王たちが乗った馬車が見えてきても、シャラは顔色一つ変えなかった。
リューサは、そっとシャラを横目で見た。
大丈夫だろうか…。
あの馬車には、リーガン・アントナも乗っているのだ。
シャラが、いつ逆上するかもわからない。
サリムが、小声で囁いた。
「…そろそろ到着なさるわ。くれぐれも無礼のないようにね。マーサー王の怒りを買えば、死刑は免れないわよ。」
そう言ったサリムの顔が、わずかにこわばっていた。
シャラは、思わず手を強く握りしめた。
サリムも、元々はカウン国王家の娘だ。マーサーとリーガンが知らないはずがない。
サリムにとってのリーガンは、自分と同じ、母親を殺した者だ。
本当は、かなり怒りを感じているはずだ。
(ハジャレン…どうか私を…サリミアを…見守っていて…)
そこまで考えて、ふと気づいた。
サリムのことを、再会してから一度も、サリミアと呼んだことがないのだ。
(お姉ちゃんと…呼ぶべきなのかな?)
ちらっと、サリムを見た。
あとから聞いたことだが、サリムというのは、サリミアの親しみを込めた呼び方らしく、サリムは、それを名前として使っているのだ。
元王女として、生きていた頃の姿を、知られないように…ただ、それだけのために…。
とん、と肩を叩かれて、振り向くと、用務のサラがいた。
「ルテーハ荘は、ついさっき、ハンナが準備を終えたわ。カヤンは、獣舎にいれているし…そろそろ行きなさい。あなたは、まだここで姿を見られちゃいけないわ。」
シャラは、静かに頷くと、リューサに今言われたことを伝え、獣舎へと走っていった。
ラルは、辺りを確認してから、馬車を止めた。
「マーサー王、着きました。」
従者が、馬車の戸を開けた。
後ろの馬車からも、リーガンを始めとする王たちが、次々と降りている。
馬から降りると、暖かい太陽の光が身体に当たった。目の前には大きな山があり、辺りは森ばかりだった。
馬車から降りたマーサーは、そっと、学長という札を胸につけた女性に目を移した。
その視線に気づいた女性が、すっと頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました。遠くから、このウォーター学舎へお越しくださいまして、ありがとうございます。私は、このウォーター学舎で、学長と教導ノ師を務めております、サリム・レッカーと申します。」
マーサーは頷くと言った。
「そんな固い挨拶はしなくても良い。さっそく、イシュリを見せてもらおうか。」
その瞬間、ラルは、サリムがさっと顔色を変えたのを見た。
サリムは、しばらく黙っていたが、また口を開いた。
「…今、イシュリは起きたばかりでございます。これから朝餉などの時間ですので、まだ見に行くことはなりません。食事の時間を妨げられることを、イシュリは何よりも嫌うのです。どうか、もうしばらく、お待ちください。」
マーサーは、少し残念そうな顔をしたが、微笑むと口を開いた。
「ならば、まずは食堂へと案内してもらおうか。」
サリムは、ぎこちない微笑みを浮かべると頷いた。
「もちろんでございます。こちらへどうぞ。」
王たちがぞろぞろと続く中で、ラルはその横を静かに歩いていった。
(あの…サリムとかいう師…)
最初から、ずっと心に引っかかっていた。
妙に、何かを警戒しているような態度なのだ。
特に、さっきのマーサーからの、イシュリを見たいという言葉に対する態度は、まるで、必死に冷静さを保とうとしているみたいだった。
(俺と…同じぐらいの年齢に見えるな…いつから学長をやっているんだ?)
サリムは、二十歳の自分と、ほとんど変わらないように見える。
加えて、三年前に処刑された、リヨンの面影が見える気がする。
(リヨン女王は…シャラ王女と、その兄のスフィル王子しか…子がいなかったはずだが…)
「…ル…ラル!」
はっと我に返った。
バディのアストが、心配そうな顔をして、自分の顔を覗きこんでいた。
「どうしたんだ?ぼーっとして…そろそろ食堂だが…体調でも悪いのか?」
ほぼ反射的に、首を横に振った。
「大丈夫だ。」
アストが、ため息をついた。
「お前さ、なんか気がついたことあるんじゃねえの?」
驚いてアストに視線を移してから、はっとした。
(しまった…)
アストがもう一度ため息をついた。
「分からないわけがないだろう?…言ってみろよ。何に気がついたんだ?」
ラルは答えずに、アストを見つめた。
この男、アスト・キラードは、キラード家の次男だ。
キラード家は、大富豪の家で、長男から順に家を継いでいく、伝統ある家系だった。
アストが近衛兵となったのは、今から十年前、キラード家が強盗に襲われ、家族を失った十歳の時だった。
近衛兵の不足で、近衛兵全員が別の事件にかかりきりになってしまい、その事件に手が回らなかったのだ。
それを知ったアストは、孤児のまま、誰にも背中を押されず、一人で今の世界に入った。
そこでバディを組むことになったのが、自分だった。
(アストは…強いな…)
ラルも、様々な事情があって、今の世界に入った身だ。
決して、望んで入ったわけでは無い…アストとは、正反対だった。
そこまで考えた時、アストが眉をひそめて、ラルから視線をずらした。
ラルも、はっとして、同じ方に目をやった。
「…ラル、聞こえたか?」
ラルは、頷き、横目で王の方を見た。
(気づいていない…?)
