雨と雷の音が、獣舎の中にこだましている。
 シャラは、ぼんやりと、眠ってしまったカヤンを見つめていた。
 明日、各国の王たちに会う。
 王たちは、ここ、ウォーター学舎まで、行幸するのだという。
 (雨…)
 思えば、スフィルが出ていったあの日も、父が死去したあの日も、母が処刑されるとわかる前の日も、自分が王たちに会うと決意したあの日も、全部の日に雨が降っていて、雷が鳴っていた。
 『雨は好きよ。雨は大地をうるおし、草木を育て、人々の生活に恵みをもたらしてくれるからね…私たち、魔術ノ民の間では、雨は神聖なものとして扱われてきたの。』
 母の声が、ふいに聞こえてきた。
 あの時、母に、雨の日は嫌なことがたくさんあったのに、嫌いにならないの?と聞くと、母は、こう答えてくれた。
 『たしかに…雨の日は辛いことが多かったわね。でも、雨は嫌いになれない。なぜとは聞かないでね。自分でも分からないから。不思議なものよ…こういう気持ちは…。なんとなく、安心出来るのよ。あなたもきっと、わかる日が来るわ。』
 あの時は、そんな日はきっと来ないと思っていたが、今はよくわかる。
 なんとなくだが、雨の音は心が不思議と落ち着く。
 (カヤン…あなたの雨の思い出を…いつか聞きたい…)
 寝ているカヤンに、心の中で静かに語りかけた。
 水浴びが大好きなカヤンにとって、雨は嬉しいものに違いない。
 (今度…雨の日に…カヤンと見渡しノ丘に行ってみようかな…)
 自分は完全防水で行かねばならないが、カヤンはきっと喜ぶだろう。
 ―もしかしたら、ハジャレンにも会えるかもしれない。
 ふっとその考えが、頭をよぎった。
 会えるのなら…王たちに会う前に、もう一度会いたかった。
 シャラは、王たちに会うと決意した後、一度だけ見渡しノ丘に行った。
 その時、ハジャレンに会うことが出来たのだ。
 『お前に、俺の名前を呼べ、とこの前言ったな?その発言、撤回してほしいんだ。』
 耳を疑った。
 『え?でも…』
 『お前が言いたいことはわかる。なにも、俺を呼ぶなとは言っていない。呼ぶ時、操りノ術を使ってほしいんだ。お前のことだ。ハジャレン、と吹くことも可能だろう。操りノ笛だろうと、指笛だろうと、自分が思うとおりに吹けるはずだ。』
 『で、でも!あの術は、大罪に値するのではないですか?』
 ハジャレンの顔が、つっとゆがんだ。
 『わかっているさ…本当なら、お前にあの術は使わせたくない。だが、あまり周囲には知られていないその術を使うのと、魔術ノ民である俺とお前が繋がっていることを、周囲に知られるのと、どっちが恐ろしいか、分かるか?』
 言われずともわかった。
 後者を知られる方が、どれほど恐ろしい結果を招くか…。
 魔術ノ民特有のものである、青ノ瞳を持つ自分が、魔術ノ民と繋がっていることを知られたら、どれほど恐ろしいことになってしまうのだろうか。
 操りノ術は、聞いただけでは、何か指笛のような音がする、と思うだけだろう。
 万が一それを見られても、音楽が好きで、竪琴を毎日のように鳴らしているシャラが、次は笛を始めたと思われるだけだ。
 だが、ハジャレンと繋がっていることを知られるのは、全く別の問題だ。
 ましてや、王たちに…マーサーに…リーガンに…。
 ハジャレンに会いたかった…ハジャレンの声を聞きたかった…。
 
 そっと首飾りを外し、操りノ笛をくわえると、静かに戸を開けて、外に出た。
 激しい雨と雷だったが、もう遅い時間だ。学舎の窓にも、明かりはひとつも見えない。
 息を吸った。
 ピー………
 闇の中に、笛の音だけが、むなしく響いた。
 耳をすましたが、雨が獣舎に当たる音、間遠になった雷鳴、草や木から落ちる雫の音…それしか聞こえてこない。
