一気に階段を駆け上がり、部屋に飛び込むと、私は後ろ手に扉を閉めた。
 自分の足音が大きすぎて尚生が追ってきているかどうか音では分からなかったからだ。でも、確かに感じる尚生の気配は動いておらず、追いかけて来てドアー越しに立っているという事はなさそうだった。
「何があったんだ?」
 着替えを済ませたばかりのお兄ちゃんの問いに、私はお兄ちゃんの胸に飛び込んだ。
 いつもより体温が高く感じられるお兄ちゃんの体は、いつもと違ってグラリと揺れた。
「危ない!」
 お兄ちゃんは言うと、私を抱きしめたまま、布団の上によろけて倒れた。
「お兄ちゃん?」
「ああ、なんか今日は熱っぽくて、帰って来たんだ」
 一度横になってしまうと、起き上がるのが辛いようで、お兄ちゃんは腕を解いて私を自由にしてくれると、自分はそのまま大の字になって横になった。
「お兄ちゃん、大丈夫?」
「ああ、電子レンジで温めたら食べられるものをまとめて買って来てあるから、食事のことなら心配しなくていいぞ。お前は、宮部さんと一緒に外で食事でもして仲直りして来ればいい」
 尚生さんと私の事を本当に交際していると信じているお兄ちゃんの言葉に、私は胸が苦しくなった。
「あのね、なお・・・・、宮部さんとは別れたの・・・・・・」
 私が言うと、お兄ちゃんは困ったような表情を浮かべたが、すぐに笑顔になった。
「いいか、さや。恋人ってのは、俺とは違うんだ。楽しい時もあれば、喧嘩したりすることもある。嫌なこともあるし、悲しいこともある。もちろん、嬉しいこともある。でも、喧嘩するたびに相手を嫌いになったり、別れたりしてたら、それで終わりになっちゃうこともあるんだ。俺なら、どんなことがあっても、さやから離れたりしないし、さやを嫌いになったりはしない。それは、俺がさやのお兄ちゃんだからだ。でも、宮部さんは兄じゃない。いつか結婚して家族になるまで、他人なんだ。だから、俺に接するように感情や考えをそのままぶつけてたらダメなんだ。お前が宮部さんの嫌なことを一つ見つけたとする、きっと宮部さんもお前の嫌なところを一つ見つけてる。だから、お互いに相手の好きなところを一つずつ見つける努力をするんだ。そうしたら、二人でどんな困難も乗り越えていかれる」
 『本当は全部嘘なの』と私は言ってしまいたかったけれど、ぐったりとしているお兄ちゃんを前に、真実を話すことができなかった。
「さや、布団かけてくれるか? 俺、このまましばらく横になりたい・・・・・・」
 お兄ちゃんの言葉に、私はお兄ちゃんに布団をかけ、部屋の電気を落とした。すると、お兄ちゃんは眠りに落ちていき、静かな寝息をたて始めた。
 私は眠るお兄ちゃんの隣に座り続けた。

