――それからは、何をやっても気が立った。リハビリをしていた人達が一人、また一人と居なくなる。楢橋さんが「桔季ちゃん。今日はこのくらいにして、また明日からにしましょう?」と言ってくれると、ようやく少しだけ、怒りの波が穏やかになってくれた。
どうしてここまで苛々してしまうのか。それは、自分が一番よく分かっている。今まで私は、大抵のことならほぼ造作なくこなすことができた。だから、簡単なことさえまともにできなくなったことに腹が立つのだ。
情けない姿を人に見られるのは耐えられない。地底深くに埋もれてしまいたくなる程に、屈辱的だ。このプライドの高さに、また苛々が復活する。
「……さ、戻りましょう。体を動かすのが久し振りで、疲れちゃったのね。一眠りすれば気が晴れるだろうし、読書するのも良い……」
「すみません、ほっといて下さい。」
乾いた声音で言い放ち、楢橋さんを置いてのろのろと廊下を歩く。振り返らなくても分かった。彼女は私の発言にショックを受けて、追ってくることができないのだ。
私の特技は、もう人を不快にさせることで良いじゃないか。心で呟いて、急ぎ足になれない自分に小さく舌打ちをした。 病室に戻ると、ハルから「お帰り」の言葉。返答する気にはなれなかったけど、とりあえず、小さく「ただいま」と返す。不思議そうな顔をした彼女を見た後で、もう出会って一週間が過ぎていたのかと、カレンダーで知る。
一息ついた時、ノックもなしにドアが開いた。誰だろう。そう思って視線を移せば、呼吸も荒く立ち尽くしている慧亮が、そこに居た。
「……あんた、どうしたの?」
「それは、こっちの台詞!お前、自分のしたこと、分かってんの!?」
切れ切れに叫んだ濡れ茶色の髪をした男の子の表情が、とても痛切だ。何のことかと尋ねたら、その宵より黒い瞳でジロリと睨まれる。こんなことは、初めてだ。
「さっき……楢橋さんに失礼なことしてただろ。他の患者さん達も、びっくりしてた。」
「……見てたんだ、あんな情けない所。」
息を調えながら言った慧亮に、自嘲気味に返す。本当は、“あんただって今、あかねちゃん達をびっくりさせてるんだけど”って言葉も付け足してやりたかったんだけどね。
すると彼は、両目をカッと見開いた。そして、叫びたそうに大きく開けた口から何かを紡ごうとして、やめた。「……情けなくはないよ。桔季が頑張る気になったのは、良いことだと思う。
けど、あんな風に子供染みた態度取ったり、一度始めたことを簡単に投げたりするのは良くないよ。お前、自分でも分かってるよな?」
はっきりと、諭すような口調でそう言われた。当たっているから、反論ができない。
病室内には不穏な空気が充満し、子供達が怯えた表情をしている。おばあちゃんは、検査か何かで居ないようだ。こんな醜態を晒さなくて済んで、良かった。
「……答えないってことは、当たってるんだよな?だったら、ちゃんと直せよ。人見知りとか淡泊なのは俺がフォローできるとしても、リハビリは……」
「あんたには分からないよ!そうやって広い視野で臨機応変に動ける人に、私の気持ちは分からないの!!」
――ピアノにバレエに、裁縫に水泳。習わされたことも学校の勉強も何でもこなしてきたとはいっても、私はいつも自分のことで精一杯だった。いくら飲み込みが早くても、他人のことを気遣う余裕は生まれなかったから。
一瞬で良し悪しが分かるものは、尚更だ。ピアノはリズムと暗譜だし、水泳ならスピードと綺麗なフォーム。そんな中、唯一自由に表現できたのが“絵”だったのだ。 絵は、一見しただけでは上手いか下手かを判断することは難しい。それが抽象的な作品であればある程、その傾向は強くなる。
風景画のようなリアリティーのあるものは、“これは秀逸だ”、“あれは目も当てられないな”と批評するのは簡単かもしれない。しかし、それが人間の心の中を描いた形のないものだったとしたら。見る人によって、様々な答えが返ってくるだろう。
