シャラが晩餐を欠席すると決めてから、わずか三日。
アントナ国の城にある大広間にマーサーが入ってきた時には、既に各国の王が揃っていた。
「すまない。遅れてしまったな。では、王ノ会議を始める。」
ドアの目の前には、近衛兵のラル・シガンリーとアスト・キラードが立ち、刺客がいないかと目を光らせている。
「さて、今回集まってもらったのは、他でもない、ウォーター学舎にいると思われているシャラの件についてだ。晩餐に行くことに対する返答が帰ってきた。」
円卓の一部がびくっと揺れたのが目の端に見えた。
(リーガン…)
シャラの側近を務めていた、九歳年下の弟。
シャラがいなくなってから、一番自責の念に囚われていたのは、このリーガンだった。
生けにえノ刑の刑執行人…それがリーガンの裏の顔だ。
リヨンのことを処刑した時、リヨンを助けに行くシャラを見つけたのもリーガンだった。
助けることができなかったことを、ずっと後悔しているのだ。
この弟に、シャラの返答を聞かせるのは酷だが、言うしかない。
マーサーはため息をつくと、口を開いた。
「では、答えを伝える。…やはり、辞退するとの事だった。リーガンに会いたくない、許せる自信がない、とのことだ。」
大広間に、重苦しい空気が流れた。
今や、トワラ星の最高権力者はマーサーだ。
そのマーサーの申し出を断ることは、死を意味する。
そのことを分かっていて…死を覚悟してまで…シャラは辞退すると言ったのだ。
「手記ノ紙を送ってきた、サリム・レッカーという学舎の教導ノ師は、手記ノ紙の中で深く謝罪していた。…あと『シャラの心の傷は、かなり深いものです。兄を亡くしたばかりということもございます。これ以上無理はさせたくないのです。どうか今回はお許しください。』とも書いてある。」
全員がはっとした。
つい先日に、ルータイ国で起きた馬車の事故は、この頃にはかなり有名になっていた。
というのも、その事故で命を落とした青年が、元カウン国王子の、スフィルだったからだ。
元ではあるが、王子だったために、大きな葬儀を行った。
だが、そこに、妹であるはずのシャラの姿はなかった。
あとから、スフィルの弟子が、シャラに手記ノ紙を送ったということを知った。
つまりシャラは、早くに兄と別れて、ウォーター学舎に入り、最期の別れもできなかったことになる。
そのことを王たちが知ったのは、スフィルの葬儀も何もかも終わったあとだった。
それを知ったリーガンは、誰よりも悔いていた。
リヨンを裏切ることさえしなければ、シャラは、もっと早くに、スフィルと会えていたのかもしれない。
そんな激しい悔いに、苛まれていた。
だからこそ、許されずとも、殺されようとも、とにかく謝りたかったのだ。
そのシャラが、来ないと言っている。
確かに、仕方がないといえば仕方がないだろう。シャラの気持ちも分からないわけではない。
さらに重苦しい沈黙が漂った。
じっと考えていたマーサーは、突然ぱっと顔を上げた。
全員の視線が向いたその顔は、蒼白に近かった。
「陛下?どうなさいましたか?どこか悪いところでもあるのですか?」
そう問うたラルの声も、ほとんど聞こえていなかった。
全員が怪訝そうに見つめる中、マーサーはかすれた声を出した。
「おかしい…おかしいんだ…シャラがたどっている道は、どう考えても…論理的に説明できない部分があるんだ…」
「!?」
困惑した一同を見渡しながら、マーサーは、ゆっくりと話し始めた。
「よく考えてほしい。シャラは…どうやって死ノ池から出て、どうやってルータイ国に行ったんだ?そして、六年ぶりに兄と会ったのに、なぜかその三年後にウォーター学舎に入っている。しかも今の時期にいるということは、どう考えても、特別入学をしたとしか思えないんだ。なぜ、そんなことが出来たんだ?シャラとスフィルは、カウン国の出身。たとえ家を出てから六年ほど経とうと、彼が住んでいたのは深い森を超えたところだ。学舎へ特別入学をさせるほど、人のあてはないはずだ。そして、スフィルの弟子の行動も気になる。なぜ、スフィルが命を落としてすぐに連絡しないのだ?シャラは、スフィルと血の繋がった妹なんだぞ?明らかにおかしな部分があるんだ。」
言われてみればその通りだ。
シャラは、明らかに不自然な環境を乗り越えている。
大体、死ノ池に入っておきながら、リヨンと共に、ランギョに囲まれながら、生き延びることが出来るはずがない。
母親であるリヨンでも足がつかないほど深い死ノ池だ。リヨンの胸ぐらいまでしかなかった、十歳のシャラが立てるはずがない。
「リーガン、リヨン女王の刑を執行した際、不審な部分はなかったか。」
リーガンは頷いたが、ふと首をかしげた。
「どうした。何かあったのか。言ってみろ。」
