慧亮にお説教を食らった次の日。心を改めた私は、朝の検診に来てくれた楢橋さんに声をかけた。

 昨日はあんな態度を取って、本当に申し訳なかった。もう一度頑張るから、手伝ってくれないか。そう伝えたら、彼女は驚きと嬉しさが入り混じったような顔をした。



「そう……!良かった!良かったわ!!」



 予約をしておくから、また後で。そう告げた楢橋さんが、足取りも軽く病室を去っていく。耳元で聞こえた「やればできるじゃん」という声に「うるさいよ」と返して、本棚から一冊の画集を抜き取った。

 美鈴先生から頂いた、彼が若い頃に描いたものを集めて出版したという、この画集。どの作品も先生のカラーが出ていて、とても心が安らぐ。

 それからスケッチブックを広げて、先日慧亮をイメージして描いた春の小川の絵、『温かな微笑み』を出す。今日のリハビリが上手くいったら、これを慧亮に渡そう。そんな決意を胸に、楢橋さんが再び現れるのを待った。



「――桔季ちゃん。突然だけど、今からでも大丈夫?もしダメなら、5時からも空いてるんだけど。」



 楢橋さんの言葉で時計を見ると、午後2時。特に用事はないし、決意が揺らがない内に始めるのが良い。そう思って、小さく頷いた。 楢橋さんに歩調を合わせてもらいながら、ゆっくりとリハビリスペースへ。嫌な顔一つせず付き合ってくれる彼女を見ていると、“それに報いるためにも訓練を続けていかなければ”と感じる。

 やがて、目の前に運ばれてくる道具一式。昨日と全く同じ光景が、苛々した気持ちを思い起こさせる。

 でも、今日は昨日の私とは違うんだ。そう自分を奮い立たせて、テーブルに着く。



「……桔季ちゃん、昨日はごめんね。」



 突然、楢橋さんが言った。「え?」と聞き返すと、彼女は眉を下げたまま続ける。



「私、あなたの気持ちを全然考えてなかったから……入院するまでは、毎日筆を握ってたのよね?今だって、一日も早く画家として復帰したいに決まってるのに……本当にごめんなさい。」



 悪いのは、明らかに感情をぶつけた私の方なのに。楢橋さんは、私の気持ちを汲めなかった自分が悪かったのだと言っている。

 慌てて首を横に振ると、「じゃあ、お互い様ってことで」の言葉と微笑。つまり、私も楢橋さんも“思いやりが足りなかった”ということか。

 ――うん、そうしておこう。それが一番、納得できる。 他のリハビリをしている人達は、それぞれのメニューに従っている。歩行訓練をしている小さな男の子が、こちらに気付いてにっこりと笑ってくれた。突然のことに驚いたけど、とりあえず小さく手を振る。そうしたら、楢橋さんが「あのね」と切り出した。



「桔季ちゃんに良くなって欲しいからこそ、言わせてもらうわね。リハビリは一日、二日でどうこうなるものじゃないの。思い通りにいかない日だってあるし、他のことにまで影響が出る日もあるわ。
だけど、そこで諦めないで欲しいの。ここには“一生懸命頑張ることを笑う人”も、“前と同じようにできないことを責める人”も居ないんだから。」



 楢橋さんはもしかしたら、私に似たタイプの患者と既に会っていたのかもしれない。先輩の受け売りではなく、彼女自身の心の声のような気がしたのは……多分、彼女がとても優しい笑みを浮かべているからだろう。



「あの男の子も、つい最近まで泣いてばかりだったのよ。でも、今はもうあんなに歩けるの。だから、桔季ちゃんも大丈夫よ!」

「……はい。頑張ります。」



 思いが込められた長いエールには釣り合わない、短い返事。相手に何かしてもらった分だけ同じように返すことができないのは、私の良くない所だ。

 だから、他のことで伝えるしかない。言葉が誤解を招くなら、態度で。私の場合は、絵か行動で示すだけだ。 姿勢を正して、テーブルに散らばるおもちゃの豆達を見つめる。楢橋さんから一膳の箸を受け取ると、呼吸を落ち着かせて、慎重に豆と向き合った。

 急がず慌てず、ゆっくりで良い。傍らの声が、焦る気持ちを抑えてくれる。何度目かで、折角掴んだのに、お椀に入れる直前で落としてしまった。だけどその時も、「惜しいー!じゃあ、次は私の声に合わせてやってみましょうか」という言葉が、励ましをくれた。



「ギュッと握らなくても良いから、軽くね。適度に力を入れる感じよ。
……そう。そしたら、掴みたい豆の所にゆっくり持っていって。」



 声に導かれるように、そーっと標的を箸の間へ。そして、ゆっくりと持ち上げる。震える手を思うと、“早くしなければまた落としてしまう”と脳の何処かが騒ぐ。でも、楢橋さんの「そうよ、ゆっくりね。あと少しを慎重に」の声が、焦燥感を静めてくれた。

 ――カラン、耳に心地良い軽やかな音。机に落ちた時のコツリというものとは違う、確かな充実感。漆に似た黒色の急カーブを、私の運んだ豆が元気良く滑走していった。