――美鈴先生は“写実主義”で、人物画は滅多に描かない画家だった。だが、私はその反対の“超現実主義”。つまり、何かを擬人化したり誰かを比喩化したりと、心の世界を表現するのが好きな画家だ。
美術の世界だけでなく作家の世界でも、この手の論争は時に激しい火花を散らすことがあると聞く。だけど、先生と私は、そんな馬鹿馬鹿しい討論に加わる性格をしていなかった。
『桔季ちゃん。世の中には、一つのことに対して複数の考え方があるんだよ。面白いと思わないかい?
十人居れば、十通りの答えが返ってくる。その分、自分の知識や人間性に幅が生まれるんだ。』
目を閉じると、先生の言葉を思い出す。夕飯を取った私は、シャワーを浴びてすぐ定位置に着く。そうして、下書きを終えた画用紙に色塗り後のイメージを重ねながら、種巻いた小さな白い畑へ、静かに雨を降らせた。
「――桔季ちゃん、朝ご飯の時間よ。」
誰かの声で、目が覚めた。体を起こして辺りを見回すと、みんな既に食事を始めている所。朝食を知らせる音楽が聞こえない程熟睡していた上に、どうやら昨日はそのまま眠ってしまったらしい。出しっぱなしの道具達が、それを物語っていた。「遅くまで絵を描いてたの?ダメよ、程々にしなきゃ……あら、素敵な絵!」
私を起こしに来てそう言ったのは、昨日熟練の看護師に愚痴をこぼしていた新米の人。一瞬、無理矢理に作り出したお世辞なのでは、という考えが頭を掠める。でも、彼女の瞳を見ていたら、嘘とは思えなかった。
それに、好きな人をイメージしたものを誉められるのは、何だかんだ言って嬉しい。この看護師は、以前から私と慧亮のことをからかうというか冷やかすというか、そういう類いの話を楽しみにしている節があった。多分、中身は世間の若い女性と変わらないんだろう。
――壁を作っていたのは、やっぱり私だったんだ。
「……ありがとう、ございます。」
「……え?」
「それ、慧亮をイメージして描いたの。あいつ、春みたいな人だと思ってるから。」
笑顔を浮かべてみたけど、ぎこちなくはなかっただろうか。ふと気付くと、看護師の肩越しにハルが居る。彼女は私と目が合うと、ニィッと白い歯を出してVサインをした。
「へぇー、慧亮君を……確かにピッタリだわ。よく見てるのね、慧亮君のこと。
……私、この水の透明感が凄く好きだわ。本当に光って見えるもの。」
微笑した看護師は、ハッと気付いたように腕時計を見つめる。次いで、手の上のお盆に視線を移す。彼女は私の朝食を持ってきてくれたのだ。「……今、道具どけますね。」
「やだ、私ったら……話が盛り上がって、危うく集会に遅刻するところだったわ!」
照れ臭そうに笑った看護師は、私が片付け終わるとお盆をテーブルに置いてくれる。去り際に「その絵、慧亮君に見せたら教えてね」と言って、病室を後にする彼女。その笑顔は、桜の花に彩られてとても眩しかった。
「良かったね、桔季ちゃん!あの人、また桔季ちゃんと話したそうだったよ。」
「……うん、そうだね。」
「あ、早くご飯食べちゃえば?お味噌汁冷めるよ!」
今日の朝食は、白米と小魚のふりかけ、味噌汁に鮭の塩焼きに、ほうれん草のごま和え。そして、牛乳とミカンが一個付いていた。
手を合わせて牛乳を飲み、野菜から箸を付ける。変わらないと思っていたけど、私自身が少しずつ変化してきている。それに合わせて、周りも見方を変えているかのようだ。
「……慧亮、今日来るのかな。前に来た時何も言ってなかったから、来そうにないけど。」
「お。あの看護師さんに、早く感想聞かせたいって感じ?」
「……別にそんなんじゃないよ。」
素直じゃないなぁ、とハル。その表情は呆れ顔でも怒り顔でもなく、笑顔だった。
美術の世界だけでなく作家の世界でも、この手の論争は時に激しい火花を散らすことがあると聞く。だけど、先生と私は、そんな馬鹿馬鹿しい討論に加わる性格をしていなかった。
『桔季ちゃん。世の中には、一つのことに対して複数の考え方があるんだよ。面白いと思わないかい?
