一頻り抱き合ったあと、由加にハンバーグもどきの手直しをしてもらった。
分厚過ぎて中まで火が通らなかったハンバーグは、ちょっとだけ平たくして、再びフライパンへ。欠片を少し食べた由加は、何の味付けもされていないことに気付いて、塩コショウを振りかけていた。ああ、味付け……。完全に忘れていた……。
そして戸棚からデミグラスソースの缶を出して、赤ワインやケチャップと一緒にフライパンへ投入。蓋をして、しばし煮込む。
火加減を確認しなかったせいで外側が焦げ、中まで火が通っていなかったハンバーグを、煮込みハンバーグに作り替えてくれるみたいだ。
完成したデミグラス煮込みハンバーグは、涙が出るほど美味しかった。さすが由加、料理上手な彼女で幸せ、と褒めると「わたしは仕上げをしただけ。作ったのは雅人でしょ」なんて言ってくれたから、また涙が出そうになった。
おれの前で煮込みハンバーグを口に運ぶ由加の目にも、涙が浮かんでいた。
ただしおれの涙とは、明らかに理由が違う。
「あははは! 玉ねぎ! 原型とどめてる!」
みじん切りに挫折してざく切りにした玉ねぎや、分量を気にしなかったせいで大量投入されることになった牛乳やパン粉、味付けさえ忘れ、歪な形をしたハンバーグ。由加はこれを「ずぼらハンバーグ」と名付けて、楽しそうな様子で完食した。
「また作ってね」
「ん、今度はちゃんと練習してくるから」
「練習しなくていいのに。美味しくて面白いなんて一石二鳥な料理は、他では絶対食べられないでしょう」
そんな風に言ってもらえて、嬉しい反面、もっとちゃんとしたものを作ってあげたいと思った。せめてキッチンを惨状にしない料理の仕方を身に付けなければ。
優しい優しいおれの恋人に、もっと喜んでもらうために。
(了)
【きみの背中】
背中が。背中に。あの背中に、抱きつきたい。いま、とっても……。
実家から送られてきたリンゴをお裾分けするため、恋人である拓海くんが住んでいる、築三十年、木造二階建てのアパート、202号室を訪ねたとき。彼はお風呂に入っていて。お風呂場のドアをちょっとだけ開けて「入って寛いでてー」と言うから、お言葉に甘えてお邪魔した。
すぐに出て来た拓海くんは、上半身裸で頭にタオルをかぶって、あちーあちーと繰り返しながらCDの山をあさり始めた。デジタルの時代になっても、拓海くんはCDを好んで聴いていて、あれこれ買いあさっている。この間は中古販売店で「き」の段に並ぶCDを丸ごと買ってきた。
「随分大人買いしてるのねぇ」と驚くと「中古だし安いもんだよ」とのこと。まあ確かに、貼ってある値札シールは「50円」や「100円」や、高いものでも「500円」くらいだ。
そうやってCDを増やしまくるから、今この八畳の和室にある荷物の大半を占めているのはCDだ。実家にはもっと山のようにあるらしい。
ケースを開け、歌詞カードを開いたり、ディスクを手に取って傷を確認したり。そうやって大好きなCDをあさる背中に、わたしは物凄く、抱きつきたくなった。
なんて、言えない。
言ったら絶対拓海くんはにやにやへらへらして、今夜は寝かせてくれなくなる。明日は朝から講義もバイトもあるから、今日は早く帰って寝ようと思っているのだ、けれど……。
でも、抱きつきたい。あの広い背中に。くっきりと浮き出た肩甲骨に。程よく筋肉がついた、逞しい背中に……。
そんなことを考えていたら「千尋」と。突然名前を呼ばれて肩が震えた。
「え、な、なに?」
首を傾げると、拓海くんはディスクを手に持ち、振り返らないまま、……
「そんなに見つめられると、どきどきするんだけど」
「えっ、なんっ、ええっ?」
「なんか変な気分になっちゃうよ~」
ようやく振り返った拓海くんの得意気な顔を見て、気が付いた。
彼はディスクの傷の確認をしていたのではない。ディスクにわたしの姿を映して、盗み見ていたのだ……! この、卑怯者!
