘッドフォン。
電子ピアノの電源はオンになっている。

「ケン兄!」

ヘッドフォンの片方を少し浮かせて耳元で呼ぶと、ケン兄はぱっちりと目を覚ました。

「…びっくりした」

一間おいて返事がある。
ヘッドフォンからは大音量の音。
ケン兄は音楽のことになると「変人」だ。間違いなく。

「ジョジョの続き、借りにきたんだけど」

私とケン兄の間では『古くて有名な漫画』がブームだ。
「ドラえもん」にはじまり、手塚治虫の「ブラックジャック」「鉄腕アトム」「リボンの騎士」、他にも「北斗の拳」、「美味しんぼ」を読破した。

「ああ、どれくらい持って行く?」

ケン兄は鞄を漁っている。
いつもどこからか漫画を借りてきて、私に貸してくれる。
ようは又貸し。

「そう言えば」

3冊重ねられた漫画を渡される。

「あいつ、会いたがっていた」

「翔太が」とケン兄は付け足した。

「ああ」と返事をする。そう言えば最近顔を見ていない。

「元気なんだ?」

「あいつはいつでも元気だと思うよ」

だろうなあ、と思う。
いつ会ってもやたらテンション高い気がする。

『ユカちゃーん』

あの間延びした、すこし間抜けな呼ばれ方を不意に思い出して私はこっそり笑う。

「あの人、いっつも元気だよね」

「まあ」と言ってケン兄は後を濁したのできょとん、としてしまう。

「苦労しているんだけどな。あれでも」

ぼそりとケン兄が答えた。

「苦労?」

「ちょっと家庭事情が複雑、かな。父親と小さな頃に死別していて、今は母親と2人暮らしらしい。
色々あるみたいだよ。」

ケン兄は唸って、「やっぱりこれ、オフレコね」と言った。
私は頷く。

『父親と死別』
『母親と2人暮らし』

ぐるぐる何回もその言葉が頭の中で回った。