リーガンは不安げな顔になりつつも、こう言った。
「実は…笛のような甲高い音がして…そのあと…ランギョが動きを止めて…」
目の前に閃光が走った気がした。
「何!?それはいつの事だ!?頼む!思い出せ!刑のどの部分だ!」
突如豹変した兄にたじろぎながらも、リーガンは言った。
「え…っと…シャラ王女の…短剣のようなものでロープを切ったあと…ランギョに囲まれた時ですかね…。」
マーサーは夏に似合わない寒気がして、思わず腕をさすった。
『笛のような甲高い音がして…ランギョが動きを止めて…』
リーガンの言葉が、頭の中を何度も去来する。
(リヨンが…ランギョを操ったんだ…)
そんなことはありえない。
ランギョは、誰が何をしようと操れないはずなのだ。
リヨンは、呪いノ民だったが、マーサーがこれまでに数多く会ってきた呪いノ民は、操ることをしなかった。
確かに止め笛を使うことはあるにしろ、操る姿は見たことがなかった。
(リヨン…あの時…何があったのだ…)
シャラと共に、ランギョに囲まれたあの時、一体何があったというのか。
(大体…)
生けにえノ刑のやり方は、どう考えてもおかしい。なぜ、カウン国の王を処刑するのか。
それによって、何人の王家の人々が泣いてきたのだろうか。苦しんできたのだろうか。
しかも、リヨンはわずか三十三年という、短すぎる命だった。
次は、リーガンだ…執行人が…自分の弟が…目の前で処刑されるのだ。
めまいがした。
リーガンは、大切な愛する弟だ。
その弟を失えというのか…目の前で死んでいくのを見ろというのか…こんな思いを、リヨンはシャラにさせたくなくてもさせてしまったのか…あの時、シャラが助けに行ったところを見ると、恐らく生けにえノ刑ノ書を読んだのだろう…その時から、シャラは覚悟を決めていたのだろうか。
一体あの時、シャラは、何を思って、母親を助けに行ったのだろうか。
どんな理由にせよ、あの子がわずか十歳で、その幼さで、死を覚悟してまで、母親を助けに行ったという事実は、胸を刺した。
たった十歳という年齢で、死を覚悟するなど、どれほど辛かっただろうか…そんな幼さで、十年という長い月日を家族と過ごした、大切な家を出るなど、どこまで苦しかっただろうか。
リーガンの話では、シャラの部屋の絨毯に、激しく泣いたようなあとが残っていたという。
あれほど思い切った行動をしようとも、シャラはまだまだ幼かったのだ。
本当は辛かったのだ。苦しかったのだ。嫌だったのだ。
それでも、シャラは自分の命よりも、大好きな母親を助けることを選んだ。
どれほど優しくて、勇敢な子だろうか。
だが、リヨンは目の前で処刑されてしまい、シャラはスフィルと出会った。
恐らく、嬉しさよりも、後悔の方が大きかったに違いない。
助けに行ったのに、助けるどころか、助けられてしまったからだ。
リヨンは、どれほど呪いノ民と差別されようと、心の温かさを失うことは無かったのだ。
娘を助け、自分は身代わりで死を選んだリヨン。
それに、これまで誰も使ったことのない術を使ってまで、シャラを助けたのだ。
シャラを一人残して逝くなど、どれほど無念の思いだったのだろうか。
スフィルもそうだったに違いない。
シャラをウォーター学舎にいれたのも、恐らくリーガンの目から隠すためだ。
ここまで推測すると、スフィルが亡くなった時、スフィルの弟子が、どうしてシャラに対して、すぐに手記ノ紙を出さなかったかが、よくわかる。
唯一残った家族が死んだとなれば、シャラが街へ来るのは確実だ。
弟子の、ライリー・ユファンが言っていた。
スフィル師は死に際に、シャラに来るなと伝えろ、と言っていました、と。
その約束を、ライリーはシャラの性格を考えて、手記ノ紙を出さないという手段で守ったのだ。
そして、シャラは葬儀が終わってから、兄の死を知った。
その証拠に、ウォーター学舎に偵察に行っていた近衛兵が、シャラのものらしき、激しい泣き声を聞いたと言うから、シャラがどれほどショックを受けたのかも、よくわかる。
スフィル自身もショックだっただろう。
わずか二十年の命。
リヨンよりも、父親のアーシュよりも、遥かに若い年齢でこの世を去ったスフィル。
シャラとまだやりたいこともあったはずだ。開いていた竪琴店も、これからが本番だったに違いない。
スフィルは、暴走した馬車に轢かれそうになった子供をかばって、自分が轢かれ、その傷が元になり、この世を去った。
アーシュは、早くにこの世を去ったために、よく分からないが、スフィルとリヨンは、紛れもなく、素晴らしい人格を持っている。
シャラが、あれほど聡い子に育つわけだ。充分納得できる。
そんな聡い子に…幼い子に…あれほどひどい仕打ちをしたというのか…!