気のせいだろうか。だが、アストも恐らく聞こえていた。
「笛のような音がしていたよな?」
アストに言われ、静かに頷いた。
甲高い、抑揚がつけられた音。
それが聞こえたのだ。自分だけではなく、アストにまで。
「アスト…王たちを頼む。」
言うが早いか、ラルは駆け出して、音が聞こえた方へ向かった。
シャラは、獣舎に入るなり、カヤンの足元へ行った。
「カヤン…どうしよう…」
リーガンが来た、と言おうとした途端、涙が溢れた。
今日だ。今日、カヤンの世話をする者として、このあとリーガンと会わねばならない。
すぐに獣舎の外に出た。
外の空気を吸って、目を閉じた。
会うなど…絶対に嫌だった。
リーガンを目の前にして、逆上しない自信は、どこにも無かった。
ぐっと唇を噛んだ。
そばに、ハジャレンがいないのが、とても苦しかった。
昨日会ったばかりなのに…と思った。
(私は…どれだけハジャレンに甘えているんだろう…)
操りノ笛を持つと、外に出た。
朝の空気をめいっぱい吸い込んでから、適当に吹いた。なんの意味もなく吹いた。
もちろん、反応はない。
ため息をつきつつ、獣舎に戻り、カヤンに餌をやると、もう一回外に出て、獣舎の裏の森へ入った。
木に背を預けると、木漏れ日が顔に当たり、思わず目を細めた。
(お母様…スフィル…)
二人の顔が、頭に浮かんだ。
二人は、今頃天国で幸せに暮らしているのだろうか…スフィルは、父に許してもらえたのだろうか…。
ため息をついて、目を閉じた。
(私は…どれだけ追い詰められているのだろう…。)
父と母と兄と、城で暮らしたあの日々は、どれだけ平穏で、温かい暮らしだったのか、今になって痛感する。
わずか三年で、ここまで変わってしまうのだろうか…。
閉じた目から、涙が溢れて、頬を伝い落ちた。
あの幸せで、平穏な暮らしに、戻りたかった。
だが、それはもう叶う願いではない。
あの日、継承権を放棄して、母を助けに行った時に、自分から幸せな暮らしを捨てたのだ。
涙を拭い、獣舎に戻ろうとした。
その時、後ろから口を押さえられて、茂みに引き込まれた。
(!?)
慌てて抵抗しようとした時、耳元で囁かれた。
「シャラ、落ち着け!俺だ!」
ハジャレンの声だった。
「…落ち着いたか?そのまま聞け。お前の操りノ笛の音に、マーサーについてきた近衛兵が気づいて、こっちに向かっている。ここで一緒にいてやる。声を出さずに待つんだ。」
シャラが頷くと、そっと手を下ろしてくれた。
隙間から覗くと、ちょうど近衛兵が来たところだった。
走って来たにしては、息切れもなく、笑みも浮かべず、辺りを見渡していた。
その様子をぼんやり見ながら、はっとした。
竪琴と操りノ笛を、獣舎に置いてきたまま、鍵を閉めていないのだ。
カヤンもいるのに…!
