「ふーん……柘季ちゃんはおばあちゃんっ子だったんだ。」



 ハルの呟き声がした方にパッと目をやると、慧亮と冴木さんが首を傾げた。「何でもないよ。外、きっと桜の良い匂いがするよね」と言って、そろそろと窓を開ける。刹那、爽やかな甘さを含んだ優しい香りが、私の鼻腔をくすぐった。



「まぁ……良い香り。春が来たって実感するわ。」



 弾んだおばあちゃんの声が、「わーっ!キレーッ!!」というガキんちょ達の声にかき消される。思わずムッとしたら、慧亮に「まーまー、抑えて抑えて」となだめられた。

 薄めた水色の絵の具をサッと塗ったような空に、薄紅色がひらりひらりと舞っている。あ、若い頃のお母さんみたい。そう思った私は、思わず自分のベッド近くの壁にかかった絵を見上げていた。



「今、“お母さんみたい”って思った?俺、一回柘季に言われてからバレリーナにしか見えなくなったんだよね。」



 クスリと笑う掠れた低い声が、私の気持ちを言い当てる。「バレてた?」と返せば、「うん、残念ながら」との答え。私達は、顔を見合わせて笑った。笑うの、久し振りだな。そう思ったら、ちびっこ達がわらわらと駆け寄ってきた。「……お姉ちゃん、笑った!」

「え?」



 私の腰より少し高いくらいの背丈の少年が、私の藍色のパジャマの裾をキュッと握ってくる。その目が、とても眩しい。



「ほんとだ!お姉ちゃんかわいいね!!」

「ねぇ、この絵お姉ちゃんがかいたの?」

「いつかいたのーっ!?」



 ――あぁ、うるさいな。だから子供は苦手なのよ。そう思った私の心を読んだのか、慧亮が助け船を出してくれる。



「こらー、お姉ちゃん困ってるだろ?順番に一人ずつ!」

「はぁい……」



 年の離れた弟が居る慧亮は、小さな子供の扱いが上手い。この病室の子供達ともすぐに仲良くなって、よく外に引っ張り出されている。

 慧亮の言葉に従って質問してくるちびっこ達に、私は順々に答えてあげた。みんな目をキラキラさせて、「すごーい!!」を連発する。凄くも何ともないと思うんだけど、素直にそう言ってくる彼らに、戸惑いながらも「ありがとう」と返した。



「そういえば、今夜は三日月らしいわよ。夜が楽しみねぇ……」



 おばあちゃんがのんびりと口にする。彼女はきっと三日月が好きなのだ。あのスッキリとした切ない雰囲気が、多分。
 本当はおばあちゃんの話をもっと聞きたかったけど、私に話しかけてきた一人の女の子によって、質問の嵐が幕を開けてしまった。夜にまた聞かせてもらおう。その思いをおばあちゃんに伝えると、黄色い小花のような愛らしい笑みを浮かべてくれた。

 ちびっこ達に質問攻めにされている間は、慧亮とおばあちゃんのお陰でそれ程苦痛に感じなかった。これまでに描いた絵のほとんどは家でお留守番しているとか、慧亮とは同じアートスクールに通っていたとか教えてやると、誰もが弾んだ甲高い声を上げる。きっと病院から出たことがあまりないから、外の世界にある“未知”が気になって仕方がないんだろう。



「おねーちゃんとおにーちゃんはこいびとなのー?」

「……その質問には私は答えない。お兄ちゃんに聞いて。」

「なんでなんでー?」

「ねぇ、何でー!?」



 あぁ、ガキってやっぱり苦手。一人が何か言い出すと、みんなが束になって同じことを繰り返すんだもん。だから嫌なのよ。

 “恋バナ”ってものは、どうもむずがゆくて好きじゃない。慧亮は私とは対照的だったみたいなので、この質問は彼にお任せすることにした。「お兄ちゃん、どうなの?」

「うん、お兄ちゃんとお姉ちゃんは恋人だよ。」

「えーっ!じゃあチューしたの!?」

「慧亮、そこから先は答えなくていいからね。」



 睨みを利かせ、釘を刺す。慧亮の性格上、効果はほぼゼロかもしれないけど。でも慧亮は、「お姉ちゃんがこう言ってるから、また今度ね」と、あっさり引いた。私が居ない時にこっそり教えるつもりなのかな。本当に、色んな意味で良い性格をしている。



