狂おしいほど惹かれてく(短編集)



『問題! “武器よさらば”や“老人と海”を書いた作家は?』

「ヘミングウェイ」
「へへへ……!」

 ばちーん。三発目。

 完全に涙目、むしろちょっと泣いている豊は「へ、ヘミングウェイは原書なら読んでるし!」「A Farewell to ArmsとThe Old Man and the Seaって言わなきゃ分かんねえよ!」と逆ギレ中。
 そんな一視聴者の事情を汲んで問題は作らないでしょう。

「分かった分かった、豊、罰ゲーム変えよう」

「べ、別に変えなくてもいいし! 俺ビンタ好きだし!」

 動揺のあまり変態のようなことを言い出した豊を無視して、わたしはこんな提案をした。

「罰ゲーム、間違えたら相手にキスに変えよう」

「ぬえぇっ……?」

『問題! 司馬遼太郎の小説“坂の上の”なに?』

「雲」とわたし。豊は一言も発することができない。

『正解は“雲”、“坂の上の雲”でした!』

 正解を聞き終え、視線を隣に移す。答えられなかった豊は、もう何回目かの罰ゲームだ。

「シバー? 俺洋書しか読まねぇしー、理系だしー、こんなの分かるわけないしー」

「豊」

「問題作ってるやつ、俺にも答えられるような、もっと理系の問題作れよな、まったく、どうなってんだ、文系のやつに有利すぎんだろー」

 平静を装っているけれど、視線があっちこっちにさ迷って、声もうようよしている。さっきまでよりもずっと動揺しているのが見て取れた。

「豊」もう一度名前を呼ぶ。

「罰ゲーム」

「うっ……」

 中学、高校を男子校で過ごし、大学でも就職してからも男友だちとわいわいやっていたらしい豊は、こういうことには本当に弱い。
 付き合い始めてもうけっこう経つのに、キスやハグ、それ以上のこととなると、うぶというか何というか。
 まあ、そんな初々しさが可愛いのだけれど。


「豊さん、罰ゲーム、唇にお願いします」

「……く、唇でいいのかよ」

「唇がいいの」

「……ばっ、罰ゲームだしな! 仕方ねぇな!」

 そう言って真っ赤な顔を近付けて来る豊を、ギロリと睨み上げた。

「罰ゲーム? 仕方ない? わたしとのキスがそんなに嫌なんだ?」

「……!」

 途端に、さらに動揺した顔。たらりと汗が頬を伝うのが間近に見える。

「い、や、じゃ、ないけどよ……」

「そう。良かった。ならどうぞ」

 キスしやすいように顔を上げると、動揺して真っ赤な顔をした豊が、ゆっくりと近付いて来た。
 そして唇に。豊の唇が触れる。

 緊張しているのか、いつまで経っても慣れないのか。たぶん両方だけれど。口を真一文字に閉じた、何とも初々しいキスだった。

 数秒でそれは終わって、顔が離れていく。その表情は、さっきよりも落ち着いていた。

 そんな表情を見ていたら、なんだか急に可笑しくなった。キスがしたいのに素直に誘えないわたしと、女性に不慣れでキスしてこない豊。
 もしかしたら今日わたしを部屋に呼んだのは、お腹が空いたからではなく、わたしに会いたいと思ってくれていたのかな、なんて。自分勝手な想像をした。

 ああ、愛おしいなあ。幸せだなあ。

 平手打ちを何度も食らったせいで、少し赤くなった豊の左頬を撫でて「ごめんね」と言う。

 今度は、わざと間違えてみようかな、なんて考えながら。





(了)
【キスでする餌付け】



「女捨てないでね」
 部屋を訪ねて来た怜くんの第一声がそれだった。

 確かに風邪を引いて寝込んでいたわたしは、おでこに冷却シートを貼って、前髪をちょんまげにして、鼻にティッシュを詰めていた。
 勿論すっぴんだし、汗をかくたびに着替えていたから、今着ているよれよれのシャツしか残っていない。
 しかも玄関から見えるわたしの部屋――1Kのアパートの室内は荒れ放題だけれど。