自分もその一人だ。
幼いシャラに、酷い仕打ちをしたのは…刑執行人のリーガンよりも、執行の結果を、のんびりと待っていた自分たちだ。
ふいに目の前が滲んだ。
シャラに謝りたい…心から謝罪したい…そんな気持ちが湧き上がってきた。
こらえていた涙が、唐突に流れ落ちた。
静かだった大広間が、一気にざわめいた。
というのも、マーサーが泣いたのは、これが初めてだからだ。
「兄上…」
リーガンが、そっとマーサーの肩に手を置いた。
「自分も…生けにえノ刑によって、涙を流す人々をたくさん見てきました。」
マーサーは顔を上げて、リーガンを見た。
「ですが…シャラ王女の件に関しましては、あまりにもひどいことをしてしまったのだと…今になって激しく後悔しています。たとえ掟だったとしても、シャラ王女のことだけは…側近として、ボディーガードとして、助けなければならなかったのです…」
リーガンはそれ以上言葉にならず、声を上げて泣き崩れた。
各国の王たちも、涙を流した。
シャラが、どれほど苦しく辛い人生を歩んできたのか…今になって、やっと痛感した。
激しい後悔が、全員の胸に押し寄せた。
シャラを助けてやるべきだった…あの時、待っている暇などなかった。
死ノ池を恐れずに、冷たい水に入ってリヨンを助けに行ったシャラに比べれば、自分たちなど屑同然だ。
何としてでも、シャラに会わねばならない。
涙に濡れたマーサーの目には、強い光が宿っていた。
アントナ国の城にある大広間にマーサーが入ってきた時には、既に各国の王が揃っていた。
「すまない。遅れてしまったな。では、王ノ会議を始める。」
ドアの目の前には、近衛兵のラル・シガンリーとアスト・キラードが立ち、刺客がいないかと目を光らせている。
「さて、今回集まってもらったのは、他でもない、ウォーター学舎にいると思われているシャラの件についてだ。晩餐に行くことに対する返答が帰ってきた。」
円卓の一部がびくっと揺れたのが目の端に見えた。
(リーガン…)
シャラの側近を務めていた、九歳年下の弟。
シャラがいなくなってから、一番自責の念に囚われていたのは、このリーガンだった。
生けにえノ刑の刑執行人…それがリーガンの裏の顔だ。
リヨンのことを処刑した時、リヨンを助けに行くシャラを見つけたのもリーガンだった。
助けることができなかったことを、ずっと後悔しているのだ。
この弟に、シャラの返答を聞かせるのは酷だが、言うしかない。
マーサーはため息をつくと、口を開いた。
「では、答えを伝える。…やはり、辞退するとの事だった。リーガンに会いたくない、許せる自信がない、とのことだ。」
大広間に、重苦しい空気が流れた。
今や、トワラ星の最高権力者はマーサーだ。
そのマーサーの申し出を断ることは、死を意味する。
そのことを分かっていて…死を覚悟してまで…シャラは辞退すると言ったのだ。
「手記ノ紙を送ってきた、サリム・レッカーという学舎の教導ノ師は、手記ノ紙の中で深く謝罪していた。…あと『シャラの心の傷は、かなり深いものです。兄を亡くしたばかりということもございます。これ以上無理はさせたくないのです。どうか今回はお許しください。』とも書いてある。」
全員がはっとした。
つい先日に、ルータイ国で起きた馬車の事故は、この頃にはかなり有名になっていた。
というのも、その事故で命を落とした青年が、元カウン国王子の、スフィルだったからだ。
元ではあるが、王子だったために、大きな葬儀を行った。
だが、そこに、妹であるはずのシャラの姿はなかった。
あとから、スフィルの弟子が、シャラに手記ノ紙を送ったということを知った。
つまりシャラは、早くに兄と別れて、ウォーター学舎に入り、最期の別れもできなかったことになる。
そのことを王たちが知ったのは、スフィルの葬儀も何もかも終わったあとだった。
それを知ったリーガンは、誰よりも悔いていた。
リヨンを裏切ることさえしなければ、シャラは、もっと早くに、スフィルと会えていたのかもしれない。
そんな激しい悔いに、苛まれていた。
だからこそ、許されずとも、殺されようとも、とにかく謝りたかったのだ。