「……ピアノもバイオリンも十人十色だって言われてるけど、私の耳は敏感にできてないから、“上手いか下手か”しか分からない。
でも、絵は違うんだよ。甲乙関係なく、描いた人の気持ちが表れてくる。上手いって言われる人の絵を比べてみても、同じものを描いたのに全然違うんだよね。」
慧亮も、そんな不可思議な所に惹かれたから画家を志しているんじゃないのか。そう口にしたら、彼は小さく頷いた。
「……もしかして、怖いの?“親の七光りだって言われないたった一つのもの”を奪われるかもしれないから、ビビってるんだろ。」
――あぁ、何でこの人には分かるんだろう。さっき“理解できないクセに”と叫んだことが、酷く馬鹿らしく思えてくる。だけど……これが、慧亮の凄い所だ。「……諦めんなよ。初日に上手くいかなかったからやめるなんて、お前そんなに根性なかったの?」
少年の言葉が、矢のように私の胸に刺さってくる。まるで、空に浮かぶ半月の弓から射られているみたいに。
「……筆、生まれた時から握ってたって言ってたじゃん。俺が桔季だったら、そんなに簡単に手放せる訳ないし、見放されることも許さないって思うよ。」
私の思いを代弁するかのような、彼の口をついて出る言葉達。そうだよ。本当は、諦めたくなんてない。歩みを続けるための力が、足りないだけなんだ。
「不安なら、俺もできる限り、リハビリ付き合うから。桔季は知らないだろうけどさ。お前、絵描いてる時が一番綺麗なんだよ。まぁ、自分の世界に入っちゃうから冷たいんだけどね。
……だから、お前がリハビリ嫌になる度に何回も言ってやるよ。“諦めんな”って。これで頑張れないって言われたら、流石の俺もヘコむからね?」
――冗談混じりに言った慧亮の優しさと厳しさが、私の背中を押す。もう、大丈夫だ。弱気になんて、ならないんだから。
「……ありがとう。八つ当たりは、慧亮だけにしとくから。」
最後の私の台詞に大笑いする慧亮。この皮肉を受け入れて包み込んでくれるのは、世界中の何処を探しても、きっと彼だけなんだろう。
どうしてここまで苛々してしまうのか。それは、自分が一番よく分かっている。今まで私は、大抵のことならほぼ造作なくこなすことができた。だから、簡単なことさえまともにできなくなったことに腹が立つのだ。
情けない姿を人に見られるのは耐えられない。地底深くに埋もれてしまいたくなる程に、屈辱的だ。このプライドの高さに、また苛々が復活する。
「……さ、戻りましょう。体を動かすのが久し振りで、疲れちゃったのね。一眠りすれば気が晴れるだろうし、読書するのも良い……」
「すみません、ほっといて下さい。」
乾いた声音で言い放ち、楢橋さんを置いてのろのろと廊下を歩く。振り返らなくても分かった。彼女は私の発言にショックを受けて、追ってくることができないのだ。
私の特技は、もう人を不快にさせることで良いじゃないか。心で呟いて、急ぎ足になれない自分に小さく舌打ちをした。 病室に戻ると、ハルから「お帰り」の言葉。返答する気にはなれなかったけど、とりあえず、小さく「ただいま」と返す。不思議そうな顔をした彼女を見た後で、もう出会って一週間が過ぎていたのかと、カレンダーで知る。
一息ついた時、ノックもなしにドアが開いた。誰だろう。そう思って視線を移せば、呼吸も荒く立ち尽くしている慧亮が、そこに居た。
「……あんた、どうしたの?」
「それは、こっちの台詞!お前、自分のしたこと、分かってんの!?」
切れ切れに叫んだ濡れ茶色の髪をした男の子の表情が、とても痛切だ。何のことかと尋ねたら、その宵より黒い瞳でジロリと睨まれる。こんなことは、初めてだ。
「さっき……楢橋さんに失礼なことしてただろ。他の患者さん達も、びっくりしてた。」
「……見てたんだ、あんな情けない所。」