 でも。恋人が苦しんでいるのに、労わりの言葉より先にそんな言葉をかけるのはいかがなものか。
 お互い忙しくって、ひと月ぶりに会えたというのに、だ。

「風邪引いてるのに身なりに気を使ってる場合じゃないでしょ」

「ふうん」

 興味なさそうな相槌を打って怜くんは、右手に持っていたビニール袋を差し出す。

 中にはレトルトのおかゆにゼリーにスポーツドリンク。どうやらわたしが働いている店に気まぐれに顔を出したら、風邪を引いて休んでいる旨を聞いたらしい。
 そしてビニール袋はうちの近所のスーパーのものだ。ここに来る前に寄って来たらしい。
 素っ気ないのはいつものことで、意外と心配してくれていたみたいだ。

「じゃあ、僕帰るから」

「え、入らないの?」

「え、意味分かんない。僕に菜津の風邪が移ったらどうするの」

「……いや、はい、ごもっともです」

 それは本当にごもっとも。営業職で全国各地への出張も多い怜くんが体調を崩したら大事件だ。わたしの風邪を移してしまう前に、早めに帰ってもらわなければ。

 それでも、踵を返した怜くんを呼び止め、鼻に詰めたティッシュを取り、おでこの冷却シートも剥がす。

「なに?」

「ありがとね、来てくれて。うれしいよ」

「……」

 相変わらずの仏頂面でじっとわたしを見た怜くんは、帰りかけていた足をこちらに向ける。
 つかつか、と。早足で戻って来たかと思えば、わたしのおでこに手を置いた。

「……怜くん?」

「僕が風邪引いたら大変だから、帰るよ」

「うん?」

 帰ると言うわりに帰らない怜くんは、冷却シートのせいで少しぺたぺたするおでこをひと撫でしたと思うと、突然。わたしの唇に、自分の唇を押しつけたのだった。
 この感触、というか、人肌自体久しぶりだ。鼻腔をくすぐる怜くんのかおり。これも久しぶり。





 ちゅ、というリップ音とともに唇が離れ、至近距離で目が合う。少し色素が薄い怜くんの瞳に、わたしが映っているのが見えた。漫画や小説で、瞳に自分が映っているという描写をよく見るけれど、あれは本当だったのか。本当に映るものなんだ。

 なんてぼんやりと考えていたら、怜くんは「何期待してんの」と。自分からキスしてきたくせに、この言い様。

「風邪、移っても知らないからね」

「そしたら菜津のせいだよ」

「いやいやいや、それ自業自得っていうんだよ」

 言うと怜くんはふっと小さく息を吐いて笑うと、わたしから離れて踵を返す。今度こそ帰るらしい。

 名残惜しい。
 こんなに名残惜しいのは、絶対に怜くんのせいだ。キスなんかしたせいだ。ちょっとだけ、風邪で人肌恋しいせいでもある。

 別れの挨拶もないままアパートの通路を進む怜くんが、再び足を止めて振り返る。
 そして蛇足のように、追伸のように、おまけのように「僕、今月中は出張ないから」と言った。

 ああ、もう、これは。おまけはおまけでも、グリコのおまけだ。ハッピーセットだ。お菓子よりも、ハンバーガーよりも、むしろおまけが楽しみなアレだ。

 今度は振り返りもせず、怜くんはすたすたとアパートの敷地内を出て行って、すぐに見えなくなったけれど。わたしはしばらく玄関先に立ち尽くして、さっき触れた唇の感触を思い出していた。