そのシャラが、来ないと言っている。
確かに、仕方がないといえば仕方がないだろう。シャラの気持ちも分からないわけではない。
さらに重苦しい沈黙が漂った。
じっと考えていたマーサーは、突然ぱっと顔を上げた。
全員の視線が向いたその顔は、蒼白に近かった。
「陛下?どうなさいましたか?どこか悪いところでもあるのですか?」
そう問うたラルの声も、ほとんど聞こえていなかった。
全員が怪訝そうに見つめる中、マーサーはかすれた声を出した。
「おかしい…おかしいんだ…シャラがたどっている道は、どう考えても…論理的に説明できない部分があるんだ…」
「!?」
困惑した一同を見渡しながら、マーサーは、ゆっくりと話し始めた。
「よく考えてほしい。シャラは…どうやって死ノ池から出て、どうやってルータイ国に行ったんだ?そして、六年ぶりに兄と会ったのに、なぜかその三年後にウォーター学舎に入っている。しかも今の時期にいるということは、どう考えても、特別入学をしたとしか思えないんだ。なぜ、そんなことが出来たんだ?シャラとスフィルは、カウン国の出身。たとえ家を出てから六年ほど経とうと、彼が住んでいたのは深い森を超えたところだ。学舎へ特別入学をさせるほど、人のあてはないはずだ。そして、スフィルの弟子の行動も気になる。なぜ、スフィルが命を落としてすぐに連絡しないのだ?シャラは、スフィルと血の繋がった妹なんだぞ?明らかにおかしな部分があるんだ。」
言われてみればその通りだ。
シャラは、明らかに不自然な環境を乗り越えている。
大体、死ノ池に入っておきながら、リヨンと共に、ランギョに囲まれながら、生き延びることが出来るはずがない。
母親であるリヨンでも足がつかないほど深い死ノ池だ。リヨンの胸ぐらいまでしかなかった、十歳のシャラが立てるはずがない。
「リーガン、リヨン女王の刑を執行した際、不審な部分はなかったか。」
リーガンは頷いたが、ふと首をかしげた。
「どうした。何かあったのか。言ってみろ。」
リーガンは不安げな顔になりつつも、こう言った。
「実は…笛のような甲高い音がして…そのあと…ランギョが動きを止めて…」
目の前に閃光が走った気がした。
「何!?それはいつの事だ!?頼む!思い出せ!刑のどの部分だ!」
突如豹変した兄にたじろぎながらも、リーガンは言った。
「え…っと…シャラ王女の…短剣のようなものでロープを切ったあと…ランギョに囲まれた時ですかね…。」
マーサーは夏に似合わない寒気がして、思わず腕をさすった。
『笛のような甲高い音がして…ランギョが動きを止めて…』
リーガンの言葉が、頭の中を何度も去来する。
(リヨンが…ランギョを操ったんだ…)
そんなことはありえない。
ランギョは、誰が何をしようと操れないはずなのだ。
リヨンは、呪いノ民だったが、マーサーがこれまでに数多く会ってきた呪いノ民は、操ることをしなかった。
確かに止め笛を使うことはあるにしろ、操る姿は見たことがなかった。
(リヨン…あの時…何があったのだ…)
シャラと共に、ランギョに囲まれたあの時、一体何があったというのか。
(大体…)
生けにえノ刑のやり方は、どう考えてもおかしい。なぜ、カウン国の王を処刑するのか。
それによって、何人の王家の人々が泣いてきたのだろうか。苦しんできたのだろうか。
しかも、リヨンはわずか三十三年という、短すぎる命だった。
次は、リーガンだ…執行人が…自分の弟が…目の前で処刑されるのだ。
めまいがした。
リーガンは、大切な愛する弟だ。
その弟を失えというのか…目の前で死んでいくのを見ろというのか…こんな思いを、リヨンはシャラにさせたくなくてもさせてしまったのか…あの時、シャラが助けに行ったところを見ると、恐らく生けにえノ刑ノ書を読んだのだろう…その時から、シャラは覚悟を決めていたのだろうか。
一体あの時、シャラは、何を思って、母親を助けに行ったのだろうか。
どんな理由にせよ、あの子がわずか十歳で、その幼さで、死を覚悟してまで、母親を助けに行ったという事実は、胸を刺した。