☆☆☆

 よほど酷い顔をしていたのだろう、帰宅した僕の顔を見た母は、何か言いたそうだったにもかかわらず、ただ『お帰り』とだけ言って自分の部屋に引っ込んでしまった。
 二階の自室に籠り、ただただ紗綾樺さんの事だけを考えた。これで紗綾樺さんの関係が終わってしまうかもしれないと思うと、僕は目の前が真っ暗になった。
 何度も紗綾樺さんに自分の気持ちを伝えたつもりだったし、心からの告白も何度もした。それなのに、『事件の依頼』は終わったから、全ては終わりだと言われると、僕にはどうやって紗綾樺さんに僕の気持ちをわかって貰ったらいいのか分からなかった。
 だって、相手は紗綾樺さんだ。口にしなくても、僕の心を読んで、僕の事なら何でも分かってしまうはずなのに、なんで紗綾樺さんは僕の紗綾樺さんに対する愛をわかってくれないのか、僕には理解できなかった。
「なんでこんなことに・・・・・・」
 呟いてみても、何も変わらない。それでも、何かを言葉にしないと、頭がおかしくなってしまうそうな気がした。
「こんなに好きなのに、愛してるのに、なんでこんなことに・・・・・・」
 病院で何かあったのか? 県警の誰かに姿を見られた? 僕に迷惑がかからないように、他人でいたい?
 考えても、考えても、答えは出ない。
 このまま紗綾樺さんに連絡できなくなったら? このまま紗綾樺さんが電話に出てくれなかったら? 紗綾樺さんが、僕にしつこくされて困っていると言ったら、宗嗣さんなら引越しして姿を消してしまうかもしれない。紗綾樺さんは、占いの館の契約を解約するかもしれないと言っていたし、そうしたら、どうやって紗綾樺さんを見つけたらいいんだ?
 思考がネガティブに走り、どんどん悪い事ばかりが連鎖してくる。
 いっそ、もう一度、今日中に逢いに行って、宗嗣さんに自分は本気で紗綾樺さんと交際していると伝えたら・・・・・・、いや、そうしたら、宗嗣さんに僕が捜査協力を依頼したことも知られてしまう・・・・・・。
 不安と絶望にどっぷりと浸かっていた僕の耳に着信音が響いた。
 紗綾樺さん? いや、この音は署からだ・・・・・・。
「はい、宮部です」
 無視することもできず、僕は電話に応えた。
『及川だ』
「課長・・・・・・」
『さっき、県警から連絡があった』
 課長の言葉に、心臓が止まりそうになる。
『今日の午後、森沢夫人から崇君の捜索願に対する取り消しの申し出があったそうだ』
「取り消しですか?」
『お前の感が当たったんだよ』
 課長は言うと言葉を切った。
『病気の夫人に内緒で、旦那が崇君の養子縁組の話を進めていて、養父母候補が崇君をディズニーリゾートに連れて行って、崇君も養父母を気に入って、いまは養父母の所で何不自由ない暮らしをしているそうだ。お前からディズニーリゾートという言葉を聞いて、警察に子供を売買しようとしている事を気付かれたと思った旦那が夫人にゲロしたそうだ』
 課長の言葉は耳に届いているのに、僕には理解することができなかった。
『明日から、通常通りの業務に戻ってもらう』
 明日! 明日は、紗綾樺さんと話をしなくちゃいけない・・・・・・。
『宮部、聞いてるのか?』
「あ、はい。わかりました。明日から、勤務に戻ります」
 反射的に答えた自分に、僕は自分で嫌気がさした。
『まとまった休暇は、久しぶりだっただろう。お母さん、喜んだか?』
「あ、はい。家中の電球の交換をさせられました」
 答えながら、僕は自分を心の中で罵った。
『休んだ分、仕事が待ってるからな』
 理不尽だ。『勝手に休ませたくせに、なんで仕事を捌いておいてくれないんですか!』と、叫びたかったが、僕は言葉を飲み込んだ。
「かしこまりました」
 僕は自己嫌悪に苛まれながら、課長からの電話を切った。
 仕事に戻ったら、しばらく紗綾樺さんに会う事もできないし、もしかしたら、話もできないかもしれない。
 僕は手の中のスマホを見つめながら、解決方法を考えたが、電話をかける以外の方法を思いつかなかった。
 呼び出し音が数回鳴り、電話がつながった。
「紗綾樺さん、宮部です」
 名乗ってみるが、返事はなかった。
「紗綾樺さん、宮部です」
 もう一度、名乗ってみる。電話の向こうから、かすかな衣擦れのような音が聞こえ、囁くように紗綾樺さんが『わかってます』と答えてくれた。
「紗綾樺さんの言った通り、事件はなくなりました。これで、僕の依頼した、事件への協力は確かに終わりかもしれません。でも、僕が申し込んだ、結婚を前提としたお付き合いは無効じゃありません」
 我ながら、バカバカしい説得だが、これ以外に思い浮かばない以上、仕方がない。
『兄が熱を出して寝ているので、お電話ではお話しできません』
 紗綾樺さんの言葉に、昼間に仕事から帰ってきた宗嗣さんの姿が思い出された。
「明日から、仕事に戻るので、明日はお目にかかれないですが、もう一度、僕と会って戴けますか?」
 僕の知ってる紗綾樺さんは、絶対に約束を破らない。だから、会ってくれる約束を取り付けておけば、必ず逢ってもらえるはずだ。
『わかりました』
「じゃあ、改めてご連絡します」
『はい』
「ここから先は、返事はいりません。ただ、聞いていてください」
 僕は言うと深呼吸した。
「紗綾樺さん、僕が今まで紗綾樺さんに伝えた想いに偽りはありません。僕の想いと、依頼は全く関係ない別物です。確かに、目撃者に話を聞くために、形上の婚約をしたのは事実です。宗嗣さんに、依頼の事が知られないように交際している事にしたのも事実です。でも、もし本当に交際したいと思っていなかったら、僕は紗綾樺さんの提案に賛成したりしませんでした。ただの友達という事にしてもらったと思います。でも、紗綾樺さんとお付き合いしたいという気持ちがあったから、紗綾樺さんの提案に従ったんです。もし、僕が紗綾樺さんを好きじゃなかったら、嘘でも宗嗣さんの前で交際の許可を求めたりできませんでした。だから、依頼の完了と一緒に僕を紗綾樺さんから遠ざけないでください。仕事が溜まっているので、すぐには連絡できないかもしれません。でも、紗綾樺さんと話をできない日、僕はとても寂しく過ごしています。紗綾樺さんと会えない日、僕は孤独に過ごしています。だから、僕の事を嫌いにならないでください。僕にとって、紗綾樺さんが生きる意味ですから」
 言い終わってから、僕は課長の電話の時とは違う自己嫌悪に陥った。
 相手の目を見て伝えるべきことを電話で押し付けるなんて、男らしくないにも程がある。呆れられて、嫌われても仕方ないくらい、バカな事をしてしまったかもしれない。
 返事はいらないと言った手前、紗綾樺さんからの何の返事もない事に文句を言うわけにもいかないし、どう感じたかを聞くわけにもいかない。
「必ず連絡します」
『わかりました』
「失礼します」
 かすかな紗綾樺さんの声が別れの挨拶を告げ、電話が切れる。
 紗綾樺さんへの想いが溢れだし、切ったばかりの電話をもう一度かけて紗綾樺さんの声が聞きたくなる。
 逢いたくて、抱きしめたくて、今まで、一度も成功していないけれど、あの唇に自分の唇を重ねたい。そして、深く紗綾樺さんとつながりたい。
 心と心が交わり、結ばれ、深い絆となるように、永遠に離れることのない比翼連理の鳥のように一つになりたい。
 紗綾樺さんの為になら、どんなことも乗り越えられる。不思議な力も、失った記憶も、失くした過去も。紗綾樺さんを害するすべての物から、僕が盾になって紗綾樺さんを守って見せる。
 僕は立ち上がると、部屋を出て階段を駆け下りた。
「母さん!」
 僕は台所で夕飯の支度をしている母に声をかけた。
「明日も休みの予定だったけど、招集がかかったから、明日から仕事に戻るから。それから、この間話した、片思いの相手だけど、いつか母さんに紹介できるように頑張るから」
 僕の言葉に、母は振り向いて頷いた。
 この時の僕に母が何を見たのか、僕には分からないけれど、母はとても満足そうで、嬉しそうな表情を浮かべていた。

☆☆☆