――沢山の雑音が、体の上を飛び交っている。あれ、何でこんなに騒がしいんだろう。そう思わせる音の中に、いくつかの美音を微かに聞き取る。

 この、私の全てを包み込んでくれるような声は……慧亮だ。それから、小さな鈴みたいに響くあの声は、無愛想な私に何故か懐いているあかねちゃん。そして今聞こえた、大草原に吹く一陣の風のようなデュエットは……



「……柘季ちゃん!!」



 ――あぁ、ハルとおばあちゃんだ。私の脳に、ようやく安定した意識が戻ってくる。

 体を起こそうとしてもがいたら、しっかりとした二本の腕が私を助けてくれた。覚醒した私の視界へ一番に入ってきたのは、目に不安の色を浮かべている慧亮だった。



「……何、情けない顔してるのよ……」

「お前が急に倒れるからだろ!?心配させやがって……!!」



 飛び付く、と言った方が良いような勢いで、慧亮は、私を強く抱き締めてきた。私がガラス細工なら、きっと粉々になってしまっているんだろう。

 この人はきっと、ほんの数分の間に“私の死”っていう悪夢を見せられたんだ。ハルの言葉が本当なら、いずれそれは“現実”になるというのに。

「私、描かなきゃ……」

「え?」

「絵を、描きたいの……」



 ベッドの脇に落ちたバケツを拾おうとして、雑音の正体が数人の医師だったことに気付く。気絶したばかりの私が体を屈めることが叶わないのを悟り、小さなあかねちゃんがパタパタと駆け寄って、透明なバケツを両手で優しく持ち上げてくれた。



「……おねーちゃん、だいじょーぶ……?」



 今にも雫がこぼれそうな瞳で、少女が私を見つめてくる。医師達は冷静だけど、病室に居る他の患者や慧亮は、あかねちゃんと全く同じ表情をしている。



「……うん、ありがとう。慧亮、肩貸してくれない?早くしないと、イメージが消えちゃうから……」



 あかねちゃんからバケツを受け取って慧亮に告げると、彼は「お前は本当にしょうがない奴だな……」と言って大きな溜め息をついた。主治医が「軽い貧血だから心配ないよ」と安心させてくれたので、慧亮は僅かながら、強張っていた顔を緩ませる。



「……水、俺が汲んでくるから。柘季は描くことだけに集中してな。」



 慧亮は微笑すると、私の手からバケツを奪って病室の外に出る。彼に感謝しながら、私は先程のイメージを再描写し始めた。 慧亮が戻ってくると、棚の中から懐かしい画材一式を取り出して、ベッドに備え付けの細長いテーブルに水彩絵の具をバラバラと散らす。これから描く絵は油絵の具では表現できない。柔らかい雰囲気が出てくれないからだ。

 加えて、私のタッチは人より鮮やかだから、今回は気を付けなければならない。人々が見守る中、場所は違うけど、久し振りに私の至福の時が流れ始めた。

 ――仕事中は他の物事を一切シャットアウトする私は、種蒔きをした白い大地に恵みの雨を落とす。黒い線が描き込まれているだけだった紙が徐々に色付いて、私の脳内にあった世界が現れる。私が作り始めた大地はやがて芽吹き、花を咲かす。

 暗闇に浮かぶ、おぼろげな淡黄色の三日月。“銀の月”という海外の表現も好きだけど、私は黄色や青と表現したい。一人の絵描きとして、いうより、日本人としての感覚かもしれないけど。

 眉月とも呼ばれるそれは優しく微笑んでいるようでいて、時に鋭利で冷たい印象も与える。でも、それを見上げる一人の老女は前者の解釈をした。そのあまりの美しさ・しなやかさ・儚さに、涙を流してしまったんだろう。私はその一瞬を、独自の解釈と筆遣いで紙に塗り付けていった。「――おっ。完成したみたいだな。」



 時計は、果たしてどのくらい進んでいたんだろう。筆を止めた私に、慧亮の温かい声が降り注いだ。

 窓の外は、気付けば暗がり。いつの間にやら帰っていた医師達の代わりに、ちびっこ達と慧亮が、私のベッドをぐるりと取り囲んでいた。



「……今、何時?」

「9時50分。一時間くらい描いてたんじゃない?柘季が物凄く集中してたから、こいつらの眠気も一緒に覚めたみたいだよ。」



 クスクスと笑う慧亮。彼の言う通り、いつもはこの時間に布団の中で寝息を立てているような子達が、目をパッチリと開けて、絵を描き終えたばかりの私を凝視していた。

 おばあちゃんはどうなんだろう。隣のベッドへ視線を向かわせると、目尻が垂れた優しげな瞳がニコリと微笑んでくれた。



「おねーちゃん、みせてみせて!」

「わたしも見た~い!」



 四方八方から飛び交う声は、どれも好奇に満ちている。おばあちゃんの表情も、遊園地のアトラクション待ちをしている子供のようだ。

 小さく息を吸い、スケッチブックを裏返す。色付いたその世界が、みんなの瞳に映るように。 儚い老女の涙を優しく照らす、月の光。その二つが織り成す世界は、暗黒の夜すら幻想的に変えてくれる。例え今宵、何処かの空の下で一つの命が消えたとしても。

 ――月は美しいのだ。そして、それを見て涙する人もまた、美しい。



「すごーい……お月様が、おばあちゃんのこと見下ろしてるんだね……」

「ねぇねぇ、このおつきさま、わらってる!」

「ほんとだ。笑ってるみたい!」



 子供達がそう感じてくれたのが嬉しくて、思わず顔がほころぶ。水彩絵の具で描いても、結局は濃いめの色合いになってしまったけど、それでも元々のタッチよりは抑えたつもりだ。その証拠に、慧亮が私に何か言いたそうにしている。



「……描き方変わった?」

「今日はたまたま。淡い感じにしたかったから。」



 そう答えれば、「そっか」という言葉と共に柔らかい笑顔。その時ふと、勝手に絵のモデルにしてしまった人は怒っていないだろうか、という考えが頭に浮かぶ。

 慌てて隣のベッドに視線を移すと――そこには絵の中と同じ、月光に照らされた穏やかな微笑みが待っていた。頬を濡らしていた雫は、既に消えてしまっていたんだけど。「本当に素敵ねぇ……とっても幻想的な絵だわ。良かったらまた、色々見せてちょうだいねぇ。」



 おばあちゃんや病室のみんなの笑顔を見るまで、私の絵が誰かを幸せな気分にできるなんて考えたこともなかった。私にもそんな力があるって、自惚れて良いのかな。もう一度、絵を描き始めても良いのかな。



「柘季、また描いてみなよ。今のお前なら描ける!」



 きっと、前よりもっと良いものが。何となく、自分でもそう思った。久し振りに筆を握ったから指や腕が痛むけど、段々と良くなるはず。あの頃は、毎日キャンバスに向かっていても全然苦にならなかったんだから。



「……うん、また描いてみる。描けそうな気がする!」



 自信を持とう。そう思い、笑ってみせる。「それでこそ柘季だな」という慧亮の言葉にまた笑い、改めて、ゆっくりと空を仰いだ。

 酔わされてしまいそうな程に艶(つや)やかな三日月。夜空の美しさを忘れていた私には、何だか柔らかく微笑んでくれているように見える。

 ――この絵のタイトルは、『Invisible tenderness(ささやかな優しさ)』にしよう。心の中で、そう呟いた。