 ハジャレンは、呼べば来ると言っていたが、やはり時間帯によっては難しいのだろう…。
 分かっていたが、少し落胆した。
 (せめて…顔だけでもいいから…見たかった…)
 三十八だというのに、二十代にしか見えないハジャレンのことが、シャラは大好きだった。
 母の兄と知ったあの日から、ハジャレンは本当に近い存在となったのだ。
 (まあ…いいか…)
 来れないなら、諦めるのみだ。
 そっと扉を開けると、中に入り、鍵を閉めた。
 ため息をついてから振り返った途端、思わず叫びそうになって、慌てて口を抑えた。
 目の前に、びっしょり濡れて、ぽたぽたと水をしたたらせている、ハジャレンがいた。
 走ってきたのだろう。息が切れ、苦しそうに肩が上下している。
 「な…なんで…」
 「シャラ…いつ呼んでもいいとは言ったが…こんな雨の中呼ぶとはな…。よほど話したいことがあったのか?」
 慌てるシャラを見て、ハジャレンがふっと微笑んだ。
 「冗談だよ。明日、王たちに会うらしいな。その前に会っておきたい、って思ったんだろ。まあ、俺も会いたかったから、呼んでくれて助かったよ。」
 シャラは、なぜか滲んできた涙をこらえ、そばに置いてあった、大きな手ぬぐいを渡した。
 「まず…身体を拭かないと…」
 ハジャレンは頷くと、手ぬぐいを取り、炉端に腰を下ろした。
 ハジャレンは、疲れた目をして、顔を拭きながら、ぽつっと呟いた。
 「カヤンと、仲良くできているか?」
 思わず、ハジャレンを凝視した。
 あれほど、カヤンと会話するのをやめろ、と言っていたハジャレンが、そんなことを口にするなんて…シャラは、自分の耳が信じられなかった。
 「あ…あの…」
 口を開きかけたシャラを、ハジャレンは手で止めた。
 「お前が考えていることはわかる。前と言っていることが、食い違っているからだろう?」
 シャラが頷くと、ハジャレンは、眠っているカヤンをぼんやりと見つめた。
 「お前は、あれからも、カヤンと会話しているようだな…。…本当なら、俺は、お前のことを無理矢理にでも、一族に引きずり込むべきなのかもしれん。そうすれば、お前が、なぜ操りノ術が禁忌なのかを、身にしみて感じることが出来るからだ。でも…俺には、それがどうしても出来ないんだ…。」
 ハジャレンの目に、涙が浮かんだ。
 「お前がやっていることは、たしかに大罪だよ。だが、それは…俺とリヨンが、ずっと願っていたことだったんだ。止め笛も操りノ笛も使わないで、野生に生きるように生かしてやりたい…それがリヨンの口癖だった。…それが目の前で出来る者がいる。最高の姪を持ったと、誇らしく思う。お前には…感謝しても足りないんだ。」
 そこで、ハジャレンは息をつくと、また口を開いた。
 「だが、お前はこのままだと、絶対にあらぬ道を進むことになる。決して進まなくても良い道を…進んではならぬ道を、否応なしに進むことになるぞ。…王たちの前では、止め笛を使え。会話しているのを、マーサーに見られたら、お前はきっと、ここにはいられなくなる。周りの仲間たち共々、この先一生、王たちの監視下に置かれるぞ。それでもいいのか?」
 針が刺さったような痛みが、静かに胸に広がった。
 自分が何かをされるのは構わない。監視するならすればいい。
 だが、サリムやリューサをはじめとする、周りの人たちが巻き込まれるとなると、黙ってはいられない。
 シャラは、にじんできた涙をこらえ、震える声でこう言った。
 「だからこそ…私は…今回王たちに会うことを決めたの…」
 ハジャレンが、ゆっくりと視線をシャラに戻した。
 ハジャレンの目から、視線を外さずに、シャラは話した。