 どんな労わりの言葉より、あの追伸が何よりうれしい。
 明日も会える。明日もきっと、会いに来てくれる。





(了)
【立ち止まって振り向いて、】




 築年数がわたしの年齢と同じくらいの木造アパート。一階、103号室のピンポンを鳴らして少し待つと、チェーンを付けたままの扉が控えめに開いた。

 僅かな隙間から様子を窺うように顔を出した野島さんは、わたしを見るなり固まってしまった。

「こんばんは。お疲れ様です、野島さん」

「……、……訪問販売はお断りだけど」

「販売なんてしませんよ」

「じゃあなに、今日、せっかく煎れてくれたお茶を、一口も飲まないままひっくり返しちゃったから、仕返しに来た?」

「いえいえ」

「じゃああれか、この前飲みに行ったとき酔って下ネタ連発しちゃったから、セクハラで裁判起こす?」

「裁判も起こしませんよ」

「来る場所、間違ってない?」

「どちらかと言うと、間違ってると思います」

「……なにこの子、何が目的なの? 今どきの若い子こわ……どうしよ、めっちゃこわい……」

「野島さん、心の声がだだ漏れですよ」

 同じ会社の先輩である野島さんの自宅アパートを訪ねるのは、これが初めてのことだった。
 普段は課長としてみんなを取りまとめ、的確な指示をして、自信たっぷりの姿を見せる先輩も、仕事が終わればただの人。特に女性関係がめっぽう弱く、途端に小さくなってしまう。あとお酒にも弱い。
 今だってそう。急に訪ねて来たわたしを完全に警戒して、決してチェーンを外そうとしない。むしろ今にも扉が閉まってしまいそうだ。


「あのー、葵ちゃんね、こんな時間に女性がひとりで男の部屋に来ちゃだめ、分かる? こんな時間に女性がひとりで男の部屋に来るってことは、つまり何をされてもオールオーケーってことなの、分かる?」

「しませんよ」

「……なんなのこの子、全っ然帰らないんだけど……何が目的なの? こわ……めっちゃこわ……今戦闘中なのに、大事な場面なのに……居留守使えば良かったわ……」

「ピザ持って来たんですが、一緒に食べません?」

「……葵ちゃんさあ、持ってく相手間違ってない?」

「どちらかと言うと間違ってますね」

 心の声がだだ漏れで、警戒心しかない先輩をどうにかこうにか説得して、部屋の中に入る。
 間接照明とパソコンの灯りのみ、という、目に悪そうな部屋だった。

 とりあえず電気をつけ、お茶やら座布団やらを用意しようとする野島さんを止め、パソコンの前に座らせる。
 わたしが来るまで、パソコンでオンラインゲームをしていたらしいし、それを中断させてしまったらしいし、早くプレイを再開してもらわないと、パーティーを組んでいる相手に悪い。





「わたしはピザを食べて待ってますので、心ゆくまで鉄砲を撃ってください」

「……終わったらするの?」

「しませんってば」

 とは言え、野島さんはプレイに集中できていないようで、たまにちらちらと背後のわたしを見ては、肩を竦める。仕事中の堂々とした様子からは想像もできない姿だ。

「野島さん」

「なっ、なに!?」

「隣で見てて良いですか?」

「い、いいよ、別に……」

 ちゃんと許可を取ってから、野島さんの隣まで行って、ディスプレイを覗き込む。

 ふむ。銃撃戦だ。各プレイヤーがフィールドに散って、各々銃や防具を揃えて、他のプレイヤーと戦闘を繰り広げている。
 パソコンにはヘッドセットが繋がれていて、さっきまでパーティーを組む相手と話しながらプレイをしていたらしいけれど、わたしが来たせいで今は意志の疎通ができていない状態だった。
 パーティーを組んでいる相手が何かアイテムを欲して頻りにアピールしているが、野島さんにはそれが上手く伝わっていない。

 わたしはゲームに詳しくないけれど、銃撃戦をしたりアイテムを集めたり車で移動したり。なるほど楽しそうだ。みんながハマる理由は何となく分かった。

「……葵ちゃんさあ、」

「はい」

「何度も言うけど、来るとこ間違ってるよ。僕嫌だよ? きみの恋人に怒られるの」

「島さん」

「野島さんね」

「わたし、恋人いませんけど」

「ええっ!?」

 わたしの発言に、野島さんはびくりと肩を震わせ、ゲーム内で一発誤射をしつつ、椅子ごと後退る。

「じゃ、じゃあこの男は?」

 そして野島さんが指差したのは、パソコンのディスプレイ。そこには銃を二丁背負い、すっぽりと顔を覆うごついヘルメットを被り、腰にフライパンを携えた、筋骨隆々の男がいる。
 戦闘の真っ最中、しかもけっこうな終盤に差し掛かっている今、意志の疎通さえできない野島さんが手を止めてしまっては、相手はさぞかし苦労をしているだろう。