「柘季ちゃん。実際のところ、慧亮君との初チューはいつなの?」



 やけに楽しげな声が聞こえてきた天井に、そーっと目をやる。ハルだ。今ここで言う訳にはいかないでしょ、という視線を向けると、思いを汲み取ってくれたのか、「じゃあ、また後で聞くね」と言い、フッと窓の外へ移動した。どうやらお花見に行くらしい。



「残念ねぇ、私も聞きたかったんだけど。」



 おばあちゃんがクスクスと笑う。彼女にそう言われると、子供達の質問に答えようとした慧亮を諌(いさ)めた自分が物凄く悪いことをしたような気分になった。頭を垂れていると、いつの間にか夕食の時間がやってきて、ちびっこ達がいそいそと病室を出ていった。
 ――夕食を終え、慧亮がくれたゼリーを病室のみんなに配る。ここにはおばあちゃんと私を含めて八人居るけど、それでもまだゼリーは余っている。どうやら私の数日間のデザートになりそうだ。



「おねーちゃん、おにーちゃん、ありがとう!」



 4歳の女の子が砂糖菓子のように笑い、ペコリと頭を下げてきた。胸の奥がむずがゆくなって、返事に困る。一人っ子の私には想像することしかできないけど、妹が居たらこんな感じなのかな。

 チラリと慧亮を見ると、彼は少女の頭を撫でて、「ちゃんとお礼言えて偉いな」と誉めている所だった。彼の弟も、確かこの子くらいの年だったような気がする。数える程しか会ったことはないけど、慧亮によく似た、人懐っこい笑顔の男の子だった。



「ねーねー!りょーくんはげんき?」

「あぁ、涼亮(りょうすけ)?今度連れてきてあげるから、それまで良い子にして待ってな。」

「うん!あかね、いーこにしてる!!」



 涼亮君、というのが慧亮の弟の名だ。私の向かいのベッドに居る三俣(みつまた)あかねという少女は、どうやら涼亮君が好きらしい。そういえば、二人が一緒に遊んでいるのを何度も見ていた。「あかね、もうちょっとしたらたいいんできるんだよ!そしたら、りょーくんといっぱいあそべるね!」

「うん、そうだね。じゃあ、やんちゃしないで早く治そうな。」

「はーい!」



 元気よく右手を上げるその姿に、思わず小さく吹き出した。素直に“可愛い”と思ったから。あかねちゃんは不思議そうに私を見つめて、「おねーちゃん?」と言いながら首を傾げている。



「……何でもないよ。」



 小さなその頭を撫でてあげると、柔らかいクッションでも抱き締めている時のように安らいだ笑みを見せてくれた。あぁ、こんなに可愛い生き物が地球に居たんだ。そう思った時、窓が揺れるカタリという音がして、そちらを見やる。

 ――ガラスをすり抜けてきたハル。彼女が今まで泳いでいたであろう空には、とても愛らしい三日月が姿を現していた。



「キレーだよねー……昔『三日月ほど美しい月はない』って吟った詩人が居たらしいよ。あたしは賛成だなー。」



 上機嫌で言うハルは、確かに嬉しそうだ。みんなも月に心を奪われている。ふと、おばあちゃんに目を向けると、彼女は誰よりも温かな笑みを浮かべ、綺麗な涙を流していた。 その瞬間――私の心に“何か”が舞い降りてきた。描かなくちゃ。今、この瞬間を切り取らなくちゃ。画家の性とも言えるその衝動が、二年という時を越えて、再び私の心に宿った。

 長いこと触れていなかったスケッチブックをめくって、まっさらなページを探し出す。存在すら忘れかけていた筆箱から、尖った鉛筆と新品同様の消しゴムを取り出して、私は白い世界に種を蒔き始めた。

 描きたいという思いのままに、ただひたすら鉛筆を走らせる。時折おばあちゃんと月とを見ながら、頭の中で融合させたイメージを紙面に描き出していく。私の手は、止まることを知らない。



「……柘季?」



 突然何かを描き始め、今度は小さなバケツを探して棚を引っかき回す私の異常事態にいち早く気付いたらしい慧亮が、訝しげな顔で呟いた。悪いけど、最愛の人の疑問に答えている暇さえ、今の私にはない。そんなことをしている一分一秒が惜しいからだ。

 目当ての物を掴んで勢いよくベッドを抜け出した直後――世界が揺らぎ、暗転した。徐々に遠くなっていく意識の向こうから微かに耳へ入ってきたのは、私の名前を叫ぶ慧亮の、やけに焦った声だった。