「み、見てたのは拓海くんじゃない!」
「千尋だって、蕩けた目で見てたじゃん。俺の背中」
「見てた、けど……見てたけど……、……っ、……っ、……もういい!」
言葉が上手く出て来なくって、ふいと顔を背けながらバッグを引っ掴む。
可愛くない、と思った。なんて理不尽な、とも思った。見ていたのに、見惚れていたのに、素直になれなくて。挙げ句半ギレして帰ろうとしているなんて……。
この間二十一歳になったというのに。もう成人して一年も経つというのに。わたしはなんて子どもなんだ……。成人したら、もっと大人になれると思っていたのに、現実はそう上手くはいかないみたいだ。
わたしが立ち上がるのとほぼ同時に拓海くんも腰を上げ、「待って千尋!」と慌てた声を出しながら、勢い良く抱きついて、いや飛びついてくるから……。わたしは「ぎゃん!」と情けない悲鳴を上げ、顔から床に突っ込んだ。
「ちょ、ちょっと! 拓海くん!」
「ごめん! 盗み見てごめん! 色々ごめん! 謝るから帰らないで!」
「わかっ、分かったから離して! 重いし! おでこ打ったし!」
押し倒されるなら良い。ふたりきりの部屋で恋人に押し倒されるのなら、ムードもある。
でも勢い良く飛びついてきた拓海くんは、完全にわたしを押しつぶしていて。お互い畳にうつ伏せて格好悪い。
そんな恰好悪い状態でも、耳にかかる拓海くんの息と、お風呂上がりでまだ熱気を持った身体のせいで、どうも心中穏やかではない。
「今度からはディスク越しじゃなくて、真っ直ぐ千尋を見るから」
そう言って拓海くんは、下敷きになっていたわたしの身体をぎゅうっと抱き締め、ちゅ、というリップ音を、わたしの耳に響かせたのだった。
わたしもそれを受け入れ、拓海くんの頬に耳を摺り寄せた。
早寝するのは、諦めた。
(了)
【世界は広かった】
最近運動不足だったから、近所をあちこち走って、汗だくで部屋に帰って来た。プロテインを飲んで、さあシャワーを浴びようと服を脱いだ、そのとき。
何の前触れもなく、突然、ガチャリとドアが開いた。入ってきたのは中学高校、さらには大学まで一緒だった同級生。
その子は挨拶もなしに「今日は暑いねぇ」なんて言いながら、持っていたコンビニ袋の中身を冷蔵庫に移している。
その子――彩香とはもう十年以上の付き合いで、社会人になってからもしょっちゅう飲みに行ったりお互いの部屋を行き来したり。特に学生時代から住んでいる、築三十年、木造二階建てのアパートは「良い感じに古くて狭くて落ち着く」らしく、彩香はしょっちゅうここに来ていた。
だから今日みたいに何の前触れもなく遊びに来るということも初めてではないけれど……。
今オレはシャワーを浴びようとしていて、風呂場で服を脱げばいいのに、今日に限って部屋のど真ん中で全裸になっていて……。
長い付き合いの友人とはいえ、男と女。全裸で部屋のど真ん中にいた同級生をガン無視というのは、いかがなものだろう。
それなのに彼女は恥ずかしがる様子もなく、「アイスも入れといたよー、あとで食べよ」と言いながらオレの横を通って、ソファーに沈んでテレビを付ける。
「いや、あの、ちょっと、オレ……着替え中なんっ……」
動揺するオレと、
「あー、いいよいいよ。続けてどうぞー」
気にせず寛ぐ彼女。自宅か!
「いや、おまえ一応女でしょ! ちょっとくらい恥ずかしがって!」
「え、何を?」
「だから、オレ、今、裸……!」
「だって智輝の裸なんて何度も見てるし」
突然の衝撃発言に「きゃーっ! もうオヨメに行けない!」とジョークで返すけれど、彩香は「勘違いしないでよ」と、完全無視で話を続けた。
「みんなで海やプールに行ったときに何度も上半身見たし、二十歳のときにみんなで飲んだときは酔っ払って全裸で踊ってた。ああ、あとお祭りでふんどし姿も見たし、去年酔っ払ってお風呂で溺れかけてたあんたを助けたのはわたし」
「え、ええ? そうなの……?」
「だからあんたの裸見てもなんともないよ」
「そ、そうなの……」
「智輝って酔っ払うと脱ぐ癖あるじゃない。あれそろそろやめたほうがいいよ」
「そ、そうだね……」
相次ぐ暴露でオレはすっかり恥ずかしくなって「あああ……」と声を漏らしながら両手で顔を覆う。
彩香は呆れるような目でちらっとオレを見て、またすぐテレビに視線を戻したけれど、すぐに何かを思い出したように立ち上がる。
「ねえ、空、見た?」
「へ? 見てないけど」
言うと彩香はオレの手を引いて、ベランダへ進む。えっ、ちょ、オレ、はだか……!
