あのとき離した手を、また繋いで。





君のことなんか、忘れたかった。

できることなら君と出会う前に戻りたかった。

君への想いなんか、すべて消えればいいと本気で思ったよ。



だけど、そう願えば願うほど、君の存在は色濃く私の心中に刻まれていった。



……ねえ、覚えてる?


高校生だった私たち。
あの頃の私たちはまるで世界にはふたりしかいないみたいに、溺れるように恋をしたね。



はじめて大切な人ができた。
生まれてはじめて信じてなかった"永遠"を信じてみたいと思ったの。



だけど、絶対に離したくないと思った手を、私は、私から手離した。



もしもひとつだけ、願えば叶うのなら、私はまた君と恋がしたい。



こんなこと言うと君は笑っちゃうかもしれないけど、私は今でも君が大好きなのです。



会いたいです、とても……君に。



私じゃない女の子の隣で笑う、君に。









*・*・*・*・*・*・*・*




だって信じてなかったんだもん。

恋とか愛とか友情とか、そんな目に見えないもの。

信じられるわけがなかった。


だけど真っ直ぐな愛をくれた君に、私は溺れるように恋をした。




第1章「導かれるように君に、恋をして。」


*・*・*・*・*・*・*・*







「ねぇ、橘モナって知ってる?」

「あの2組の美人でしょ〜?知ってる知ってる」

「エンコーしてるって噂だよ!」

「え、うそ!?ちょー歳上のカレシがいるって噂もあるよね!?」

「おじさんでしょ!?もしかして不倫かな!?」



……出た、まただ。


トイレの個室にて聞こえてきたくだらない噂話。私はそばにいる彼女たちに聞こえないようにそっとため息を吐いた。


彼女たちは今まさに自分たちが噂をしている"橘モナ"が目と鼻の先にいるなんて露ほどにも思っていないのだろう。


それが彼女たちの遠慮のない笑い声や声量で伝わってくる。


このデタラメな噂話、1年生の頃からあるけど一体誰がなんのために流しているのだろうか。


されている私としてはなにひとつ面白くない。迷惑なだけ。
お陰様で高校2年生になっても友だちすらひとりもいないままだ。


ああもう、用も終わったから出たいのに、彼女たちのせいで出られない……。


落胆のため息を深くついて、私は無意味にその場に留まった。
しばらくして彼女たちの気配が遠くに消えたのを確認してから、トイレの個室からようやく出ることができた。


なんで私が気を使わないといけないんだって感じだけど、でも鉢合わせて面倒なことになるのはもっと嫌だ。


手を洗うとき、目の前にある鏡に映る自分を見る。


……見た目が派手だからかな。


自分で言うのもなんだけど、目は大きいし、整った顔をしているのは認める。心の中で謙虚になっても仕方ないし。


食が細いから、身体も細い。母親に似て、肌の色も不健康なほど白い。


胸元まである長い髪の毛はもともと色素が薄く、茶髪にしようと染めたのに、なぜか金髪になってしまったのはつい最近のこと。


これじゃあ噂に拍車をかけるだけだとわかっているのだが、染めたばかりでまたすぐ染めなおすと髪も傷んでしまうので今はそのままにしている。




ーーキーンコーンカーンコーン。


鳴り響くチャイムに、慌てて教室に向かった。
急いで教室に駆け込むと、先生はまだ来ていないようでホッと胸をなでおろす。


だけど少し遅れてクラスに入って来た私にクラスメイトから痛いほどの視線が注がれる。


……そんなに見なくてもいいじゃん。すこし、遅れたぐらいで。


心の中で毒づいて、居心地の悪い空気を全身でひしひしと感じながら自分の席に着いた。



「ギリギリセーフだったな!」



机の中からこれから始まる数学の教科書とノートを取り出していると、無邪気な声がとなりの席から飛んで来た。


私は肩を揺らして驚きながら"またか"と、かけられた声を大胆にも無視した。



「なにしてたのー?トイレー?」


「…………」


「大きいほうー?小さいほうー?」



……それ、女の子に聞くか、普通。


能天気なその声にイライラしながら、私は頬杖をついて窓の外に目線を投じた。


季節は春だ。4月がもう終わろうとしている。新学期が始まったのはつい昨日のことのように感じるのに。
校庭の脇にそびえ立つ桜の木のピンク色も、寂しくなってきている。


そのまま物思いに外の風景を見つめていると、

「ねえー、ねえー」

能天気な声がまた、かけられた。


こんなにもあからさまに無視しているのに、懲りずに話しかけてくる彼。私はイラつきを隠せずに、眉間にシワを寄せた。



「たーちーばーなー」


「…………」


「えっと、んー、じゃあ……モナ?」


「……!」



呼ばれた下の名前に反応して思わず彼の方を見てしまった。ぶつかる視線にドキッ!と胸が高鳴る。


それに嬉しそうに顔を緩ませてニンマリさせて「ふふふ、ようやくこっち向いてくれた」なんて笑って喜んでいる彼。


肩の力が抜けるようだ。





なにがそんなに嬉しいの……。



「モナって呼ばれたほうがいい?」


「……よく、ないし」



目線をそらしながら控えめに声を出すと、さっきまでの勢いはどこかへいったように彼が黙るから、気になって見ると口元を手で隠して瞳を輝かせている。


不思議に思って首をかしげたら「喋ってくれた……!」なんて感激したように言うから、面食らって、恥ずかしくなって、顔をそらした。


なんだこの人!絶対私のことバカにしてる!