 「会うことで、私は全てを受け入れる予定でいる。母の死も、兄の死も、リーガンが王になっているということも…全て受け入れる。それに、ここまで私が辿ってきた道のりを知ってほしいし、私のことはどう扱っても構わないけど、サリム先生たちに手を出したら、絶対に許さないってことも、しっかり伝えるつもりでいるわ。でも、どんなことを言われようと、カヤンとの会話は、決してやめない。カヤンに止め笛なんて、決して使わないわ。」
 ハジャレンは、声も出せずに、目の前にいる姪のことを見ていた。
 本当に、リヨンにそっくりだった。
 顔も似ているが、自分が決めたことは、決して最後まで曲げない信念を持っている。
 ふっと微笑むと、ハジャレンはシャラの頭に手を置いた。
 「そうか…だが、前も言ったが、お前のことを遠くから見守っている。何かあったら、操りノ笛を吹け。必ず、助けに行ってやる。お前のことを見捨てることはしない。約束する。お前の幸せを心から祈っているよ。」
 そう言って立ち上がろうとしたハジャレンは、何を思ったか、また腰を下ろした。
 「そうだ、聞かねばならぬことがあった。サリムとさっき言っていたが、それは…サリミアのことか?」
 シャラは、頷くと言った。
 「叔父様が、名前をつけたと聞きました。」
 ハジャレンは、「ああ…」と呟くと、ぎこちなく頷いた。
 「そう…そうなんだ。リヨンから、手記ノ紙が来た時は驚いたが、喜んで引き受けたよ。そうか…ここの先生をやっているのか…。元気にしてるか?」
 シャラは、にっこりと微笑んで頷いた。
 ハジャレンが、ほっとため息をついたのがわかった。
 そして、次こそ立ち上がると、シャラに向き直った。
 「呼んでくれてありがとう。会えてとても嬉しかった。明日から数日間は、心が休まる時がないだろうが、俺が近くにいる。夜なら会えるかもしれんな。まあ、しっかりやりな。リヨンに胸張って、頑張ったって報告出来るような生き方をしろよ。」
 そう言うと、フードをかぶり、森に繋がる、獣舎の裏口から出ていった。
 (どこから入ったと思ったら…あそこから入ったのね…)
 苦笑を浮かべて、ハジャレンが出ていった裏口を見つめた。
 (明日…か…)
 笑みを収め、カヤンに、視線を移した。
 (きっと…私がやっていることは…すぐに知られる…)
 今まで、遠い考えだったものが、現実味を帯びてきたのが、はっきりと分かった。
 知られれば、自分は王女に戻らねばならないだろう。
 リーガンと暮らす-その考えが胸の奥に届いた時、激しい吐き気がした。
 あんな奴と暮らすなんて…考える間もなく、涙が溢れた。
 まだ、カヤンといたい…。
 自分がここからいなくなる…カヤンは、きっとそれを理解できないだろう…。
 スフィルなら、なんて言ってくれるだろう…戻れというのだろうか…それとも、自分が生きたいように生きろと言うだろうか…。
 シャラは、ため息をついた。
 (スフィルは…)
 忠告することはあっても、強制は絶対にしない。きっと、後者の言葉を言ってくれるだろう…。
 (お母様…)
 リヨンの笑顔が浮かんだ。
 (助けて…)
 まだ、カヤンは幼い…親代わりは自分だ…。
 そんなカヤンを置いていくことなんて出来ない…。
 処刑の時、これから死ぬというのに、笑っていたリヨン。
 母は、笑っていたが、本当はこんな気持ちだったのだろう。
 幼かった自分を置いていくなど…どれほど辛かったか…今になってわかるなんて…
 涙が溢れて、止まらなくなった。
 「う…うう…」
 声を出せば、カヤンが起きてしまう…。
 こんな切羽詰まった時でも、そんな思いが、無意識に働いていた。
 静かに泣くシャラがいる獣舎の外では、夜が明け始めていた。