「糸井紫織ちゃん。
今から俺とデートしない?」


突然後ろから抱きしめられ、そう言われる文化祭前日の夕方4時23分。


「え、誰ですか?」


匂い覚えのある匂いがすると思っても、

声は聞き覚えがないし、

そんなことを突然してくる異性が居る覚えももちろんない。


「俺のこと聞いてるでしょ?
千谷龍橙。3年D組のバスケ部です。」


せんや...りゅうだい...


その名前を聞いて思い浮かぶのは、

莉嘉先輩に生人先輩、それに陸空先輩。








そして、咲妃さん。


「え、なんで千谷先輩が?
ていうか、離してください」


「いいじゃん。これくらい。
噂の涼くんにはされてたんでしょ?」


「さっきの話、聞いてたんですか?」


「そりゃあんな大声で話してれば聞きたくなくても聞こえる。」



「はぁ。」



あいつ声でかいしなー


と未だ後ろから私に抱きつきながらそう言ってくる。



この時点での千谷先輩の印象は『デリカシーのない人。』


どんなに聞こえたって、あんな内容の話を聞いたんだったらちょっとくらい自粛してくれればいいのに。


「で、デートはしてくれないの?」


突然耳元で言ってくるから、腰が抜けかける。


「しないです。
ていうかそもそもどこ行くんですか。」


「ここからすぐの映画館。」


「嫌です。そこ、嫌いなんで。」


1年前まで、何度も行った映画館。


素敵な思い出も今となっては思い出したくもない思い出と化してしまった。



「えーじゃあご飯行こ?俺が奢ってあげるから。」


「嫌です。
ていうかそもそも、なんで私なんですか。」


突然なんの前触れもなく抱きしめてきたと思ったらデートの誘い。


その疑問しか浮かばない。


「ずっと紫織ちゃんのこと気になってたから。
チャンスだと思って。」


「へぇ。」


「紫織ちゃんって人見知りじゃなかったの?
初対面にこんなガツガツ喋れるんだ。」


「第一印象悪い人には強気になれるだけです。」


「それすっごい悪口。」


そうは言うもののハハっと乾いた笑いを漏らす。


「もうなんでもいいんで本当に離してください」


「そんな事言わないで。寂しいじゃん。」


突然今までと声のトーンを変えてそんなことを言うから一瞬怯んでしまう。


「ね?お願い。ご飯行こ。」


そのままのトーンで続けて言う千谷先輩。


それと同時に喉仏が鳴る音が小さく聞こえる。





この抱きしめられる感覚。

この喉仏のなる音。

この匂い。


全く関係の無い人の筈なのに、嫌だったはずの思い出が浄化されて思い出される。



あの人と先輩を重ねてしまう。




私でも気づかないうちに、


「離してくれたら...
離してくれたら行きます。」


そう答えていた。




こんなことしても何にもならないし、あの人が戻ってくる事なんて無いってこと。


分かってるようで、


分かってない。