路地裏を飛び出した二人は町中を走る。

 わざと捕まり、敵の数を把握していたユンジェに対し、ティエンは町の地形を把握していた。この時のために町人にでも聞き込みをしたのだろう。
 今日来たばかりとは思えない足取りで、彼は先導に立つ。

 それだけではない。ティエンは少しでも時間を稼ぐため、とりわけ小道と周囲の環境を熟知していた。

 目つぶしを食らったにも関わらず、距離を詰めて来るカグムとハオの行く手を塞ぐため、小道に入るや、酒を造るために用意されていた空の樽を引き倒して蹴飛ばす。

「おいおい。ピンインさまって、おとなしい王子さまって聞いてたんだけどっ」

 かろうじて避けたハオに狙いを定め、ティエンは頭陀袋から投てきを取り出して、それを振り回して輩の足元に放った。
 布紐を繋ぎ合わせたお手製の投てきは、先端に石の錘がついており、足に絡むと相手の体勢を崩すことができる。

 ハオは見事にずっこけていた。素っ頓狂な声を出し、両の足に絡まった投てきを外しにかかっている。

 彼の代わりに、カグムが距離を詰めてくる。
 ティエンは短剣を抜いて横一線に振った。

 反射的に後ろへ飛躍する彼を追い、もう一度、短剣を振ったティエンは努めて冷静であった。彼は憎しみを込めて、カグムを追っていたのではない。隙を作るために距離を詰めたのだ。

 それに気付いたカグムが、「くそっ」と舌打ちをし、視線を下げる。そこには懐剣を構えたユンジェが潜り込んでいた。

「ティエンはもう、お前の知っている弱い王子じゃないぜ。カグム」

 口角をゆるりと持ち上げ、懐剣を突き刺す。
 寸前のところで、カグムが太極刀を軽く抜き、それを受け止める。刃は届かずに終わった。本気で刺せなかったのは、心のどこかで、彼に世話を焼いてもらった恩義を抱いているからだろう。

 すかさず、ティエンが輩の体を蹴り押す。
 よろめいた隙に、二人は走った。小道の奥へ進み、今度は積み上げられた箱荷を押した。それは道具の入った箱で、輩達が来る前に崩れてしまう。

 塞がった道の向こうで、王子の名を呼ぶ声が聞こえた。ティエンはそれに応える。


「私は私の意思で生きる道を決める。貴様等の言いなりなんぞ、まっぴらごめんだ」


 言い切る彼は誇らしげであった。


「はあっ……やってくれますね、ピンインさま。ユンジェの影響で、すっかりやんちゃになられて。おいハオ、いつまで遊んでいるんだ。まだ取れないのか、それ」

「うるせぇな! いま、短剣で切るつもりだよ!」


 遠回りを強いられる追っ手は、指笛の不規則な音を鳴らした。
    

 町中に聞こえるような、その高い音は、離れている仲間に何か合図を送っているのだろう。

 それを耳にしたティエンは、勝手に人の家の敷地に入ると、身を屈めて石壁に身を潜める。
 程なくして、王子の行方を探す声が二つ聞こえた。ティエンが小石を拾い、追っ手を確認して向こうへ放る。

 足音が遠ざると、彼は急いで反対側の石壁へ走り、これを乗り越えると告げた。

「この家の先に商人用の門口がある。そこは多くの商品を運ぶための門だ。そこまで行けば、見張りの目を掻い潜って外に出られる」

 すでに彼の息はあがっていたが、音を上げる様子はない。
 おうとつの激しい石壁を、ユンジェの手を借りながらのぼり切ると、休む間もなく門口まで誘導してくれる。

 ユンジェは逞しくなったティエンの背中を見つめ、人知れず頬を緩めた。

(ティエンが助けてくれると分かっていたから、わざと捕まったんだけど……本当にお前は頼もしくなったな。正直、ここまでとは思わなかったよ)

 過去のティエンのことなど、ユンジェは何一つ知らない。
 彼がどのように孤独であったのか、さみしい思いをしていたのか、つらい境遇に立たされていたのか、この目で見たわけではない。

 想像するに昔の彼は本当に弱々しかったのあろう。

 そして、それを見守っていたカグムは、王子は弱く守られる存在である、と頭に刷り込まれていたのだろう。

 だから油断をしていたに違いない。何もできない王子だと思い込んでいたに違いない。

 誰が想像しようか。
 非力な王子が屋根から奇襲を掛けてくる、など。小道を把握し、それを利用して撒こうとする、など。

 追い詰められれば、道具や武器を使い、力強い抵抗を示す。

 これのどこが弱い王子であろうか。

 今のティエンは生きることに貪欲だ。
 周りから死と望まれようが、利用されるために求められようが、己の力で生きる意志は固い。自由に生きるため、少しでもその可能性に縋ろうと、ユンジェと共に旅を続ける。
 いつかまた、知らない土地で作物を育て、静かに暮らすことを夢見ている。

 ああ、目の前のティエンはとても強い男だ。ユンジェは自信を持って叫びたい。

「ユンジェ。何を笑っているんだ?」

 振り返るティエンが、不思議そうな顔で見つめてくる。ユンジェは小さく噴き出し、右の手を出した。

「ティエンに助けてもらったことが、すごく嬉しくなったんだよ。ありがとうな」

「何を突然。ユンジェはいつも、私を助けてくれているだろう? 礼を言われるほどでもないんだが」

「いいから受け取っておけって。俺は助けられて、すごく嬉しいんだから」

 ますます不思議な顔を作るティエンだが、差し出された手の意味は察したのだろう。軽く手を振り上げると、差し出したその手を叩いた。


 乾いた音が心地良くて、ユンジェはまた一つ笑ってしまった。