郵便局の角から十分程歩いてきただろうか。
 時折吹く涼しげな風が、道端の草花を揺らしていく。アスファルトに反射した日差しが眩しい。
 どこの家からか、微かに漏れたテレビの音。遠くから聞こえてくる、公園の子ども達の笑い声。昼下がりの住宅街は長閑だ。都会の喧騒とはまるで無縁で、時間がゆっくりと流れていく。俺はこの感覚が好きだった。


 チャララッチャッチャララ チャ〜ラチャッラ〜♪


 突然、ポケットの中から着信音が鳴り響いた。
 長閑さとは対極のバンド音楽に顔をしかめつつ(いや、これを設定したのは俺なんだけど)スマートフォンを取り出して––––画面に表示された名前に、俺は益々眉根を寄せた。


 チャララッチャチャララ チャ〜ラチャッラ〜♪


 暫く躊躇した後、諦めて応答ボタンを押す。
「……もしもし?」
「あ、玲央?え、玲央だよね?」
 キン、と耳に響く高い声。
「俺じゃなかったら誰だよ。お前、俺に掛けたんじゃねーの」
「やっば!え、ウソ、ちょー久しぶりじゃん!え、元気?」
「久しぶりってお前、よくボソッターでウザ絡みしてきただろ……」

 ボソッターというのは、大抵の若者は皆やっているつぶやき型コミュニティサイトである。

「やっだぁもう、声聞くのがってこと!ってか、やば、玲央じゃん!え、元気?」
「……さっきまで元気だったけど、何かお前の所為で疲れた」
「何ソレ、ひっど!久しぶりなのに玲央って冷たーい」
 まじないわー、と言いながら電話口の向こうは爆笑している。
「おい瑠花、用ないんなら切る」
 溜息をついてそう言った途端、今度はええーと不満そうな声が上がった。
「せっかくあたしが電話掛けてんのに、まじでひどーい」
「お前がいきなりすぎんだろ」
「サプライズサプライズ♡」
「いらねーよ、そんなサプライズ」
「あ、玲央が怒ってるーう」


 相変わらずのテンションに、俺は軽くこめかみを押さえた。
 騒がしさは未だに健在らしい。長旅を終えたばかりの俺にとって、その煩わしさといったら、最早疲れを増長させるものでしかない。


「……おい瑠花。絡む以外に用がないなら、まじで切るぞ」
 ため息をついてスマートフォンを耳から外そうとした瞬間、電話の向こうから違う声が聞こえた。
「瑠花、もう俺に代われ」
「ええー、まだ話し足りないんだけど」
「いーから、ほら、電話よこせ。そろそろ玲央が怒る」
「えー、大丈夫だって」
「どうせ後で会えるだろ、ほら、いいから」
「ちぇ、はーい……んじゃ、玲央、代わるねー」
 渋々、といった声ではあったが、瑠花にしては珍しく素直に引き下がったようだ。通話口の向こうからは衣擦れのような物音が聞こえて、はい、とどうやら瑠花は誰かにスマートフォンを手渡したようだ。


「よっ玲央!もう着いたか!」
 手渡されたその相手は、
「大樹、久しぶり!」
 中嶋大樹––––俺にとって、高校で出来た数少ない親友の一人だ。そして今日からの、俺の宿泊場所を提供してくれた相手である。


「おう、久しぶり!ま、玲央とはこないだも電話したけどな」
 そう言って、大樹は声をあげて笑った。からっとした明るい声に、さっきまでの疲れも軽く吹き飛ぶ。いつ聞いても、大樹の声は俺に元気を与えてくれるものらしい。


「調子、どーよ」
「まあまあだな。つーか、こっちはめちゃくちゃ暑いな」
「まじで?あー、そっか、玲央んとこは涼しそうだもんな。仕方ねーよ、こっちは南だ」
「そりゃそーか。で、大樹は?調子」
「あ、俺?超絶元気。まじで、ちょー元気」
 元気すぎてうっさいもんねー、と電話の向こうで瑠花の声がする。
「瑠花にだけはうっさいとか言われたくねーな」
 即座に大樹が反駁した。
「それな」
 俺も頷いて、––––ふと、疑問が浮かぶ。
「……って大樹、何で瑠花がいんだよ」
「あ、やっぱツっこまれた」
 大樹が通話口でブッと吹き出す。
「やっぱ、じゃねーよ。まじで電源切ろうかと思ったぞ」

 冗談のように笑って返すと、どうやら大樹のツボに嵌ったようだ。勢いのあまりむせ返って、引き笑い状態になっている。

「あー、やべ、しにそう」
「一回落ち着け」
「いやー、ムリムリ」
 顔を見なくとも、大樹の涙を浮かべた顔はありありと浮かんだ。ツボに入ると泣き笑いみたいな顔になるんだ、コイツ。
「だってさ?玲央が今日来るんだって自慢したらさ、あたしも会いたい!って聞かなくて。ほら、こいつ言い出したら聞かねーじゃん?」
「そーいやそーだな。え、じゃあ瑠花って今お前ん家にいるのか」
「おう。玲央の歓迎会やるんだっつってお菓子買い込んできてるよ」
「まじかよ……」
 久しぶりに帰って早々、どうやらどっと疲れそうな予感がする。
「まあまあ、大目に見てやれって。瑠花だって悪気はねーんだしさ」
「悪気があってたまるかよ……」

 なにー、あたしの話してんのお?と瑠花が楽しそうな声をあげる。やっぱあたし人気者じゃーんとか何とか、好き放題だ。電話口の大樹は、まだひくひくと引きつったように笑っている。
 俺の中の予感が確信に変わった。

「あーやべ、まじで笑い死にそう」
「だから落ち着けって」
「や、ほんとムリ。お前ら面白すぎる」
 ひでえ……。帰省して早々ここまで笑われると、俺だってそれなりに傷つくぞ。
 そんな俺の心中はつゆ知らず、大樹はそれで、と話を続けた。
「もーそろつく感じ?」
「そーだな、そろそろ赤屋根の角」



 赤屋根というのは、前原南街の三丁目と四丁目の境にある、赤い屋根の一軒家のことだ。そもそも、この住宅街では真っ赤な屋根自体が珍しい。そのため、街の子ども達の間ではこの赤屋根の家が目印としてよく使われている。大人の道案内でも、それは例外ではなかった。


「お、じゃあ後五分てとこだな。んじゃ、待ってるわ」
「おう。ありがとな」
「おっす」
 電話が切れる。同時に、一瞬で元の静けさが俺を包んだ。
 さっきまでのちょっとした喧騒(主に瑠花のせいではある)が、まるで白昼夢であったみたいに。


 赤屋根の角を曲がって、四丁目の路地に入る。そのまま少し歩くと、大樹の家が見えてきた。高校時代、しょっちゅう上がり込んでいた懐かしい一軒家だ。庭に植えてある椎の木が、青々とした変わらない姿で俺を迎える。


 ––––––ああ、俺は帰ってきたんだ。


 一気に懐かしさが溢れた。
 そうだ、帰ってきたんだ。たくさんの思い出がつまった、この街に。七年の月日を経て、帰ってきたんだ。
 胸の奥に仕舞い込んでいた思い出の蓋が開いて、色々な感情が心の中に流れ込んでくるようだった。懐かしくて、憧れや、苦しさ、楽しさ、切なさがぐちゃぐちゃに混ざった不思議な感覚。



 心がぎゅっと少しだけ縮んで、でもその感覚は決して嫌なものではなかった。