翌十九日の朝、一行は出発した。

その場には七人の尊王攘夷派の公卿の姿があった。

三条実美(さんじょうさねとみ)、三条西季知(さんじょうにし すえとも)、四条隆謌(しじょう たかうた)、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)、壬生基修(みぶもとおさ)、錦小路頼徳(にしきこうじよりのり)、澤宣嘉(さわのぶよし)の七名。

小雨降りしきる中、七人の尊王攘夷派公卿たちは長州兵に警護されながら、まず大和の十津川に入り、はるか西の方長州を目指す。

いわゆる七卿落ちである。

「また都へ戻ってこれるのであろうか…」

 心細さに涙する公卿たち。
この時、長州藩士・久坂玄瑞(くさかげんすい)は甲冑に身を固め、公卿たちの護衛にあたっていたのだが、都落ちの様子を今様の名文に残している。


『世はかりこもと乱れつゝ、茜さす日のいと暗く、瀬見の小川に霧立ちて、へだての雲とはなりにけり。うら痛ましやたまきはる、内裏に明暮れとのゐせし、実美朝臣(さねとみあそん)に季知卿(すえともきょう)、壬生、沢、四条、東久世(ひがしくぜ)、そのほか錦の小路殿、いまうき草のさだめなき、旅にしあれば駒さへも、進みかねてはいばへつゝ、降りしく雨の絶間なく、涙に袖の濡れ果てゝ、これより海山浅茅が原、露霜わきてあしかちる、難波の海にたく塩の、辛き浮世はものかはと、ゆかむとすれば東山、峰の秋風身にしみて、朝な夕なに聞馴れし、妙法院の鐘の音も、なんと今宵は哀れなる、いつしか暗き雲霧を、払ひ尽くして百敷の都の月をしめで給ふらむ』


 肥後藩も全員に藩へ帰国するように命令を出し、歳三を襲った河上彦斎も同じように肥後へと帰らなければならない状況となったのだが、志士たちの中には脱藩し、長州とともに行動しようとする者たちも出始めた。

河上もまたそのひとりであった。

京を追われ、肥後には戻らずに長州へと移り三条実美の警固にあたるようになったのである。