503号室の奥には、誰もいない、白いベッドがあった。


その空っぽのベッドの横の窓からは、桃色の桜の木々が見える。


ゆっくりと近づけば、枕元に、もうしおれてしまった桜の花が入った、小さな小瓶が置いてあった。


どこかで誰かがむせび泣く声が聞こえてくる。


わたしはそっとその小瓶に触れてみる。


冷たい感触のはずなのに、なぜか、誰かのぬくもりが感じられるような気がした。


思うように動かない指先に力を入れて小瓶の蓋を開ければ、微かに甘い香りがする。



『穂花、一緒に見てくれる?来年も、再来年も、ずっと、見てくれる?』



桃色のベールを身にまとった木々たちを瞳に写せば、胸の奥がきゅっと音を立てる。


側の棚に悠の携帯があるのを見つけて、震える手で思わずそれを手に取ってしまう。

色褪せた桜模様のケータイケースは悠の誕生日にわたしがプレゼントしたもの。


もうなんども入力したパスワードは、『I K I R U』


なんども間違えながら入力すると、画面いっぱいに、桜の刺繍のしてある青い帽子をかぶった悠の顔が現れた。


身体中の血がドクドクと巡回し始め、頭皮がピリッとする。

ど、うして…

無意識に再生ボタンを押す自分を、どこか遠くで見つめている錯覚に陥った。


『穂花〜!』


悠の無邪気なその声を聞いた途端、体の力が抜けて、わたしは病室の冷たい床に泣きながら崩れ落ちた。


『お前がこれを見てるってことは、そだなー、俺は、天国行きかなあ。』


そう言って笑う悠が心から笑ってないことを知っているから…


今では悠のいないベッドにいつの日かみたいに背をつけて泣き続ける。


『ははっ…実感…わかねえよな。』


悠の顔が見えなくなるくらい泣いて、視界が霞むけれど、光を灯していない悠の瞳だけははっきりと見えて。


『俺も…わかねえ。』


悠の綺麗なビー玉みたいな瞳が赤みを帯び始めるのを見てられなくて。


『寿命が半年なんてさ…信じてらんねえよ。』


「悠っ…っ。」


きっとこれを録画したのは半年前の冬。それからずっと、毎晩、携帯の電源を切る前にこの動画を表示していたその姿を思い浮かべると、あまりの悲しさにおかしくなりそうになる。

毎回、明日はいないかもしれない、と、そう思いながら眠りについていたのかと思うと、自分が何もできていないことに腹がたつ。


『穂花…お前、言ったよな。俺はヒーローだって。』


くしゃっと笑う悠が映る。


『俺は、ヒーローなんかじゃねえよ、もともと。』


悠は少し切なそうに微笑む。


『俺さ、いつも家族に心配かけてるんだ。高校一年生の春、穂花の家に夜遅くまでお邪魔した時だって、海に泳ぎに行った時だって、全部お母さんに泣かれた。』


悠は目尻に浮かんだ涙を拭おうともしない。


『それでも、俺は、お前の側に居たかった。なるべく普通でいたくて、お前よりも強くいたかった。』


そこまでしてっ…そこまでしてわたしの隣にいてくれなくてもよかったのにっ…っ。


『バカだよな。』


ははっと空笑いする悠を大丈夫だよって抱きしめたいけれど、わたしの横に悠はもういない。