「……外出したい、ですって!?許しません!!あなた、自分の体のこと分かってるのかしら!?」



 私の頼みをいとも簡単に粉砕したのは、キャリアの長いベテランの婦長だった。側に居た他の看護師達は、彼女の迫力に恐れ入っているというか、怯えている。病室の子供達の中に「怖いよー……」と泣きだす子が現れたので、婦長はゴホンと咳払いをし、声のボリュームを落とした。



「……あなた、何年ここに入院してると思ってるの?この前だって倒れたのよ?
ただの貧血だと思って甘く見ていたらダメなの。貧血だって、立派な病気の一つなんだから。」

「でも、別に遠出する訳じゃないんです。ちょっと屋上に出て、絵が描けたらって……」

「屋上ですって!?外はまだ冷えるのに、そんな風の強い所に行ったら風邪を引くに決まってるでしょう!!」



 白髪混じりにつり目をした女性の声が、またもや大きくなる。「婦長!患者さん達がびっくりしてます!!」という部下の声で、彼女は今一度落ち着きを取り戻した。

 まったく、キレやすいのは若者だけじゃないって分かってるのかな、中高年達は。そう言いたくなる気持ちを抑えて、私は交渉を続けた。「屋上がダメなら、庭に出るだけでも良い。日の光を浴びることくらいは構わない筈ですよね?」

「そりゃあ、短時間なら構わないけど……でも、絵を描くんでしょう?すぐに終わる筈ないじゃないの。
それに、あなたの場合は車椅子があった方が良いわ。体力も落ちてるんだから、少し動くのもやっとでしょう?リハビリする気力が戻ったのなら、話は別だけど。」



 溜め息をつきながら、婦長が言う。その呆れたような目を見て、ピンときた。

 ――この人、私を馬鹿にしてるのか。どうせできないと思って、見下してるんだ。

 確かに私は、二年間何も努力してこなかった。だから今、こんなに弱っているのだ。でも……“また描きたい”と思えるようになった自分を軽視されて大人しくしているほど、能天気ではない。



「……リハビリして結果が出れば、外出しても良いんですね?」

「でもあなた、一人じゃ給食を配ってるカートの辺りまでしか行けないでしょう?あまり急いでリハビリしても、体を壊すだけよ。」

「じゃあ、自分のペースでやります。だから、お願いです……体力が少しでも回復したら、外出を許可して下さい!」



 つい、声を荒げてしまった。そうしたら、婦長が驚いたような目で私を見つめている。
 “この子、いつの間に心境の変化が……”と、そう言いたげな顔。その表情が、ゆっくりと変化を遂げていく。



「……分かりました。そこまで言うなら、やれるだけやってみなさい。
やるからには、一生懸命頑張るのよ?体力が戻れば、お家に一時帰宅することもできますからね。」



 日勤の疲れが残る顔が、僅かに緩んだ。去り際にポンと叩かれた肩。そこから体中に、彼女のくれた激励が広がっていく。

 婦長に続き、看護師達がわらわらと病室を後にした。ただ一人、あの恋バナ好きの新米看護師・楢橋(ならはし)さんだけが、私の傍らにポツンと残っている。そんな彼女が、私にそっと耳打ちしてきた。



「……婦長、ああやって人の背中を押すのが得意な方みたいよ。桔季ちゃん、婦長に励ましてもらったのね!羨ましいなぁ……」

「え、楢橋さんは?」

「私はまだないの。あの方、基本的に部下を怒って育てる人だから。先輩達も、たまにしか励まして頂いたことないみたいよ。」



 羨ましいと言いながらも、何処か嬉しそうにしている楢橋さん。きっと、自分まで励まされたような気分になったのだろう。そんな風に他人の喜びを自分の喜びに変えられる人の方が、私はよっぽど羨ましい。

 だけど、羨んでいるだけでは成長できないから。私は自分で定めた目標に向かって、まっすぐに進むだけだ。迷わずに、前を向いて。「桔季ちゃん。もし良ければ、今日から早速リハビリやってみない?確か今日は、比較的落ち着いてるのよ。」



 勿論、易しいことから少しずつやっていくんだけどね、と楢橋さん。その言葉に、私は大きく頷いた。

 リハビリをすれば歩くのにも慣れるだろうし、何より筆を長時間握ることができるようになる。完成までに無駄な時間をかける必要も、なくなる筈だ。



「……そう、良かったわ!じゃあ、後で予約入れておくわね!」



 また迎えに来るわ、と告げた楢橋さんが、病室を出ていく。そうしたら、隣のベッドからおばあちゃんが声をかけてきた。



「桔季ちゃん、リハビリを始めるのね。」

「あ、うん。そうだよ。」

「あまり無理しないのよ。頑張ることは大切だけど。」



 笑うと皺で隠れる目が、優しく見つめている。この一週間くらいで、おばあちゃんとは随分距離が縮まったと思う。この通り、会話からは堅苦しさが抜けた。昨日慧亮をイメージして描いた絵も、彼女はえらく気に入ってくれたのだ。



