次の日の早朝、まだ、外が薄暗い時に、シャラは、スフィルに起こされた。
 「シャラ!起きろ、起きろって!間に合わなくなるぞ!」
 布団の中にしては、かなり冷たくて硬い。
 ゆっくり起き上がると、布団の中ではなく、囲炉裏のそばの、板の間に、直接寝転んでいた。
 「あれ?私…なんでここに…」
 スフィルが、微笑んで言った。
 「シャラ、昨日、泣きながら、そのまま寝ちゃっただろう?俺も、座ったまま、寝ちゃったんだ。首が痛いよ。さあ、今日は森を抜けるんだ。動きやすい格好をしろよ。着替えたら、甕の中に、水を入れておいてくれないか。」
 慌ただしく準備を終え、簡単な朝餉をすますと、すぐに工房へと出発した。
 スフィルが、歩きながら、申し訳なさそうに言った。
 「本当にごめんな。工房とかがある街は、この少し先にある、深い森を、丸々一個分、越えたところにあるんだ。だから、このぐらい早い時間じゃないと、開店時間に、間に合わなくなるんだよ。」
 確かに間に合わないだろう、と、シャラは心の中で思った。
 目の前に見えてきた森は、鬱蒼と繁った木々で覆われていて、その向こう側など、全く見えないぐらい深い。
 そう見てみると、こう問わずにはいられなかった。
 「ねえ、スフィル。大変って分かっているのに、どうして、こんなに深い森の奥に、家なんて建てたの?」
 スフィルは、困ったように、頭を掻きながら言った。
 「うーん…なんて言えばいいんかな…。まあ、河の近くに、家を建てたかったんだ。河が近ければ、井戸を作る必要も無いし、洗濯だっていくらでもできるし、この辺は源流に近いところだから、河から水道を引けば、飲むことだってできるし…と言っても、俺の場合は、そのまま河から水をとって、甕の中に入れて、使っているんだけどな。」
 そこで、スフィルは黙ったあと、もう一度口を開いた。
 「…つまり、まとめて言えば、使い勝手がいいから、ってことだな。でも、別の理由もあるんだ。俺は…元々王家の息子だ。命を狙われない保証はない。分かるだろ?命を狙われた時、周囲の人々を巻き込むことは出来ない。」
 スフィルは、木々からこぼれる木漏れ日を、目を細めて見上げながら、呟くように言った。
 「建ててから、もちろん思った。ここ、すごく不便だなって。街から遠いし、あると言っても、水と自然だけだ。でも、後悔しても、もう遅いし、さっき言ったような理由もあるから…そのまま、ここに暮らしてるんだ。あ、ここから、結構歩くぞ。大分深い森だから、手つないどけ。俺も、最初は迷ってさ。大変な思いをしたことがあるんだ。獣道すら、そんなに無いところだからな。森を抜けた時には、もう夕暮れだった。」
 そっと、それでもしっかり握ってくれた、スフィルの手は、温かく、女性かと思うくらいの細い指だった。
 よほど、安全に気をつかってきたのだろう…肉体的にも精神的にも、体が持たない日々のはずだ。
 それでも、ここまで痩せながら、しっかりと、自分の店を経営し、自分一人で、生きてきているのだ。
 スフィルの生命力、過酷な環境への、適応能力が高いのは、確かだった。
 森の中は薄暗かったものの、ちらちらと木漏れ日がさして、とても気持ちよかった。
 何も話さなかったが、スフィルが、手を繋いでいるのに、たびたび、心配そうに振り向くのが、少し面白かった。
