カヤンの奇跡から一週間後。
 あれから、シャラはカヤンと会話できるようになっていた。
 カヤンの微妙な鳴き声の違いを聞き取り、会話ができるのだ。
 だんだんと、日差しの暑さが厳しくなってきた初夏。
 シャラは、獣舎でカヤンと過ごしていることが多くなった。
 夏ノ考査が終わり、夏季休暇に入ったということもあって、『早く遊んで』と催促しているカヤンの相手をしてやらないと、カヤンが拗ねてしまう。
 「カヤン!待たせてごめんね!考査の結果が、すごく良かったの!…あ、カヤン、考査が何か分からないか。」
 『そんなの、わからないよ』と鳴くカヤンは、シャラの顔に身体をすりつけてくる。
 「ちょ…カヤン、やめて…。」
 リューサは、家に帰っている。
 シャラも、本来なら帰れるのだが、戻ることをためらっているのだ。
 今の自分は、様々な視点から見て、危ない立場にいる人間だからだ。
 つい昨日、サリムから言われた言葉が、ずっと頭の中を駆け巡っている。
 ―シャラ、落ち着いてよく聞いてね。あなたは、トワラ星にとって大きな意味を持つ立場になってしまったの。『呪いノ民』の血が流れている。カウン国元女王のリヨン・カウンの娘であり、王女だった。成績優秀。それに加えて…もう分かっているわね。一番大きいのは、あなたとカヤンとの関係よ。あなたは、カヤンと心を通わせた挙句、止め笛を使わずに世話している。そんな人は、この星全体を捜したとしても、あなた一人でしょう。恐らく、ではあるんだけど、カヤンはこのあと、あなたの事を背に乗せて飛びそうな気がするのよ。分かる?あそこまであなたに甘えているし、何かあった時には、あなたのことを守ろうとして、あなたに背に乗るように指示して、空を飛ぶ気がするの。…もちろん、そうはならないかもしれない。これはあくまでも、私の推測だからね。だけど、念には念を入れた方がいいと思う。スフィルに、会いには行かない方がいいのかもしれないわ。
 シャラは、ため息をついた。
 『どうしたの?』
 「ねえ、カヤン。今、私迷ってるの。私には、スフィルっていうお兄ちゃんがいるんだけど…会いに行こうかを、迷ってて…。」
 カヤンは、ちょこっと首をかしげるような仕草をしながら、こう言ってきた。
 『どうして?会えないの?』
 シャラは、頷くと言った。
 「会いに行ったら、私とカヤン、もう会えなくなっちゃうかもしれないの。」
 『どういうこと?』
 「私ね、さらわれちゃうかもしれないの。」
 カヤンは、何も言わなかったが、大丈夫だよ、というかのように頬をすりつけてきて、シャラン…と優しく鳴いた。
 「カヤン…ありがとう。」
 竪琴を、ロン…と鳴らしながら、カヤンと話していると、用務のサラが走り込んできた。
 「え、サラ先生?どうされたのですか?」
 サラは、息を切らしながら言った。
 「サリム先生が、お呼びなの。すぐに学長室に行ってちょうだい。」
 頷くと、カヤンに少し待つように伝えてから、学長室に走った。
 
 「サリム先生、シャラ・カウンです。」
 「入って…。」
 中から聞こえてきた声は、サリムのものとは思えないほど、小さくかすれた声だった。
 入ると、机の前に座っているサリムが目に入った。心なしか、目が赤いように思える。
 「シャラ、こっちにおいで。あなたに、見せなくてはならないものがあるのよ。」
 見せなくてはならないもの?
 疑問を感じつつも、サリムが示した椅子に座った。
 「シャラ…これ、読んでごらん。」
 サリムに渡されたのは、シャラ宛の封筒だった。差出人の欄には、『ライリー・ユファン』と書いてある。
 ひやっとしたものが、胸に触れた気がした。
 ライリー・ユファン…忘れはしない。兄スフィルの、一番弟子だ。スフィルと過ごした三年間の中で、竪琴店に行っては、会っていた人だ。
 そのライリーからの手紙…。
 スフィルに何かあったのか。
 そんな不安を感じながら、封を切った。
 中にある手紙を開き、目に飛び込んできた文章を読んだ途端、頭が真っ白になったのが分かった。
 ―昨日昼過ぎ、我が師、スフィル・カウンは、暴走した馬車に轢かれ、その傷が元で死去いたしました。二十歳でした。その馬車に轢かれそうになった、幼き子を助けた結果です。心優しく、困っている人を放っておけない、スフィル師らしい亡くなり方だと思います。スフィル師は生前、あなたのことを『俺の自慢の妹だ』と、周りに言い続けていました。スフィル師は、最期まで『シャラにもう一度会うまでは、死なないからな』と言っていました。残念ながら、その願いを叶えることなく、スフィル師はあの世へと旅立ってしまいました。師は『シャラと、寿命まで生きると約束したんだ』とも言っていました。シャラ、その約束を果たしてください。師は、二十年という短い人生でしたが、あなたは生きることができる。師の分まで長生きしてください。師の店は、私がそのまま継ぎました。街に来た時は、是非よってくださいね。待っています。師の遺言どおり、竪琴と書物、そして短剣を送ります。大切に使ってください。師の冥福を、心から祈っています。
 七月十五日 竪琴ノ工房 店主 ライリー・ユファン
 「シャラ…しっかりなさい…」
 サリムの声で、ゆっくりサリムの顔を見て、悲しげな目を見た時、スフィルは死んだのだ、という実感が、堰を切ったように溢れてきた。
 サリムは、遠くを見るような目で話し始めた。
 「スフィルは…私の…親友だった人なのよ…。学舎で学んでいた時に…出会ったのがスフィルだった…。その頃から…本当に優しくて…友達も多かった…。私は…見てのとおり…人付き合いが苦手で…その時に声をかけてくれたのが…スフィルだったわね…。」
 その後は、言葉にならずに、サリムは泣き崩れた。
 シャラは、そばにあった包みをそっと広げた。
 「あ…」
 シャラが、スフィルと作った竪琴、勉学を教える時に使っていた書物の数々…その隙間からカラン…という音を立てて、何かが落ちた。
 (……!)
 シャラは目を見開いた。
 「短…剣…」
 アーシュからもらい、リヨンを助け損ねたあの短剣だ。
 シャラは、父と喧嘩したまま死別し、悲しみにくれていたスフィルにあげたのだ。
 『父上の…か…。』
 あの時のスフィルの顔を、忘れることは出来ない。
 スフィルは、別れる最後の最後まで、謝れなかったことを深く後悔していた。
 (その後悔を抱えたまま…)
 スフィルは逝ったのだ。二十という若さで…。父や母よりも、若い歳でこの世を去ったのだ…。
 涙が滲んだが、サリムの前では、泣きたくなかった。
 やりきれない思いのまま、必死で涙をこらえ、書物などを持って、部屋を辞した。
 