思わず動こうとしたシャラの腕を、ハジャレンが掴み、低い声でささやいた。
「何してるんだ!死にたいのか!?」
鍵と笛のことを言うと、ハジャレンは一瞬迷ったが、すぐに首を横に振った。
「だめだ!何かあってからじゃ、遅いんだぞ!」
その時、近衛兵が眉をひそめつつも、踵を返して、帰っていくのが見えた。
ハジャレンは、ほっと息をつくと、シャラを見た。
「あまり、無駄に笛を吹いちゃダメだ。しかも今日から数日間に関しては、ああいう近衛兵が多くいるんだ。奴らは、かなり耳も目もいい。何かあったら、今みたいに助けてやるつもりではいるが、奴らはかなり強い。俺でもどうにも出来ないかもしれないってことを、絶対に忘れるな。今日は、いつもよりも警戒するんだ。分かったか?」
シャラが神妙な顔で頷くと、ハジャレンは森の奥へと帰っていった。
シャラは、戻ることも忘れて、ハジャレンが戻っていった道を、ぼんやりと見つめた。
(ハジャレンは…お母様の本当の願いを知っている…)
ぽつっと、そんな考えが胸に落ちた。
『シャラ…あなたは、私の自慢の娘よ。ずっとそばで、見守れるといいのに…。』
母は、父が亡くなったあと、よく自分を膝に抱いて、そう呟いていた。
ハジャレンは、本人がもう叶えられない、リヨンの夢を知っている。
大体、笛を吹いてすぐ、あんな早くに自分の元に来れるはずがない。
本当に近くにいるのだ。
いつでも、自分の元に来られるように…。
また滲んできた涙を拭うと、踵を返し、獣舎へ戻った。
『おかえりー!』
カヤンが出迎えてくれた。
ふっと微笑むと、カヤンに抱きついた。
ふんわりとした、温もりに包まれながら、安堵のため息をついた。
母の元にいる気分だった。
母にも、こんな温もりがあった。
ふと、さっきの近衛兵の顔が思い浮かんだ。
感情を失った、冷ややかな目をして、無表情で辺りを見渡すあの兵…。
母を亡くしたばかりの頃の、自分にそっくりだった。
(誰かを…亡くしているのかしら…)
三年経って、やっと今の所まで戻れたのだ…でも、それは、スフィルがいてくれたからだった。
(あの人は…)
そんな人がいなかったのだろうか。
大切な人を亡くして、奈落の底に落ちた彼を、支え、引き上げてくれる人は、いなかったのだろうか…。
実は、シャラが見たあの近衛兵こそ、ラル・シガンリーだった。そのラルの過去をシャラが知るのは、少しあとのことになる。
シャラは、ぼんやりと竪琴を手に持ったまま、立ち尽くしていた。
リューサは、そっとシャラを横目で見た。
大丈夫だろうか…。
あの馬車には、リーガン・アントナも乗っているのだ。
シャラが、いつ逆上するかもわからない。
サリムが、小声で囁いた。
「…そろそろ到着なさるわ。くれぐれも無礼のないようにね。マーサー王の怒りを買えば、死刑は免れないわよ。」
そう言ったサリムの顔が、わずかにこわばっていた。
シャラは、思わず手を強く握りしめた。
サリムも、元々はカウン国王家の娘だ。マーサーとリーガンが知らないはずがない。
サリムにとってのリーガンは、自分と同じ、母親を殺した者だ。
本当は、かなり怒りを感じているはずだ。
(ハジャレン…どうか私を…サリミアを…見守っていて…)
そこまで考えて、ふと気づいた。
サリムのことを、再会してから一度も、サリミアと呼んだことがないのだ。
(お姉ちゃんと…呼ぶべきなのかな?)