 「何、笑ってるんだ?」
 「ううん、なんでもない。」
 今ならわかる。
 こうやって交わせる、何気ない会話ですら、幸せなんだ、と…。
 こうして、数十分も歩いただろうか。
 急に木々が途切れ、ひらけた、明るいところに出た。
 広い道の先には、噴水が水を噴き上げている、大きな広場のようなところがあり、道の横には、たくさんの店が、軒を連ねている。
 たくさんの人が行き来する通りは、かなりざわついている。
 珍しそうに、きょろきょろと周りを見ているシャラに、スフィルは言った。
 「ここが『民ノ街』だ。一応…カウン国にもあるんだけど、お前は見たことないと思う。母上のことだ。あんまり、人前には出なかっただろうから。この街は、ルータイでは、『商いノ街』とも呼ばれているんだよ。そのぐらい、多くの店が立ち並ぶ、ルータイ唯一の街なんだ。ただ、俺の店はこっちなんだ。あとから来たから、大分奥の方に建てたんだ。もう少し歩くよ。」
 少し歩くと、さっき見えた広場に入った。
 「ここは、『水ノ広場』っていう場所。噴水とか、小さな水路が、たくさんあるだろ?名の通り、水が街の中で、一番多い場所なんだ。夏も涼しいし、綺麗な場所だから、人気の広場だよ。俺の店は、もう少し奥なんだ。」
 もう少し歩くと、「竪琴ノ工房」と書かれた看板がかけられた、大きな建物が見えた。
 「さあ、着いたぞ。遠かったな、お疲れ様。ここが、俺の店だ。大きいだろ?師匠の元を離れて、一から作ったんだ。」
 スフィルが、自慢げに話していると、たくさんの人が、ぞろぞろと集まってきた。
 「よう!元気か?スフィルが来るのを待っていたんだぞ!…前、修理に出した、竪琴の修理、終わったかなって思ったんだが…どうだ?」
 「フィラン!大丈夫!終わってるよ。」
 「なあ、スフィル。さっきライリーが、ここに入っていったぞ。お前さ、たまには、ライリーよりも早く店に入れよ。」
 「キース…お前、ライリーの家、どこにあるか知らないだろ。そこ、目の前にあるんだ。俺は、森の奥。ライリーの方が早いに決まってるだろ。」
 スフィルは、楽しそうに話している。
 (この人たちは、一体…)
 シャラは、困ったような顔をして、スフィルを見上げた。
 その視線に気づいたスフィルは、苦笑しながら言った。
 「ああ、ごめんな。びっくりしただろ?実は、ルータイの中では、竪琴工房は、俺の店しかないんだ。それに、作成、販売に加えて、修理もしているからな。結構、顔が知られているんだ。」
 シャラは納得して頷いた。
 深い森の奥に住んでいるとはいえ、スフィルのような、明るくて、優しい青年は、好かれるのだろう。
 ずっと、ずっと会いたかった、スフィル。
 元から、とても優しくて、いかにも、「好青年」という雰囲気を持っていたが、この六年で、その雰囲気が、さらに強くなっているのを、実感できる。
 (でも、ここまで頼られているなら、命を狙われても、助けてくれそうなのに…やっぱり、仲間愛も変わっていないのかな?)
 シャラの疑問をよそに、スフィルは、明るく言った。
 「さあ、おいで。…俺の店、『竪琴ノ工房』へようこそ。」
 戸を開けて入った店内は、ふわっと木の香りがする、落ち着いた雰囲気の店内だった。
 たくさんある棚の前で、誰かが、忙しそうに動いている。女性だろうか。
 (…誰?)