……ああ、もう、絶対喋ってやんない……!!


そう心に決めたとき丁度先生が額に汗をにじませながら「遅れてすまん」と教室に入ってきた。


その後もとなりの席から熱い視線をひしひしと感じたけれど、堂々と無視を続けた。


彼の名前は緑川夏希(みどりかわなつき)。
今年はじめて同じクラスになった男の子だ。


大きな垂れ目と、左目の下に泣きぼくろがあるのが特徴。


彼の名前は1年生のときから知っている。
だって彼は友だちがいない私にも情報が入ってくるほどの人気者なのだ。


誰とでもすぐに仲良くなってしまうフレンドリーな性格でクラス替え初日にはもうクラスの中心にいたし、彼の周りはいつも人で溢れている。


男女問わずに人気だ。
飾らない仕草や態度。誰にでも優しく接する姿はやはり目を惹く。


いつもひとりでいる私にすら、毎日変わらずに話しかけてくる。
"おはよう"から、"また明日"まで、毎日欠かさずにだ。


一貫して無視を貫き通しているのにも、関わらず。


私はそんな彼のことが苦手だ。だって私と正反対の人だから。


明るくて、天真爛漫で、人気者なのにそれを鼻にかけている様子もない。


ありのまま生きていることがダイレクトに伝わってくる。





『あっ、橘さんがとなりなんだ!俺、緑川夏希!よろしくな!』



はじめて話しかけられたときのことは、今でもはっきり覚えている。


自分の立場を全然理解していないその言葉。
君のことを知らない同級生なんていないっていうのに、自己紹介してきたりして。


とびっきりの笑顔で、私に話しかけて来た。


私はそれが無性に気に食わなくて、無視をした。


嫌われればいい。正直本気でそう思った。


日向と影。太陽と月。朝と夜。
彼と私はまさにそんな比喩が似合う。


君は眩しくてたまらない。

同級生から変な噂を立てられてひとりでいる私なんかと真逆な、君。


どこにも居場所なんかなくて、ひとりぼっちの私は、どこにいても輝いている彼が疎ましくてたまらない。


彼の明るさが、私の暗さを浮き彫りにしている。そんな気がして、仕方ないのだ。


それがただの嫉妬だということは、知っている。



「緑川、まーたお前は課題忘れたのか」

「へへへ、すんませーん」

「おま、それが謝る態度か?」

「すんませーん」



怒られているのにヘラヘラしていて、先生も呆れた様子で参っている。


それを見守るクラスメイトも、クスクス笑って空気が和やかだ。


……わからない。


先生に怒られているのに、どうしてこんな雰囲気にできるの?

どうして笑っていられるの?


ほんと、生きることが楽しいって、全身から伝わってくる。


彼のような性格だと、見えている世界も違ったりするのかな。





「へへ、怒られちった」



先生が中断していた授業を再開させた。
となりの席の彼が私のほうを見ながらそう小声で言った。


私はそれを横目で見て、前に向き直す。



「つい課題のこと忘れちゃうんだよなぁ」

「…………」

「なんでかなぁ、やらなきゃって思うほど頭から抜けるんだよなぁ」



無視し続けているのに、かってにひとりで喋り続けている。


……かと思うと急に黙り込む彼にそっととなりを見ると、右頬を机にくっつけた状態で眠っている。


寝てるし!なんなの、この人、ほんとに!
マイペースにもほどがあるでしょ!



「…………」



でも、寝顔は、綺麗だな……まつ毛長いし。


頬杖をついたまま、目をつむっている彼を凝視した。


黒い髪の毛は風にふわふわと揺られている。
左目の下にあるホクロ、薄い唇は緊張感なんてなく、すこし開いている。


きっと、周りを自分のペースに巻き込むのも、周りのペースに合わせるのも上手いのだと思う。


黙っていれば整った顔をしているのだから、もう少しスマートな紳士に見えなくもないのに。


あ……先生きた……また怒られるぞ。



「緑川!!」

「は、はい…!?」



すぐそばまで来て耳元で怒鳴った先生に対して、彼が飛び起きる。
その様子に教室中が笑い声で包まれた。


……呆れた。やっぱり、バカだ、この人。



***



窓際の一番後ろの席。それが私の席だ。

誰にも干渉されない、一番良い席だとクラス替えした当日は思っていたのに。



「モナ、おはよ!」



彼がとなりの席のお陰で、最悪の席になった。