ちらっと、サリムを見た。
あとから聞いたことだが、サリムというのは、サリミアの親しみを込めた呼び方らしく、サリムは、それを名前として使っているのだ。
元王女として、生きていた頃の姿を、知られないように…ただ、それだけのために…。
とん、と肩を叩かれて、振り向くと、用務のサラがいた。
「ルテーハ荘は、ついさっき、ハンナが準備を終えたわ。カヤンは、獣舎にいれているし…そろそろ行きなさい。あなたは、まだここで姿を見られちゃいけないわ。」
シャラは、静かに頷くと、リューサに今言われたことを伝え、獣舎へと走っていった。
ラルは、辺りを確認してから、馬車を止めた。
「マーサー王、着きました。」
従者が、馬車の戸を開けた。
後ろの馬車からも、リーガンを始めとする王たちが、次々と降りている。
馬から降りると、暖かい太陽の光が身体に当たった。目の前には大きな山があり、辺りは森ばかりだった。
馬車から降りたマーサーは、そっと、学長という札を胸につけた女性に目を移した。
その視線に気づいた女性が、すっと頭を下げた。
「ようこそお越しくださいました。遠くから、このウォーター学舎へお越しくださいまして、ありがとうございます。私は、このウォーター学舎で、学長と教導ノ師を務めております、サリム・レッカーと申します。」
マーサーは頷くと言った。
「そんな固い挨拶はしなくても良い。さっそく、イシュリを見せてもらおうか。」
その瞬間、ラルは、サリムがさっと顔色を変えたのを見た。
サリムは、しばらく黙っていたが、また口を開いた。
「…今、イシュリは起きたばかりでございます。これから朝餉などの時間ですので、まだ見に行くことはなりません。食事の時間を妨げられることを、イシュリは何よりも嫌うのです。どうか、もうしばらく、お待ちください。」
マーサーは、少し残念そうな顔をしたが、微笑むと口を開いた。
「ならば、まずは食堂へと案内してもらおうか。」
サリムは、ぎこちない微笑みを浮かべると頷いた。
「もちろんでございます。こちらへどうぞ。」
王たちがぞろぞろと続く中で、ラルはその横を静かに歩いていった。
(あの…サリムとかいう師…)
最初から、ずっと心に引っかかっていた。
妙に、何かを警戒しているような態度なのだ。
特に、さっきのマーサーからの、イシュリを見たいという言葉に対する態度は、まるで、必死に冷静さを保とうとしているみたいだった。
(俺と…同じぐらいの年齢に見えるな…いつから学長をやっているんだ?)
サリムは、二十歳の自分と、ほとんど変わらないように見える。
加えて、三年前に処刑された、リヨンの面影が見える気がする。
(リヨン女王は…シャラ王女と、その兄のスフィル王子しか…子がいなかったはずだが…)
「…ル…ラル!」
はっと我に返った。
バディのアストが、心配そうな顔をして、自分の顔を覗きこんでいた。
「どうしたんだ?ぼーっとして…そろそろ食堂だが…体調でも悪いのか?」
ほぼ反射的に、首を横に振った。
「大丈夫だ。」
アストが、ため息をついた。
「お前さ、なんか気がついたことあるんじゃねえの?」
驚いてアストに視線を移してから、はっとした。
(しまった…)
アストがもう一度ため息をついた。
「分からないわけがないだろう?…言ってみろよ。何に気がついたんだ?」
ラルは答えずに、アストを見つめた。
この男、アスト・キラードは、キラード家の次男だ。
キラード家は、大富豪の家で、長男から順に家を継いでいく、伝統ある家系だった。
アストが近衛兵となったのは、今から十年前、キラード家が強盗に襲われ、家族を失った十歳の時だった。
近衛兵の不足で、近衛兵全員が別の事件にかかりきりになってしまい、その事件に手が回らなかったのだ。
それを知ったアストは、孤児のまま、誰にも背中を押されず、一人で今の世界に入った。
そこでバディを組むことになったのが、自分だった。
(アストは…強いな…)
ラルも、様々な事情があって、今の世界に入った身だ。
決して、望んで入ったわけでは無い…アストとは、正反対だった。
そこまで考えた時、アストが眉をひそめて、ラルから視線をずらした。
ラルも、はっとして、同じ方に目をやった。
「…ラル、聞こえたか?」
ラルは、頷き、横目で王の方を見た。
(気づいていない…?)
気のせいだろうか。だが、アストも恐らく聞こえていた。
「笛のような音がしていたよな?」
アストに言われ、静かに頷いた。
甲高い、抑揚がつけられた音。
それが聞こえたのだ。自分だけではなく、アストにまで。
「アスト…王たちを頼む。」
言うが早いか、ラルは駆け出して、音が聞こえた方へ向かった。
シャラは、獣舎に入るなり、カヤンの足元へ行った。
「カヤン…どうしよう…」
リーガンが来た、と言おうとした途端、涙が溢れた。
今日だ。今日、カヤンの世話をする者として、このあとリーガンと会わねばならない。
すぐに獣舎の外に出た。
外の空気を吸って、目を閉じた。
会うなど…絶対に嫌だった。
リーガンを目の前にして、逆上しない自信は、どこにも無かった。
ぐっと唇を噛んだ。
そばに、ハジャレンがいないのが、とても苦しかった。
昨日会ったばかりなのに…と思った。
(私は…どれだけハジャレンに甘えているんだろう…)
操りノ笛を持つと、外に出た。
朝の空気をめいっぱい吸い込んでから、適当に吹いた。なんの意味もなく吹いた。
もちろん、反応はない。
ため息をつきつつ、獣舎に戻り、カヤンに餌をやると、もう一回外に出て、獣舎の裏の森へ入った。
木に背を預けると、木漏れ日が顔に当たり、思わず目を細めた。
(お母様…スフィル…)
二人の顔が、頭に浮かんだ。
二人は、今頃天国で幸せに暮らしているのだろうか…スフィルは、父に許してもらえたのだろうか…。
ため息をついて、目を閉じた。
(私は…どれだけ追い詰められているのだろう…。)
父と母と兄と、城で暮らしたあの日々は、どれだけ平穏で、温かい暮らしだったのか、今になって痛感する。
わずか三年で、ここまで変わってしまうのだろうか…。
閉じた目から、涙が溢れて、頬を伝い落ちた。
あの幸せで、平穏な暮らしに、戻りたかった。
だが、それはもう叶う願いではない。
あの日、継承権を放棄して、母を助けに行った時に、自分から幸せな暮らしを捨てたのだ。
涙を拭い、獣舎に戻ろうとした。
その時、後ろから口を押さえられて、茂みに引き込まれた。
(!?)