「元先輩で、今は仲良くしてもらってる飲み友だちですが」

「しょっちゅう部屋行くのに!? 晩飯作ってるのに!? 葵ちゃんの話すると怒り出すのに!?」

「はあ、でも付き合ってはいません」

「じゃあなんでしょっちゅう部屋行くの!? 僕知ってるよ、葵ちゃんが飯作るようになってから、あいつ急激に太ったでしょ! きみはそれでいいの!? 太らせたいの!? 太らせて食べるの!?」

 物凄い剣幕で捲くし立てる野島さんに若干引きつつ、付き合っていない旨を伝える。

「信じられない……しょっちゅう部屋に行って一緒に飯食って、休日はデートして、遅くなったらどっちかの部屋に泊まったりしてるのに、付き合ってない……? 今どきの若い子こわ……」

「野島さんとわたし、五歳しか変わらないじゃないですか」

「じゃあ毎晩同じ部屋で過ごして、一切何もないってこと!?」





 そんなに毎晩なんて行っていない。
 時間が合った日にお邪魔して、夕飯を作ったり、洗濯をしたり、ごろごろしたり、オンラインゲームをやっているのを隣で見たり。それくらいだ。

「野島さんだって知ってますよね、ゲーム中、ピザばっかり食べてるんですよ」

「うん、知ってる……」

「身体に良くないじゃないですか。転職して、ただでさえ忙しいのに」

「うん、そうだね……」

 だから夕飯を作っているんです。そう説明すれば野島さんは、肩を竦めてため息を吐く。

「まあ僕も、あいつの不摂生は昔から心配してたよ。僕以上のゲーマーで、食事も睡眠時間も削ってゲームしちゃうところがあるから。うちの会社辞めて転職してからも、ゲームに費やす時間はあんまり変わってないみたいだし」

「はい。この間仕事が忙しくて数日間行けなかったら、部屋がピザとファストフードだらけでした。買って来たのに食べるの忘れてダメにしちゃったり」

 話しながらちら、とディスプレイを見ると、野島さんのキャラもパーティーを組む相手のキャラもしっかり銃撃され、ゲームオーバー。ひとり取り残された相手はそれでも善戦したのか、参加五十チーム中二位という好成績をおさめていた。

「急に来てごめんなさい。いつもと違う視点で、おふたりが戦っている様子を見てみたかったんです」

「葵ちゃんもやってみればいいのに」

「わたしゲームの才能ないんです。前に格闘ゲームやったら、三十秒で負けちゃったし」

「それは対戦した相手が悪いんじゃないの? あのゲーマー相手じゃあ仕方ないよ」

 野島さんはそう言って笑って、マウスに手を戻した。ようやくホーム画面に戻り、次の試合開始を待つ。
 わたしはそれを、野島さんの隣で体育座りをして待った。

「野島さん、ピザ、かっちかちになっちゃいますよ」

「じゃあ葵ちゃん、食べさせてよ」

「いいですよ」

 頷きながらピザの箱を開け、先輩の口元まで運んであげようと思ったら、少しの間の後「やっぱり自分で食べる」と断られた。
 ゲーム中だしかっちかちになっちゃうし、食べさせるくらい良いのに、と返せば「小山くんに怒られる」と心底怯えた表情をした。

 今は転職をしたとはいえ、元部下で年下で、毎晩のように仲良くゲームをしている相手だというのに。何をそんなに怯えることがあるのか。

「小山くんには今日のこと、絶っ……対に言わないでね」

「言っても問題ないと思いますが」

「絶っ……対に言わないでね?」

「分かりました、言いません」

 結局最後は、先輩の迫力に負けて頷いた。

 いつもは小山さんがゲームをしているのを、小山さんの横で眺めている。でも今夜は野島さんの横で、小山さんのプレイを眺める。
 いつもと違う視点は、なんだかとても新鮮だ。
 小山さんの顔は見えない。最近太ってきた身体も。でも確かに今、この瞬間。小山さんはパソコンの前にいて、ゲームのキャラクターを操作している。