息を調えながら言った慧亮に、自嘲気味に返す。本当は、“あんただって今、あかねちゃん達をびっくりさせてるんだけど”って言葉も付け足してやりたかったんだけどね。
すると彼は、両目をカッと見開いた。そして、叫びたそうに大きく開けた口から何かを紡ごうとして、やめた。「……情けなくはないよ。桔季が頑張る気になったのは、良いことだと思う。
けど、あんな風に子供染みた態度取ったり、一度始めたことを簡単に投げたりするのは良くないよ。お前、自分でも分かってるよな?」
はっきりと、諭すような口調でそう言われた。当たっているから、反論ができない。
病室内には不穏な空気が充満し、子供達が怯えた表情をしている。おばあちゃんは、検査か何かで居ないようだ。こんな醜態を晒さなくて済んで、良かった。
「……答えないってことは、当たってるんだよな?だったら、ちゃんと直せよ。人見知りとか淡泊なのは俺がフォローできるとしても、リハビリは……」
「あんたには分からないよ!そうやって広い視野で臨機応変に動ける人に、私の気持ちは分からないの!!」
――ピアノにバレエに、裁縫に水泳。習わされたことも学校の勉強も何でもこなしてきたとはいっても、私はいつも自分のことで精一杯だった。いくら飲み込みが早くても、他人のことを気遣う余裕は生まれなかったから。
一瞬で良し悪しが分かるものは、尚更だ。ピアノはリズムと暗譜だし、水泳ならスピードと綺麗なフォーム。そんな中、唯一自由に表現できたのが“絵”だったのだ。 絵は、一見しただけでは上手いか下手かを判断することは難しい。それが抽象的な作品であればある程、その傾向は強くなる。
風景画のようなリアリティーのあるものは、“これは秀逸だ”、“あれは目も当てられないな”と批評するのは簡単かもしれない。しかし、それが人間の心の中を描いた形のないものだったとしたら。見る人によって、様々な答えが返ってくるだろう。
「……ピアノもバイオリンも十人十色だって言われてるけど、私の耳は敏感にできてないから、“上手いか下手か”しか分からない。
でも、絵は違うんだよ。甲乙関係なく、描いた人の気持ちが表れてくる。上手いって言われる人の絵を比べてみても、同じものを描いたのに全然違うんだよね。」
慧亮も、そんな不可思議な所に惹かれたから画家を志しているんじゃないのか。そう口にしたら、彼は小さく頷いた。
「……もしかして、怖いの?“親の七光りだって言われないたった一つのもの”を奪われるかもしれないから、ビビってるんだろ。」
――あぁ、何でこの人には分かるんだろう。さっき“理解できないクセに”と叫んだことが、酷く馬鹿らしく思えてくる。だけど……これが、慧亮の凄い所だ。「……諦めんなよ。初日に上手くいかなかったからやめるなんて、お前そんなに根性なかったの?」
少年の言葉が、矢のように私の胸に刺さってくる。まるで、空に浮かぶ半月の弓から射られているみたいに。
「……筆、生まれた時から握ってたって言ってたじゃん。俺が桔季だったら、そんなに簡単に手放せる訳ないし、見放されることも許さないって思うよ。」
私の思いを代弁するかのような、彼の口をついて出る言葉達。そうだよ。本当は、諦めたくなんてない。歩みを続けるための力が、足りないだけなんだ。
「不安なら、俺もできる限り、リハビリ付き合うから。桔季は知らないだろうけどさ。お前、絵描いてる時が一番綺麗なんだよ。まぁ、自分の世界に入っちゃうから冷たいんだけどね。
……だから、お前がリハビリ嫌になる度に何回も言ってやるよ。“諦めんな”って。これで頑張れないって言われたら、流石の俺もヘコむからね?」
――冗談混じりに言った慧亮の優しさと厳しさが、私の背中を押す。もう、大丈夫だ。弱気になんて、ならないんだから。
「……ありがとう。八つ当たりは、慧亮だけにしとくから。」
最後の私の台詞に大笑いする慧亮。この皮肉を受け入れて包み込んでくれるのは、世界中の何処を探しても、きっと彼だけなんだろう。