慌てて抵抗しようとした時、耳元で囁かれた。
「シャラ、落ち着け!俺だ!」
ハジャレンの声だった。
「…落ち着いたか?そのまま聞け。お前の操りノ笛の音に、マーサーについてきた近衛兵が気づいて、こっちに向かっている。ここで一緒にいてやる。声を出さずに待つんだ。」
シャラが頷くと、そっと手を下ろしてくれた。
隙間から覗くと、ちょうど近衛兵が来たところだった。
走って来たにしては、息切れもなく、笑みも浮かべず、辺りを見渡していた。
その様子をぼんやり見ながら、はっとした。
竪琴と操りノ笛を、獣舎に置いてきたまま、鍵を閉めていないのだ。
カヤンもいるのに…!
思わず動こうとしたシャラの腕を、ハジャレンが掴み、低い声でささやいた。
「何してるんだ!死にたいのか!?」
鍵と笛のことを言うと、ハジャレンは一瞬迷ったが、すぐに首を横に振った。
「だめだ!何かあってからじゃ、遅いんだぞ!」
その時、近衛兵が眉をひそめつつも、踵を返して、帰っていくのが見えた。
ハジャレンは、ほっと息をつくと、シャラを見た。
「あまり、無駄に笛を吹いちゃダメだ。しかも今日から数日間に関しては、ああいう近衛兵が多くいるんだ。奴らは、かなり耳も目もいい。何かあったら、今みたいに助けてやるつもりではいるが、奴らはかなり強い。俺でもどうにも出来ないかもしれないってことを、絶対に忘れるな。今日は、いつもよりも警戒するんだ。分かったか?」
シャラが神妙な顔で頷くと、ハジャレンは森の奥へと帰っていった。
シャラは、戻ることも忘れて、ハジャレンが戻っていった道を、ぼんやりと見つめた。
(ハジャレンは…お母様の本当の願いを知っている…)
ぽつっと、そんな考えが胸に落ちた。
『シャラ…あなたは、私の自慢の娘よ。ずっとそばで、見守れるといいのに…。』
母は、父が亡くなったあと、よく自分を膝に抱いて、そう呟いていた。
ハジャレンは、本人がもう叶えられない、リヨンの夢を知っている。
大体、笛を吹いてすぐ、あんな早くに自分の元に来れるはずがない。
本当に近くにいるのだ。
いつでも、自分の元に来られるように…。
また滲んできた涙を拭うと、踵を返し、獣舎へ戻った。
『おかえりー!』
カヤンが出迎えてくれた。
ふっと微笑むと、カヤンに抱きついた。
ふんわりとした、温もりに包まれながら、安堵のため息をついた。
母の元にいる気分だった。
母にも、こんな温もりがあった。
ふと、さっきの近衛兵の顔が思い浮かんだ。
感情を失った、冷ややかな目をして、無表情で辺りを見渡すあの兵…。
母を亡くしたばかりの頃の、自分にそっくりだった。
(誰かを…亡くしているのかしら…)
三年経って、やっと今の所まで戻れたのだ…でも、それは、スフィルがいてくれたからだった。
(あの人は…)
そんな人がいなかったのだろうか。
大切な人を亡くして、奈落の底に落ちた彼を、支え、引き上げてくれる人は、いなかったのだろうか…。
実は、シャラが見たあの近衛兵こそ、ラル・シガンリーだった。そのラルの過去をシャラが知るのは、少しあとのことになる。
シャラは、ぼんやりと竪琴を手に持ったまま、立ち尽くしていた。