十人居れば、十通りの答えが返ってくる。その分、自分の知識や人間性に幅が生まれるんだ。』
目を閉じると、先生の言葉を思い出す。夕飯を取った私は、シャワーを浴びてすぐ定位置に着く。そうして、下書きを終えた画用紙に色塗り後のイメージを重ねながら、種巻いた小さな白い畑へ、静かに雨を降らせた。
「――桔季ちゃん、朝ご飯の時間よ。」
誰かの声で、目が覚めた。体を起こして辺りを見回すと、みんな既に食事を始めている所。朝食を知らせる音楽が聞こえない程熟睡していた上に、どうやら昨日はそのまま眠ってしまったらしい。出しっぱなしの道具達が、それを物語っていた。「遅くまで絵を描いてたの?ダメよ、程々にしなきゃ……あら、素敵な絵!」
私を起こしに来てそう言ったのは、昨日熟練の看護師に愚痴をこぼしていた新米の人。一瞬、無理矢理に作り出したお世辞なのでは、という考えが頭を掠める。でも、彼女の瞳を見ていたら、嘘とは思えなかった。
それに、好きな人をイメージしたものを誉められるのは、何だかんだ言って嬉しい。この看護師は、以前から私と慧亮のことをからかうというか冷やかすというか、そういう類いの話を楽しみにしている節があった。多分、中身は世間の若い女性と変わらないんだろう。
――壁を作っていたのは、やっぱり私だったんだ。
「……ありがとう、ございます。」
「……え?」
「それ、慧亮をイメージして描いたの。あいつ、春みたいな人だと思ってるから。」
笑顔を浮かべてみたけど、ぎこちなくはなかっただろうか。ふと気付くと、看護師の肩越しにハルが居る。彼女は私と目が合うと、ニィッと白い歯を出してVサインをした。
「へぇー、慧亮君を……確かにピッタリだわ。よく見てるのね、慧亮君のこと。
……私、この水の透明感が凄く好きだわ。本当に光って見えるもの。」
微笑した看護師は、ハッと気付いたように腕時計を見つめる。次いで、手の上のお盆に視線を移す。彼女は私の朝食を持ってきてくれたのだ。「……今、道具どけますね。」
「やだ、私ったら……話が盛り上がって、危うく集会に遅刻するところだったわ!」
照れ臭そうに笑った看護師は、私が片付け終わるとお盆をテーブルに置いてくれる。去り際に「その絵、慧亮君に見せたら教えてね」と言って、病室を後にする彼女。その笑顔は、桜の花に彩られてとても眩しかった。
「良かったね、桔季ちゃん!あの人、また桔季ちゃんと話したそうだったよ。」
「……うん、そうだね。」
「あ、早くご飯食べちゃえば?お味噌汁冷めるよ!」
今日の朝食は、白米と小魚のふりかけ、味噌汁に鮭の塩焼きに、ほうれん草のごま和え。そして、牛乳とミカンが一個付いていた。
手を合わせて牛乳を飲み、野菜から箸を付ける。変わらないと思っていたけど、私自身が少しずつ変化してきている。それに合わせて、周りも見方を変えているかのようだ。
「……慧亮、今日来るのかな。前に来た時何も言ってなかったから、来そうにないけど。」
「お。あの看護師さんに、早く感想聞かせたいって感じ?」
「……別にそんなんじゃないよ。」
素直じゃないなぁ、とハル。その表情は呆れ顔でも怒り顔でもなく、笑顔だった。