 カヤンが、シャラン…と鳴いて、出迎えてくれた。
 心配そうに、シャラに視線を向けながら鳴いている。
 シャラン、シャランと泣く、その声を聞いた途端、スフィルの声が蘇ってきた。
 『シャラ!上手いじゃん!本気でこの店、継いでもらおうかな…下手したら、これ、ライリーよりも上手いぞ?』
 『お前は、自慢の大切な妹さ。もう離れたくない。』
 『今までありがとう。母上の分まで、生きよう。二人の約束だ。忘れるなよ。』
 その声が、スフィルの笑顔と重なった時、激しい悲しみがこみ上げてきた。
 我慢していた何かが、ぷっつりと切れた。
 その場に膝から崩れ落ちた。
 涙が、あとからあとから溢れては、頬を伝って落ちていく…。
 (こんな…こんなことって…)
 どうしてこうなるのか…最後の血が繋がった人を、こんないとも簡単に亡くしてしまうなんて…。
 そもそも、スフィルがいなければ、自分はどうなっていたのだろうか。
 あの時、河にのって、アントナ国へと流されていても、決しておかしくはなかった。
 それに、スフィルのように親切な人の元に流れついていたとも、決して言いきれない。
 (私は…どこまで幸運だったんだろう…)
 そんな思いが、ぽつん、と胸に落ちた。
 考えてみれば、今自分がここにいるのも、リーガンに見つからないように、とシャラのことを考えて、ここに入れてくれたからなのだ。
 さらに涙が溢れた。
 (せめて…顔を見て…ありがとうって…言いたかった…。)
 カヤンのことを見た。カヤンは、心配そうにこちらを見つめている。
 「カヤン…!」
 思わず、カヤンに抱きついて、そのまま大声で泣きじゃくった。
 サリムの前で、ずっと我慢していた感情が溢れてきた。
 何も伝えてない…お礼も…幸せだったとも…何も伝えられなかった…。
 スフィルは、わずか二十年の命だった…。やりたいこともあっただろう…伝えたいこともあっただろう…。竪琴店だって…やっと栄えてきた頃で…。
 どれだけ、無念の思いを持ったまま、この世を去ったのか…想像もつかない…。
 これほど、悲しい知らせがあるだろうか…。
 もう一度だけでいい。スフィルに会いたかった。自分の名前を呼んでほしかった。一緒に竪琴を奏でたかった…。
 まだ、一緒にやりたいことがある。たくさんある。
 カヤンのことも見せて、頑張ったな、と褒めて欲しかった。様々な曲が奏でれるようになったことも、知ってほしかった。もう一度、一緒にあの隠れ家にも行きたかった。あそこの名前をつけたかった。
 何もしてあげられないまま、逝かれてしまった。
 自分と交わした、寿命まで生きるという約束を果たせなかったこと、それもスフィルの心残りだろう…。
 (スフィル…私はその約束を果たすわ…。スフィルの分まで生きる。…何もしてあげられなくてごめんね…。)
 止まりかけていた涙が、また溢れてきた。
 短剣、書物、竪琴…全てスフィルの遺品だ。
 それらに、額をつけて、シャラは泣き続けた。
 
 サリムも、悲しみを隠しきれなかった。
 獣舎から、シャラの泣きじゃくる声が聞こえてきた時、涙がこみ上げてきて、止めどもなく溢れて流れた。
 シャラにとっても、自分にとっても、スフィルはかけがえのない存在だったのだ。
 同じ二十歳という年齢で、人生を終えたスフィル。
 (シャラを…帰してあげればよかった…)
 危険を冒してでも、二人を会わせてあげればよかった…。ライリーが書いていた日付、七月十五日は…ほんの二日前だ。
 夏季休暇は、一週間前から始まっている。
 (帰していれば…スフィルとシャラは…会えた…。ごめんね、シャラ…。)
 激しい悔いが胸を刺した。
 あと少しで、帰郷しているリューサが帰ってくる。
 大きな悲しみの波が引くと、サリムの胸には大きな決意が残っていた。
 リューサとシャラに、伝えねばならぬことがある。本当なら、シャラが来た時に、言わねばならなかったことが…。
 スフィルの死は、シャラの心に耐え難い悲しみと悔いを残した。
 カヤンの喜びから一転、深い悲しみに包まれた知らせだった…。