 ふと、戸が開いたのを、思い出したように、棚の前で準備をしていた人が、ぱっと顔を上げた。
 「あっ!スフィル師!おはようございます!…あら?そちらは?」
 スフィルは、シャラを一瞥すると、シャラの頭に、ぽん、と手を置いて言った。
 「こいつか?俺の妹だ。シャラっていうんだ。…シャラ、こいつは、この店を一緒に経営している、ライリー・ユファン。俺の弟子でもあるんだ。」
 シャラは、深くお辞儀をした。
 ライリーが、微笑んで言った。
 「シャラ…いい名ね。私は、ライリー・ユファン。二十歳。スフィルよりも、年上だけど、弟子なんだ。よろしくね。」
 シャラは、店を見渡してから、そっと、棚に並べてある竪琴を手に取った。
 美しい曲線をした土台に、しっかりと弦が張られている。
 指を当てて、そっと下に引くと、ロン…と、優しい音がした。
 「綺麗だろ?それは、ライリーが作ったんだよ。そうだ!シャラにも教えてやるよ。一緒に作ろう。きっとうまく作れるよ!」
 「え!?スフィル師!今日は、レガノさんから、修理の依頼が…」
 「ああ、あれか!大丈夫!弦が切れたやつだろ?あんなの瞬殺だ。すぐに終わらせれるし、シャラを教えながらでも、修理はできる!」
 そう言いきると、スフィルは、店の奥にある工房へ、シャラを連れて入った。
 工房は、材料となる、太い木や、細い木、作りかけの竪琴、弦が張りかけの竪琴…など、様々なものがおいてある。
 かなり、落ち着いた雰囲気の部屋だった。ここなら、集中して竪琴作りに励めるだろう。
 「よし!じゃあ、作るか!…ライリー!店番頼むよ!」
 売り場の方へ向かって叫ぶと、シャラとスフィルは、竪琴を作り始めた。
 
 一時間後、シャラの手には一つの竪琴があった。スフィルの手にも、修理を終えた竪琴がある。
 「おっ!シャラ、上手いじゃん!初めてにしては、上出来だな。うん、これなら、俺のあとを継いで、ライリーとやっていけるな。」
 作ったばかりの竪琴を、試しに弾いていたシャラは、その言葉に驚いて、声も出せずに、スフィルを凝視した。
 視線に気づいたスフィルが、笑いながら言った。
 「い、いやいや!ちょっと待て!冗談!冗談だよ!そんなに驚かなくてもいいよ。この店は、ライリーに継いでもらうんだ。ライリーが弟子入りしたときから、そうやって決めていたんだよ。間違っても、お前に、『ここの店を継げ。お前ならやれる。』…なんて言わないから、安心しろ!」
 そう話すスフィルの目は、楽しそうに輝いていた。
 シャラは思った。
 幸せな時間を、今、この瞬間にも過ごしている…と。
 夢にまで見た、兄との暮らし、何気ない会話を交わせる、幸せな時間。
 王家の子ではなく、普通の民として暮らせる、安心感と解放感。
 父も母も失くした自分は、つい昨日まで、不幸のどん底にいた。
 ランギョに乗り、流されながら、二人の後を、追いたいと思った。
 リーガンに裏切られた、と分かったあの時、頼れる人は、思いつかなかった。
 もう、そうやって頼れる人がいないなら、死んだ方がましだ、と思っていた。
 呪いノ民の、穢れた血が流れる自分が、生きる必要性など、絶対に無いと思っていた。
 一緒に生きる人もいない。死のうとした時、止めてくれる人もいない。
 河で、ランギョから落ちた時、このまま死ねばいいんだ、と思った。
 ここまで冷たければ、桟橋に掴まっていれば、自然に死ねると思った。
 そして、朦朧とした意識の中で、桟橋に掴まった時、安心した。
 これで死ねる、これで、母達の元に逝ける…と。
 そして、気を失ったあとに、自分を救ってくれたのが、兄のスフィルだ。
 自分が、長年探していたスフィルは、容姿端麗で、背が高くて、優しくて、竪琴が作れて、店を経営できて、たくさんの友人がいて…憧れの兄に成長していた。
 これほどの幸せが、他にあるだろうか?…いや、ないだろう。
 スフィルと、同じ血が流れる家族と、一緒に過ごせる、その時間こそ、何よりも幸せな時間だった。
 ここにいる人間が、一人欠けては、決して、完成しない幸せが、今ここにある。
 二度とない、と思っていた幸せが、今ここにある。
 この幸せは、もう崩れてほしくなかった。
 ずっと、笑っていたかった。
 もう、悲しみの涙は、流したくなかった。
 この、幸せな時間が、長く続いてくれることを、シャラは、強く願わずにはいられなかった。