「恐悦至極に存じあげます」

その手は震えていた。

「会津藩にかつてあった部隊に肖(あやか)ってみたものだ」

そこに書かれていたのは、寛政(かんせい)年間(1789年〜1800年)に存在した会津藩の精鋭部隊の名前である。
その部隊は武力に優れた藩士の子弟で構成されていた。

その後世の中が平和になり消滅してしまったのだが、八月十八日の政変の際に迅速な対応で具足一式を用意し、戦地へと赴いた行動に深い感心を抱いた容保は、『伝統あるこの名を譲り渡すならば、この者達だ』と直感したのである。

「新しい時代を築く者。
そういう意味も込めておる」

名前につけた想い、その新しい名の由来を説明されて、近藤は感涙に咽ぶ。

「重ね重ねもありがたきは殿へのご恩。
我等、この名に恥じぬよう、より一層、幕府の御為、殿に尽くす所存でござります」

「本陣に戻ったら、芹沢達と相談せよ」

人との縁というのは摩訶不思議なものだ。
初めて会った時から竹馬の友でもないのに、近藤勇と松平容保は不思議と互いに厚い信頼を感じあい、共に惹かれあっていた。

「励め」

そう言い残し、容保が部屋から出て行くと、改めて勇は、松平容保らしい端正で尚且つ力強い字体で書かれた紙を見て息を飲んだ。
歳三も満更じゃなさそうに口は照れを隠す為か強く一文字に結んでいた。

「近藤さん、あなた達には話しておかねばならぬ辛い儀がござる」

その喜びを引き裂いたのは、広沢富次郎であった。

何故、三人で呼ばれたか分かるよな、と前置きをしながら、大和屋の一件にはじまり芹沢達が隊の名前を使い乱暴狼藉を働いていることは会津藩にも話は伝わっていると広沢は言った。