 小山さんと知り合ってもう何年も経つし、最近はしょっちゅう一緒にいるけれど、たまにはこんな風に違う視点で。たまには立ち止まって、ちょっと後ろを振り返ってみたくなる、なんて。
 こんなことを言ったら、小山さんはどんな反応をするだろうか。「おまえはいつも変なこと言うね」と。呆れながらも笑ってくれるだろうか。





(了)
【外国人上司の受胎告知】




「アイ、今夜は僕が腕によりを作って食事の準備をするから、アイはゆっくり、首を太くして待っていてね」

「フランシスさん、ちょいちょい日本語間違ってます」

「え、そうなの?」

「よりはかけるものですし、首は長くするものです」

「やっぱり日本語は難しいね。日本もフランス語を母国語にすればいいのに」

 そう言って口を尖らせる彼は、フランシス・ミィシェーレさん。
 ブロンドの髪をした超絶美人のフランス人で、わたしの職場の上司。数年前にフランス支社からこちらに転勤してきた。
 びっくりするくらい徹底したレディーファーストで、びっくりするくらい日本語が上手い。

 その美貌とレディーファーストで、女性社員たちから絶大な人気を誇る。
 仕事も自分の意志を持ってはっきり持って取り組んでいるおかげで、同僚たちからの信頼も厚い。
 情も深く、同僚たちのプライベートな悩みを聞くと、休日返上で助けてあげている、という話を聞いた。

 そんな完璧超人のフランシスさんと、今年の春から付き合うことになった。

 ということは、ごくごく普通の一般市民であるわたしが、学生時代から住んでいる、築三十年、木造二階建てのアパート、104号室、1K、和室八畳キッチン六畳の部屋に、フランス国籍の完璧超人が出入りするということで。その違和感ときたら……。

 フランシスさんといるときにばったり会ったアパートの住人たちも、みんな必ず驚いた顔をした。

 特に郵便受けの前で会った男性――たしか101号室のひとは目を丸くして硬直し、取り出したばかりの郵便物をどさどさと落とした。
 フランシスさんが郵便物を拾い、それについた砂を払いながら「大丈夫ですか、どうぞ」と流暢な日本語で声をかけると、男性は「アリガトゴザイマース」と片言の日本語で返していた。

 そんな、わたしには不似合い過ぎるくらいの完璧超人と付き合うことになった経緯を話そうとすると、今から数ヶ月――春の気配を感じつつもまだ少し肌寒い、三月の末まで遡らなければならない。







 三月二十五日のことだった。
 遠くでピンポンが鳴っている気がして目が覚めた。

 手探りで枕元のスマートフォンを探し当て、ディスプレイの眩しさに目を細めながら確認すると、深夜二時半。こんな時間に来客なんて有り得ない。

 事実、ピンポンは鳴りやんでいて、辺りはしぃんと静まり返っている。
 ピンポンは気のせいだったのかもしれない、けれど、別の問題が発生していた。

 ディスプレイには、不在着信十五件、の文字があった。誰からの着信かといえば、全て「フランシス・ミィシェーレ」さん。わたしの職場の上司で、超絶美人のフランス人だ。社内外、男女共に絶大な人気を誇るフランス人上司が、真夜中過ぎから計十五件の着信を残すなんて、一体何事なのだ。

 まさか仕事で何か問題が起こったとか……? いや、それにしたってこんな時間にフランシスさんだけが連絡を寄越すというのは不自然だ。

 最後の着信は十分ほど前だけれど、こんな時間にかけ直してもいいだろうか。

 迷っていたら、窓がこんこんと鳴った。バルコニーに面した窓だ。
 瞬間、背筋がぞくりと震えて飛び起きた。

 そしてまだ覚醒しきっていない頭で考える。
 明らかに何者かがバルコニーにいて、窓を叩いている。わたしの部屋は一階とはいえ、深夜二時半にバルコニーに侵入して窓を叩くなんて普通ではない。もしかしたら部屋のチャイムも気のせいではなく、今バルコニーにいる何者かが鳴らしたのかもしれない。
 窓を割られる前に、警察を呼んだほうが良いだろうか。それとも十分前に電話を寄越したフランシスさんに助けを求めるべきか。