「……うん。ありがとね、おばあちゃん。」



 そう返して、微笑み合う。おばあちゃんと話していると落ち着けるから、やっぱり良いなと感じた。 ――昼食が終わった。おばあちゃんに貸してもらった、司馬遼太郎さんの『坂の上の雲』の二巻を読んでいると、不意に「桔季ちゃん、ちょっと良いかしら?」という声。見ると、ノートを抱えた楢橋さんだった。



「読書中ごめんなさいね。リハビリなんだけど、3時頃でどうかしら?」

「3時……ですね。分かりました。丁度これ、読み終わると思います。」



 手短に答えてすぐ、視線を活字に戻す。楢橋さんは「相変わらず淡泊ねぇ」と口にして、我儘な妹に手を焼くことを楽しんでいる姉のようだ。それに気付いて、初めてハッとする。

 以前の彼女なら、確実に腹を立てていただろう。でも、今怒りを見せないのは……



「……ごめんなさい、楢橋さん。私、『絵を描く時と本を読む時は特に冷たく見えるから直せ』って、慧亮からも言われてるんです。でも、あの……」

「“それだけ集中してる”ってことでしょう?幸せじゃないの、夢中になれることがあるなんて。まぁ、これは先輩の受け売りなんだけどね!」



 じゃあ、また二時間後にね。そう言った背中が去っていく。

 ――気を使わせてしまった。自分の情けなさに、思わず奥歯を噛み締めた。 うなだれた私を気の毒に思ったのか元気付けようとしたのか、左側から「桔季ちゃん」と声をかけられる。見ると、ハルが窓の側の棚に腰かけて、足を組んだまま優雅にこちらを見つめていた。



「何か言えなかったから後悔してるみたいだけど、それならリハビリの頑張りで伝えれば良いんじゃない?」



 黒紫の長い髪が、ふわりと揺れる。“そんなに簡単に言わないでよ、何も考えてないクセに”と言いそうになったけど、さらりと口にしてしまえる彼女を凄いと思ったのも本当だった。

 この人は、どうしてこんなにポジティブでいられるんだろう。前向きに考えようと決めたばかりなのに自己嫌悪に陥ってしまう、私とは違って。



「……ハルって、凄いね。」

「え、何が?」

「そのポジティブさ、色んな意味で見習いたいよ。」



 皮肉を交えたつもりだったのに、降り注ぐ日の光のように笑って「ありがとう!」とハル。いつも笑顔でいられる彼女はきっと、元居た世界でも明るく朗らかに生きていたんだろう。

 ――やっぱり、私はひねくれてるんだな。素直なこの子とは違って。そう思って、また少し意気消沈した。 約束していた時間になり、楢橋さんが私を迎えに来た。彼女が言った通り、リハビリをしている人数は、私を含めて四人と少数だ。いつもは十人くらいの人がスペースを分け合って、譲り合って使っているので、今回は非常にラッキーらしい。

 60代くらいのおじいさんに、30代らしきお姉さん、見た所50代のおばさんも、それぞれリハビリにいそしんでいる。それを見ていたら、何だか励まされた。“よし、私も頑張るぞ”、と。



「それじゃあまずは、手先のリハビリからやりましょう。これを使うのよ。」



 楢橋さんが用意してくれたのは、お椀に入ったおもちゃの豆粒が20個程と、お箸が一膳。近くにあったテーブルの側に座った時に彼女がお椀の中身をぶちまけたことから、どうやらこの豆達をお椀の中に戻すことが、私に与えられたリハビリメニューらしい。

 楢橋さんの右手が箸を掴んで、綺麗なフォームを作る。彼女の箸先は吸い寄せられるように豆を摘み上げ、赤いお椀へと誘導した。



「こういう風に、この豆をお椀の中に入れるの。ゆっくり、自分のペースでやってみてね。」



 頷いて、お箸を受け取る。滑りにくい木製だから、きっとできる。そんな根拠のない自信があった。 お箸を使うのは得意だったし、持ち方もきちんとしていると言われ続けてきた。だから、何処かで自惚れていたのかもしれない。その自尊心が打ち砕かれることになると知らないで。

 ――普段ご飯を食べている時とは全く違う。リハビリという名の下にある緊張感のせいか、まるで手が動かない。震える右手では、豆一粒さえも掴めなかった。



「初めは誰でもそんなものよ。桔季ちゃんなら、すぐにできるようになるわ!」



 そう言った楢橋さんには、またもや気を使わせてしまったらしい。他の患者さんの様子を見てくると言ったのも、きっとそのせいだろう。申し訳なくなって、分からないように溜め息をついた。

 それでも、ハルが言ったことを思い出して頑張ったつもりだ。楢橋さんのアドバイスのように、マイペースにやったつもりだ。なのに、いっこうに思い通りにならない右手。苛ついた私は、お箸を乱暴にテーブルへと置いた。

 バシリ、音が鳴り、私以外の人々が振り返る。気まずそうに目を泳がせる患者達。惨めな気持ちが蛇口から吹き出すように溢れてきていた私に、楢橋さんが慌てて駆け寄ってきて、「次は軽くウォーキングしてみましょうか!」と言ってくれた。