たった十歳という年齢で、死を覚悟するなど、どれほど辛かっただろうか…そんな幼さで、十年という長い月日を家族と過ごした、大切な家を出るなど、どこまで苦しかっただろうか。
リーガンの話では、シャラの部屋の絨毯に、激しく泣いたようなあとが残っていたという。
あれほど思い切った行動をしようとも、シャラはまだまだ幼かったのだ。
本当は辛かったのだ。苦しかったのだ。嫌だったのだ。
それでも、シャラは自分の命よりも、大好きな母親を助けることを選んだ。
どれほど優しくて、勇敢な子だろうか。
だが、リヨンは目の前で処刑されてしまい、シャラはスフィルと出会った。
恐らく、嬉しさよりも、後悔の方が大きかったに違いない。
助けに行ったのに、助けるどころか、助けられてしまったからだ。
リヨンは、どれほど呪いノ民と差別されようと、心の温かさを失うことは無かったのだ。
娘を助け、自分は身代わりで死を選んだリヨン。
それに、これまで誰も使ったことのない術を使ってまで、シャラを助けたのだ。
シャラを一人残して逝くなど、どれほど無念の思いだったのだろうか。
スフィルもそうだったに違いない。
シャラをウォーター学舎にいれたのも、恐らくリーガンの目から隠すためだ。
ここまで推測すると、スフィルが亡くなった時、スフィルの弟子が、どうしてシャラに対して、すぐに手記ノ紙を出さなかったかが、よくわかる。
唯一残った家族が死んだとなれば、シャラが街へ来るのは確実だ。
弟子の、ライリー・ユファンが言っていた。
スフィル師は死に際に、シャラに来るなと伝えろ、と言っていました、と。
その約束を、ライリーはシャラの性格を考えて、手記ノ紙を出さないという手段で守ったのだ。
そして、シャラは葬儀が終わってから、兄の死を知った。
その証拠に、ウォーター学舎に偵察に行っていた近衛兵が、シャラのものらしき、激しい泣き声を聞いたと言うから、シャラがどれほどショックを受けたのかも、よくわかる。
スフィル自身もショックだっただろう。
わずか二十年の命。
リヨンよりも、父親のアーシュよりも、遥かに若い年齢でこの世を去ったスフィル。
シャラとまだやりたいこともあったはずだ。開いていた竪琴店も、これからが本番だったに違いない。
スフィルは、暴走した馬車に轢かれそうになった子供をかばって、自分が轢かれ、その傷が元になり、この世を去った。
アーシュは、早くにこの世を去ったために、よく分からないが、スフィルとリヨンは、紛れもなく、素晴らしい人格を持っている。
シャラが、あれほど聡い子に育つわけだ。充分納得できる。
そんな聡い子に…幼い子に…あれほどひどい仕打ちをしたというのか…!
自分もその一人だ。
幼いシャラに、酷い仕打ちをしたのは…刑執行人のリーガンよりも、執行の結果を、のんびりと待っていた自分たちだ。
ふいに目の前が滲んだ。
シャラに謝りたい…心から謝罪したい…そんな気持ちが湧き上がってきた。
こらえていた涙が、唐突に流れ落ちた。
静かだった大広間が、一気にざわめいた。
というのも、マーサーが泣いたのは、これが初めてだからだ。
「兄上…」
リーガンが、そっとマーサーの肩に手を置いた。
「自分も…生けにえノ刑によって、涙を流す人々をたくさん見てきました。」
マーサーは顔を上げて、リーガンを見た。
「ですが…シャラ王女の件に関しましては、あまりにもひどいことをしてしまったのだと…今になって激しく後悔しています。たとえ掟だったとしても、シャラ王女のことだけは…側近として、ボディーガードとして、助けなければならなかったのです…」
リーガンはそれ以上言葉にならず、声を上げて泣き崩れた。
各国の王たちも、涙を流した。
シャラが、どれほど苦しく辛い人生を歩んできたのか…今になって、やっと痛感した。
激しい後悔が、全員の胸に押し寄せた。
シャラを助けてやるべきだった…あの時、待っている暇などなかった。
死ノ池を恐れずに、冷たい水に入ってリヨンを助けに行ったシャラに比べれば、自分たちなど屑同然だ。
何としてでも、シャラに会わねばならない。
涙に濡れたマーサーの目には、強い光が宿っていた。