 と、ここまで考えてはっとした。ようやく目が覚めてきた。

 そして着信履歴からフランシスさんに発信する。間もなくバイブ音がすぐ近くで鳴り「Allo、良かった、アイさん、やっと気付いてくれましたね」という声が、窓の外から聞こえたのだった。

「ああ、やっぱり……フランシスさん、あなた今、バルコニーにいますね?」

「ええ、二時間以上部屋の前にいたのですが、全然反応してくれないので困っていたのです」

「ああ、はい……寝ていましたし……」

 とにもかくにもバルコニーに侵入した何者かの正体が分かった。なら早いところ彼を何とかしなくては。このままバルコニーでの会話をしていたら近所迷惑になってしまう。

「鍵開けますから、玄関から中へどうぞ……」

 だからこう言わざるを得なかった。





 正直、こんな深夜に上司であるフランシスさんを部屋に上げたくはなかった。

 もしかしたら仕事の話をしに来たのかもしれないけれど、わたしは部屋着ですっぴんで寝起き。一応手櫛で髪を梳いてみたけれど、とても見せられるような恰好ではない。それをよりにもよって超絶美人に見られるなんて……。

 少し毛玉が出てきたワンピース型の部屋着を隠すためにカーディガンを羽織り、渋々ドアを開ける。
 その向こうに立っていたフランシスさんは、会社で見たときと同じくスーツ姿で、会社でよく見る美しい笑顔で。申告によると二時間以上部屋の前にいたらしいけれど、そんな寒さも疲れも感じさせないくらい、いつも通りのフランシスさんだった。

 部屋に招き入れ、コーヒーを淹れているあいだ。フランシスさんはとても美しい姿勢で正座をして待っていた。が、違和感がすごい。わたしがいつも過ごしている八畳の和室に、ブロンドで超絶美人のフランス人が座っているなんて……。

 コーヒーをテーブルに置き、フランシスさんと少し距離を取って座った。のは、部屋着やすっぴんをあまり見られたくないから。それと、深夜の二時半に訪ねてきた上司を訝しんでいたからだ。

 そんなこともお構いなしにフランシスさんは上品な仕草でコーヒーを飲み、そして顔を上げてじっとわたしを見ると。穏やかで優しく、慈愛に満ちた声で、こう言ったのだった。


「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」

「……、……、……、……はい?」

 だいぶ覚醒してきたとはいえ寝起き。まだ思考が追い付かない。
 恵まれた女? おめでとう? 主がなんだって?

「ええと、ちょっと意味が分からないんですが……もう一度言ってもらえますか……?」

「ですから、アノンシアシオンですよ。そのために僕はここに来たのです」

「……いや、やっぱり意味が分かりません」

「じゃあアンヌンツィアツィオーネです」

「アンヌンって……どうして急にイタリア語に……?」

「つまり、受胎告知ですね」

「はあ、はい……」

「とにかく僕は今夜、アイさんに受胎告知をしに来たのです。恵まれた女よおめでとう」

「いや、やっぱり意味が分かりません……。え、なんでジャケット脱ぎ始めたんですか? なんでネクタイ外すんですか?」

 話に全くついていけないわたしを横目に、フランシスさんはジャケットを脱ぎ、ネクタイも外す。そして当たり前のようにシャツのボタンも外し始めたから、寝起きの頭は混乱した。

「まあまあ、落ち着いてください。とりあえずベッドに行きましょう」

 フランシスさんはまるで食事にエスコートするかのようにベッドに促す。
 もしかしたら仕事で何か問題があったのかもしれない、と。わずかな可能性に賭けてみたりもしたけれど、これでその可能性は消えた。

 このひとは仕事の話をするためにやって来たのではない。「そういう」つもりでやって来たのだ。