やっぱりそんなのお構いなしの彩香が差した指の先にあったのは、……
「今日の空は、とってもきれい!」
だいだい色の空と、同じ色に染まったいわし雲だった。その美しい空を見上げた彩香の笑顔も、だいだい色に染まっていた。
それを見た瞬間、なぜだか心臓がばくんと鳴った。
その子は笑顔で、ずかずかと土足で、オレの心に入ってきた。
ああ、世界はなんて広いんだ。
(了)
【愛が痺れた】
数日前、ニュース番組で「働く女性の栄養不足」という特集を見た。
首都圏で働く女性の食生活について調べたところ、多くの人が一日に必要なエネルギーを摂取していないという結果が出たらしい。その結果は、終戦直後よりも栄養飢餓状態らしい。
アナウンサーの女性が、一日に必要なエネルギーや、働く女性たちの実際の食事内容について話しているのを見ながら、わたしもそうだったな、とぼんやり考えていた。
以前のわたしもきっと、必要なエネルギーを摂取できていなかった。
仕事に追われ、口にするのは、デスクで手軽に食べられる菓子パンやサラダやヨーグルト。朝や昼を抜く、ということもよくあった。
それでもまあ元気に仕事ができたし、そもそも料理をしている時間が勿体ない。胃に何かを入れたら空腹は凌げるし、足りない栄養はサプリメントで補えばいいか、くらいにしか思っていなかった、のだけれど。
友だちの紹介で真次くんと出会い、付き合うことになってから、そんな生活は180度変わった。
真次くんは市内にある人気のレストランで、メインシェフとして働いている料理のプロ。そんな彼の料理を食べたら、今まで味わったことがないような幸せに包まれた。美味しい料理を食べるという行為が、生きていく上で何よりも幸福なのだと知った。
一日三回、一年で千九十五回。間食を含まなければ、それだけしか食べる機会がないのだから、毎食美味しいものを食べたい。そう思わせてくれたのは、他でもない真次くんだ。
それからレシピ本を買って、朝晩あれこれ作り始めた。昼は残り物をお弁当箱に詰めて持って行ったり、同僚たちと外に食べに行ったり。
そうしていたら、ちょっとした肌荒れが治った。どの化粧水を使っても治らなかったから、こういう肌質なのかもしれない、と思っていたけれど、そもそも食生活が良くなかったらしい。
わたしが楽しく料理をしていると知った真次くんは、わたしの料理を食べたがった。
目も舌も肥えたプロに、料理を始めたばかりの素人の料理を食べさせたくはなかったけれど、真次くんが「美味い!」と満面の笑みで言ってくれるから。嬉しくなって、ますます料理に夢中になった。
食後のコーヒーも、粉末をお湯で溶かすものから、コーヒー粉をドリッパーとフィルターを使って抽出するものに変えた。コーヒーなんて、インスタントだろうが缶コーヒーだろうが大差ないと思っていたのに。ドリッパーでじっくり抽出したコーヒーの美味しいこと美味しいこと。
それからは好みの味を見つけるため、あれこれ豆を買い漁った。布フィルターを使ったネルドリップや、色々な形状や材質のドリッパーを試してみたりもした。
少し前まで、胃に何かを入れたら空腹は凌げる、なんて考えていたのに。劇的な変化だ。
そんな「食」の楽しみを教えてくれたのは、紛れもなく真次くんだ。
真次くんとは、これから先もずっと一緒にいたい。ずっと真次くんの「美味い!」が聞きたい。
一日三食、年間千九十五食を、真次くんと一緒に食べたいと。最近いつも思っている。願っている。
そんな、ある日の夜。後片付けを終え、濡れた手を拭きながらふと見ると。なぜか真次くんが正座をして、深刻な面持ちでこちらをじっと見ていた。
「え、なに?」
首を傾げると、表情を変えないまま手招きする。素直にそれに従い、彼に倣って正座をした。
が。話は切り出されない。いつまで待っても切り出されない。
「……ええと、真次くん?」
「……」
「……何事?」
「……、……」
