ユンジェは早足で来た道を戻り、油屋の裏手へ回る。
そこには油を入れるための、空の樽がずらりと並べられていた。誰もいないことを確認すると、突き上げ戸の下まで大樽を引きずり、それに身を隠しながら耳をすませる。
微かにではあるが、会話が聞こえた。
「ええっ。よく店に来る農民の小僧が、確かに美しい男を連れていたんですよ。そいつぁ顔をいつも、隠すように頭から布をかぶっているんですがね。あたしゃ確かに見たんです。そいつの綺麗な顔を。まるで女のような顔でしたよ」
物音と足音が交互に聞こえる。
「人毛屋の主人が、ピンイン王子らしき男の髪を切ったそうです。もう、一年も前になるそうですが」
慌ただしい足音が複数になった。
「農家をしらみ潰しに行け。ピンイン王子は、農民に化けている可能性が高い」
目の前の大樽に爪を立て、ユンジェは何度も深呼吸を繰り返した。
落ち着け、冷静になれ。けれど急いで考えろ。ティエンが何者であるか、そんな二の次、三の次。彼に危険が迫っていることを知らせなければ。王子の可能性を否定し、逃避している場合ではない。
ティエンが危ない。
(町では決して取り乱すな。走るな。焦るな。誰が見ているか分からないんだ)
おかしな態度を取れば、油屋の店主達のように、誰かがユンジェのことを知らせてしまう。
(だけど、早く町から出ないと。俺の顔は、商人達に知られている)
ふと、背後にぞくり、と悪寒のするような視線を感じた。まさか盗聴している、この姿を見られているのでは。
慌てて振り返る。誰もいない。おかしい。確かに、冷たい視線を感じたのだが。
(ここにいるとまずいな)
ユンジェはすくりと立ち上がり、音を立てないように移動を始めた。なるべく人通りが少ない道を選び、周囲を警戒しながら町を出る。
森の中に入り、町の姿が見えなくなったところで駆け足となった。
天を見上げると、黒い色の雲が青空を食らい尽くそうとしている。さっきまで、あんなに晴れていたのに。もうすぐ一雨くる。
半分まで来たところで、馬の鳴き声と蹄の音が聞こえた。
道から外れ、草深い茂みに身を投げると、瞬く間に三頭の馬が通り過ぎていく。
鎧を着た人間達が見えたユンジェは、抑えきれない恐怖と、それをねじ伏せる冷静の中で葛藤していた。
ティエンが危ない。早く危険が迫っていることを伝えなければ。
その一方で、ここで冷静にならないと、余計な事態を招くと叱咤する自分がいる。
結果、ユンジェは獣道を無我夢中で走った。
抱えていた小壷を捨て、息が切れるまで、切れても尚、走り続ける。肺が引き攣り、痛みを感じた。構わなかった。
馬よりも早く家に着くことができれば、いくらだって痛みなど我慢できる。
(お願いだ! ティエン、逃げてくれっ。あいつらが来る前に!)