何か言いたいことがあるのは分かる。すう、と息を吸っては、はあ、と吐きを繰り返し、視線をふわふわとさ迷わせる。その目は瞳孔が開いていて、心なしか頬も赤い。そんな頬ですうはあはすはす繰り返しているから、はたから見たら不審者っぽい。
「真次くん……」
もう十分経つよ、足が痺れてきたよ、と言いかけたところでようやく「あ、」と真次くんが発言した。
「あ?」
「け、っ」
「け?」
「……っ、……っ、……、……」
「……」
救急車とまではいかなくても、共通の友人だとか、彼の店の店長さんを呼んで、診てもらったほうがいいだろうか。
こんなにすうはあはすはすされたら、こっちまで呼吸がおかしくなりそうだ。はすはす。
「あ、あの……さ、け、けけ……っ、」
「毛?」
「けけっ、けこっ……」
「……」
ああ、そうか、分かった。彼が言いたいことが。彼がどうして瞳孔を開いて、頬を赤くし、すうはあはすはすと奇妙な呼吸をしているのか。女の勘は鋭いと言うけれど、これじゃあ誰だって分かるだろうけど……。
「うん、わたしも真次くんと結婚したい」
「……っ、……っ、……!」
言葉を待たずに返事をすると、真次くんは目を見開き、口を開けて、心の底から驚いた、という顔をした。
「あれ、違った?」
「ななな、なんで分かったの……!? お、俺が、恰好良く決めようと……!」
「もう、すうはあはすはすしてる時点で分かるから。ばれるから。あいてて」
ようやく足を崩して、痺れた足を擦る。普段正座なんてしないから、ものの十数分で、自分のものとは思えないくらい痺れてしまった。
「でも、真次くんはわたしでいいの?」
言うと彼は拳を握って「唯がいいの!」と大声で主張する。
「仕事もあるしなかなか思うように会えないけど、結婚して一緒に暮らしたら、ちゃんと毎日会えるから! 今の俺の身体の五割くらいは、唯が作る料理でできてるから! それを七割八割九割と上げていきたい! 毎日唯の料理が食べたい!」
さっきまでのすうはあはすはすは何処へやら。主張の勢いのままわたしの手を握り、真次くんはそんなプロポーズをしてくれた。
なんて嬉しいプロポーズなのだろうと思った。
プロの料理人である彼が。料理を食べたみんなを笑顔にする彼が。わたしの料理を食べたいなんて。わたしの料理で身体を作っていきたいだなんて。こんな誉れは他にない。
足の痺れ以上に、心が痺れて仕方ない。
「ありがとう。うれしい」
胸がいっぱいで、そんな簡単な返事しかできないのが申し訳ないけれど。大好きな彼と、ずっと一緒にいられるという幸せを。一日三食、一年千九十五食、彼と一緒に食べられるという喜びを。言葉になんてできないんだ。心が痺れる、なんて初めての経験で、どうしたらいいのか分からないんだ。
満面の笑みで頬を染める彼に抱きつこうとしたけれど、足が痺れているせいでよろけて、胸に激突してしまった。
そんなわたしに真次くんは、ここぞとばかりにぎゅううと抱きしめる。わたしも、よろけて傾いた姿勢のまま、彼の背中に腕を回した。
体勢はきついし、心も足も痺れているけれど。今はただ、彼の腕の中にいたかった。
しばらくそうやって抱き合いながら、先のことを考えた。
「……結婚するなら、引っ越さないとね」
「ん。俺の部屋もちょっと狭いから、ふたりで暮らせる部屋、探しに行こうか」
「そうだね……」
築三十年、木造二階建てのアパートには、大学時代から住んでいる。
通っている大学が近かったし、バス停もすぐそこ。駅までもそれほど遠くない。近くにはスーパーもコンビニも郵便局もあるし、住宅街にあるから騒がしくもない。
大学を卒業して、就職してもここに住み続けていたのは、ここが気に入っていたからだ。他の住人たちもそうだと思う。実際、郵便受けの前や廊下や近所で会う顔ぶれは、もう何年も変わっていないし。……、……。
そんな場所を離れるというのは、少し寂しかったりする。
それでもわたしは、この人と一緒に暮らすため、ここを出て行く。新しい場所で、新しい生活を始める。
わたしが新しい生活を始めた頃、この部屋にはどんなひとが住むのだろう。
日々変わっていく未来に思いを馳せながら、静かに目を閉じた。
(了)